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リリとロズ  作者: ちよ【kindleペンネーム:白井ちよ】


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5/5

05:リリ

 パタンと小さな音がして扉が閉まると、途端に外の空気が遮られてしまった。さっきまで耳についていた下町の賑やかな喧騒が、急に遠くへ押しやられていく。


私は対面にある革張りの座席へ腰を下ろしたのだけれど、向かい側にセレネが座っているせいで、距離が近く感じられた。実際には近いというほどでもない。普通に座っていればお互いに手が届かないくらいの距離はあるのだから。


 けれど、同じひとつの箱の中に閉じ込められているという事実だけで、なんだか落ち着かない。


 私は馬車なんて代物には今世で一度も乗ったことがなかった。前世の記憶を辿ってみても、こんな立派なものに乗った記憶なんて当然のようにない。そもそも馬車なんてものは、テレビの画面や観光地で遠目に見かけたことがあるくらいで、まさか自分が客として乗り込む側になるなんて思いもしなかったのだ。


 セレネが扉の近くをコンコンと二度指先で叩くと、外から御者が返事をする声が聞こえてきた。その次の瞬間、ぐらりと大きく身体が揺れた。


「うわ」


 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。どうやら馬車が走り始めたらしい。私は転がりそうになる身体を慌てて支えようと、とっさに座席へ手を突いた。思っていたよりも、ずっと大きく揺れるのだ。


 ガタガタと車体が鳴り、ゴトゴトと不気味な振動が身体を突き上げてくる。途中で石か何かを踏みつけたのか、一瞬ふわリと身体が浮き上がることさえあった。


「……」


 私はただ黙り込むしかなかった。馬車という乗り物は、こんなにも激しく揺れるものだったのか。


 もっとこう、優雅で、ふわっと風に乗るような乗り心地だと思っていたのだ。物語に出てくる貴族のお嬢様みたいに、揺れる車内で紅茶でも飲みながら悠々と窓の外を眺めているような、勝手にそんな優雅なイメージを抱いていた。


 けれど現実はお尻は痛いし、振動が内臓にまで響いて腹の中まで揺さぶられる。これなら絶対に乗り物酔いをする人が出てくるはずだ。


 そんな下らない不満を胸の中で膨らませながら、私は向かいに座るセレネへ視線を向けた。すると、彼女は何事もないかのように平然とした顔で座っていたのだ。


 確実に車体は揺れているし、現に彼女の身体も少し上下しているというのに、表情ひとつ変えようとしない。なんなんだこの人は、と半ば呆れながら見つめているうちに、私はようやく一つのことに気づいた。


 ――近くで見ると、この人ってこんな顔をしていたんだ。


 今まで、ちゃんと顔を見ていなかったのかもしれない。


 顔を縁取るきれいな金髪は、明るい日差しの下で見ればもっと淡い色に見えるのかと思っていたけれど、暗い馬車の中では車内に差し込む柔らかな光を吸い込んで、まるで細い糸の束みたいに繊細に見えた。さらさらとしていて、一本一本の質からして私の髪とはまるで違うのだ。


 もちろん、私だって髪くらいは毎日ちゃんと気にかけている。食堂の仕事で油や煙の嫌なにおいがつくから、できるだけ清潔に保つように気を遣ってはいるのだ。それでも、同じ髪という名前で呼ばれているくせに、最初から住んでいる世界が違うのだと思い知らされるようだった。


 セレネがほんの少しだけ顔を動かすと、その瞳が窓から差し込む光を反射した。


 緑色。……いや、ただの緑だけじゃない。少しだけ別の色が混ざり合っているような、なんとも表現しがたい不思議な色合いだった。本物の宝石みたいだな、と素直に思ってしまった。


 けれどそう思った途端、なんだか急に胸のあたりが嫌な気分になってきたのだ。何がそんなに嫌なのか、自分でもうまく説明がつかない。


 私は逃げるように視線を下へ落とした。そうすると、今度はセレネの着ている服が目に入ってくる。


 どう見ても高そうだ。布地の質感が、ただ眺めているだけでもまるで違うことが伝わってくる。服についた飾りだって決して派手すぎないのに、どう繕っても安物には見えない洗練された作りをしていた。


 首元を見ても、耳元を見ても、繊細な指先を見ても、どこを切り取ってもきちんとお手入れがされている。足元に履いている靴だってそうだ。泥ひとつ付いておらず、ピカピカに磨き上げられている。


 ――まあ、馬車に乗って迎えに来るようなお嬢様の靴が泥だらけだったら、それはそれで嫌だけれど。


 そんな余計な思考で気を紛らわせながら、私は自分の足元に目をやった。履いているのは、食堂からそのまま出てきた使い古しの靴だ。当然のように全体が汚れている。さすがに穴こそ開いてはいないけれど、かなりすり減っていた。まだ履けるし、実用性には何の問題もない。


 問題ない、はずなのに。さっきまで何とも思っていなかった自分の靴が、急に惨めでみすぼらしいものに見えてしまったのだ。


 私は気まずくなって、足を少しだけ座席の奥へ引いた。その拍子に、今度は自分の着ているスカートが目に入る。これだって破れているわけじゃない。ところどころ補修の縫い目があるけれど、着られないほど古いわけでもないのだ。いつもの服で、いつもの日常で着ているもの。ただ、それだけのことだ。


 私は無意識のうちに、膝の上に置いていた自分の手を見つめていた。


 赤く荒れている。指の関節は少し腫れて赤くなっているし、爪の周りには小さな擦り傷だってある。毎日冷たい水を使って水仕事をしているから、手の皮膚は乾燥しきってガサガサだ。ひび割れて痛みのある部分だってある。


 別に珍しいことじゃないのだ。下町で働く私にとっては、毎日の当たり前の姿だった。なのに、今はその荒れた手がやけに目について仕方がなかった。私は慌てて膝の上から手を下ろすと、そのままスカートの生地の陰へと隠してしまった。


 セレネに見られたくなかった、私はそのままうつむいた。なんだろう、この気持ちは。いまさら過ぎるじゃないか。私とセレネなんて、最初から何もかもが違うの。


 住んでいる場所も違えば、毎日食べているものも違う。着ている服の質も違えば、働いている環境だって全然違う。そもそも、生まれた身分からして違っているのだ。


 片方はこの土地を治める領主様のお嬢様で、片方は下町の汚い食堂で皿を洗っているだけの娘。そんなこと、出会った最初の瞬間から嫌というほど分かっていたはずだった。だからいまさら驚くようなことでもない。


 なのに、こうして同じ馬車の中に並んで座っていると、嫌でもその違いが目に入ってしまう。


 向かい側に座っていて、手を伸ばせば届いてしまいそうな距離に、私とは全く違う優雅な生活を送ってきた人間がいる。ただそれだけの事実なのに、なんだか無性に嫌だったのだ。


 セレネは私を見下すような態度を取っているわけでもなく、ただ静かにそこに座って、窓の外を眺めているだけだ。それなのに私は勝手に自分の靴を見て、服を見て、荒れた手を見て、勝手に惨めになって嫌な気分になっている。


 ……なんなんだろう、これ。


 私は隠した手を見えなくするように、膝の裏でぎゅっと固く握りしめた。セレネの優雅な姿を見ればまた理由のない腹が立ってくるけれど、彼女が私に何か攻撃をしてきたわけじゃない。だったら、この行き場のない腹立たしさは一体どこへぶつければいいのだろう。


 馬車はガタゴトと音を立てながら進んでいく。外の景色は、いつの間にか見慣れた下町の通りから離れ始めているようだったけれど、私は窓の外を覗き込む気にはなれなかった。向かいに座るセレネも、それ以上は何も言わずに黙っている。


 静まり返った馬車の中で、私はただ自分の手を握りしめ続けていた。


 荒れた手を隠すためなのか、惨めさに対する悔しさからなのか。それとも、ただどう感情を処理していいのか分からないだけなのか。その理由すら、今の私にはまだ分からずにいた。

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