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第八話 シセン族2


 ラーサが僕のそばまで来た。


 手には相変わらずナタを持っていた。

 その刃が、妙に光って見えた。


「さあ、約束通り。尽くしてもらうぞ」


 背筋が冷えた。


 尽くす。

 この村で。

 生涯。


 僕の頭の中に、岩を運ばされる未来が浮かんだ。


「あの……僕は力仕事には向いていないと思うのですが」


 ラーサは僕を上から下まで見た。


「見れば分かる」


 周囲のシセン族が、低く笑った。


 ひどい。

 否定してほしかったわけではないが、即答されると傷つく。


「なら、僕に何をしろと」

「消された家を戻せ」

「……はい?」


 思わず聞き返した。


 消された家。

 意味が分からない。


 ラーサはナタを腰に戻し、顎で村の奥を示した。


「来い」


 僕は助けを求めるようにアリアさんを見た。


 アリアさんは真剣な顔でうなずいた。

 ついてきてくれるらしい。


 それはありがたい。

 とてもありがたい。


 ただ、その横でネローラン殿が何も言わずに立っているのが、少しだけ怖かった。

 助ける気がない人の沈黙というのは、どうしてこうも重いのだろう。


 ディーゼンさんは肩をすくめていた。


「まあ、ぼん。頑張れ」

「誰のせいでこうなっていると思ってるんですか」

「俺だけのせいじゃないだろ」

「大部分はそうだと思います」


 ディーゼンさんは口笛を吹くふりをして、目をそらした。


 絶対に分かっている。


 僕たちはラーサに連れられ、村の奥へ進んだ。


 シセン族の村は、近くで見るほど複雑だった。

 岩場に木の板を渡し、斜面に小屋を並べ、谷の凹凸そのものを生活の場所にしている。


 家々の軒には骨飾りや色違いの紐が吊るされ、風が吹くたびに鳴った。


 王都の街路とは違う。

 だが、この村にはこの村の規則がある。


 ラーサは、村の奥にある小屋の前で立ち止まった。


 他の小屋より少し低く、入口には獣骨を組んだ飾りが掛けられている。

 中へ入ると、乾いた木と古い煙の匂いがした。


 壁際には、木箱がいくつも積まれていた。

 中には骨札、結び紐、削られた木片、小さな石、獣の牙のようなものが入っている。


 僕は首を傾げた。


「これは……?」

「家の記録だ」


 ラーサが言った。


「家の記録?」

「誰が生まれ、誰が大人になり、誰が誰と家を持ち、誰が谷の外へ出たか。シセンは紙に書かん。これで残す」


 ラーサは一つの骨札を手に取った。


 薄く削られた骨に、細かな刻みが入っている。

 端には赤黒い紐が結ばれていた。


「これが家の印。刻みが血筋。紐が出立。石が仕事。黒い紐は戻らぬ者」


 僕は別の札を見る。


 穴の数、刻みの角度、紐の色、結び方。

 一見ばらばらに見えるが、よく見ると規則がある。


 これは帳簿ではない。

 少なくとも、王都の役所で通じる帳簿ではない。


 けれど、記録だ。


「……戸籍に近い」


 僕は思わずつぶやいた。


 ラーサが眉を寄せる。


「コセキ?」

「外の国で、人の家や血筋を記録するものです。誰がどの家にいて、誰の子で、誰と結ばれたか。税や労役にも使われます」

「税を取るためのものか」

「それもあります」


 僕は骨札を見ながら言った。


「国が人を数えるのは、守るためだけじゃありません。税を取るため。兵を集めるため。だから、記録されることは、支配されることでもあります」


 ラーサの目が細くなる。


「なら、ろくなものではないな」

「ええ。ですが、記録がないと、もっと厄介なことも起こります」

「何だ」

「いなかったことにされます」


 小屋の中が、少し静かになった。


「帳簿に名がなければ、税は取られません。けれど、事故があっても、失踪しても、国は知らないと言えます。最初から、そこにいなかったことにできる」


 ラーサはしばらく黙っていた。


 その顔を見て、僕は言いすぎたかと思った。

 だが、ラーサは怒らなかった。


 代わりに、奥の箱から一枚の骨札を取り出した。


 それは他の札より丁寧に削られていた。


 表面に三つの印がある。


 一つは大きく、深い。

 その横に、細く美しい刻み。

 さらに小さな印が一つ。


「兄の家だ」


 ラーサの声は低かった。


「兄?」

「ヨーク。わたしの兄だ。本来なら、兄が族長になるはずだった」


 ヨーク。


 僕はその名前を頭の中で繰り返した。


「五年前、兄は妻と子を連れてニラバへ行った」


 ラーサは骨札を見つめたまま続ける。


「その頃、外では鉱物の値が上がっていた。蒼磁石も、不壊鉱も、何もかも足りなくなった」


 五年前。

 魔族王都シェルカエンの奪還宣言。

 軍事需要の拡大。


 僕は鉱物管理局で見た過去の資料を思い出した。


 あの頃、南大陸の鉱物価格は大きく動いている。

 ニラバの鉱山にも、周辺の労働者が大量に流れたはずだ。


「シセンの若い者も、ニラバへ行った。兄は、あいつらが騙されんように、自分も行くと言った。外の字が読めたからな」

「ヨークさんは、文字が読めたんですか?」

「ああ。谷の者にしては珍しくな。外の契約も、鉱山の印も、少しは分かった」


 ラーサの指が、骨札の小さな印に触れた。


「妻と子も連れていった。すぐ戻ると言っていた」


 戻らなかった。


 その言葉は、ラーサの口からは出なかった。

 だが、小屋の空気がそう言っていた。


「だから、わたしが族長をしている」


 短い一言だった。


「ニラバには問い合わせたんですか」


 アリアさんが静かに聞いた。


 ラーサはアリアさんを見た。


「した。答えは同じだ。そんな者は登録されていない。シセンのヨークなど知らん。妻も子も、鉱山には入っていない」

「そんな……」


 アリアさんが眉を寄せる。


 ラーサの視線が冷たくなる。


「外の者は、そう言う。名がなければ、人もいないらしい」


 僕は骨札を見た。


 ここには、ある。


 ラーサは僕に骨札を突き出した。


「だから、お前が作れ」

「何をですか」

「外の者にも読める形で、シセンの家を記せ。兄がいたことを。兄の妻がいたことを。兄の子がいたことを。消された者たちが、確かにいたことを証明しろ」


 僕は息を呑んだ。


 槍で負けた罰としては、あまりにも種類が違う。

 けれど、僕にしかできないことでもあった。


「……完全な戸籍にはできません」

「できぬのか」

「いいえ。正確には、いきなり国の戸籍にはできません。でも、外の役所に提出できる形の家台帳なら作れます。証言者、家印、出立時期、身体的特徴、同行者、持ち物。そういうものをまとめれば、少なくとも『いなかった』とは言わせにくくなります」


 ラーサは僕をじっと見た。


「やれ」

「……はい」


 断れる空気ではなかった。


「タルボ殿」


 アリアさんが一歩前に出る。


「私も手伝います。骨札や持ち物に残った残穢なら、少しは読めるかもしれません」


 僕は心の底からほっとした。


「ありがとうございます。正直、とても助かります」

「いえ。これは、私も知るべきことだと思います」


 アリアさんの声は真剣だった。


 その時、ディーゼンさんが壁にもたれながら、ぼそりと言った。


「ぼん、俺からもお願いする」


 僕は振り返った。


「ディーゼンさん」

「ん?」

「何か知っているんですか?」


 ディーゼンさんは肩をすくめた。


 その肩の動きが、いつもより小さかった。

 ラーサの目が鋭くなる。


「兄をニラバへつないだのは、この男だ」


 僕はディーゼンさんを見た。


「え?」

「勘違いすんなよ、ぼん。売ったわけじゃない」


 ディーゼンさんは、少しだけ真面目な顔になった。


「五年前、ニラバの鉱山関係の連中から仕事を受けた。谷道に詳しくて、外の字も読める奴はいないかってな。あの頃は鉱山がどこも人を欲しがってた。軍需で鉱物が動いてたからな」


「それで、ヨークさんを紹介したんですか」


「あいつは自分で行くと言った。村の若い連中が騙されないように、自分が間に入るってな。妻子を連れて行くとは思わなかったが」


 ラーサの手が、ナタの柄に触れた。


「止めなかった」


 ディーゼンさんは反論しなかった。


「ああ。止めなかった」


 短い沈黙が落ちた。


 いつもの軽口がない。

 それだけで、ディーゼンさんがこの話を笑い飛ばせないことが分かった。


「兄は戻らなかった」

「お前は何も持たずに戻った」


 ディーゼンさんは目を伏せた。


「悪かった、で済む話じゃないのは分かってる」

「分かっているなら、なぜ来た」

「一人じゃ、どうにもならなかったからだ」


 ディーゼンさんは僕を見た。


「ぼんみたいな役人がいれば、あいつらの名を外に出せると思った。ネロ……いや、ネローラン殿がいれば、ニラバの役所も無視はしにくい。俺だけじゃ、ラーサに首を刎ねられて終わりだ」


「当然だ」


 ラーサが即答した。


 ディーゼンさんは苦笑した。


「ほらな」


 僕はため息をついた。


「つまり、僕は最初から巻き込まれる予定だったわけですね」

「まあ、結果的には」

「結果的に、ではないと思います」

「ぼん、巻き込んで悪かったな」


 珍しく、素直な口調だった。


 僕はネローラン殿を見た。


 彼は小屋の入口付近に立ち、黙ってこちらを見ていた。


「ネローラン殿は、知っていたんですか」

「ある程度はな」


 さらりと言った。


 僕は少しだけ眩暈がした。


「では、最初からラーサさんを説得できたのでは」

「力でか」


 ネローラン殿の声は冷たかった。


 僕は口を閉じた。


「私が命じれば、船は出る。だが、その場合、シセン族は協力者ではなく、従属民になる」


 ネローラン殿はラーサの方を見ずに言った。


「今回必要なのは船だけではない。ニラバが隠したものだ。隠されたものは、怯えた者の口からは出ない」


 理屈は分かる。


 分かるけれど、先に言ってほしかった。

 少なくとも、槍で殴られる前に。


「お前が一撃で倒れたのは予定外だ」

「そこは予定に入れておいてください」


 僕は真顔で言った。


 アリアさんが少しだけ目をそらした。

 慰めようとして、言葉が見つからなかったらしい。


 つらい。


 それから僕たちは、家台帳作りに取りかかった。


 最初に必要なのは、シセン族の記録の読み方だった。


 骨札には家印。

 刻みには親子関係。

 紐には婚姻や出立。

 石片には仕事の種類。

 結び目には年月や季節。


 だが、問題は、それが僕の知っている暦や帳簿と結びつかないことだった。


「この人が村を出たのはいつですか」

「大雨で下の橋が流れた年だ」

「それは、今から何年前ですか」

「ディーゼンが逃げる二つ前だ」


 僕は頭を抱えた。


「基準にしたくない出来事ですね」


 ディーゼンさんが口を挟む。


「俺、便利だな」


 ラーサのため息が聞こえた。


 別の村人に聞く。


「この方の年齢は?」

「あいつが初めて大鹿を倒した年に、歯が生えそろった」

「大鹿を倒したのは何年前ですか」

「ラーサが族長になる前だ」

「ラーサさんが族長になったのは?」

「ヨークが戻らなくなった後だ」


 僕は深く息を吐いた。


 王都の役所なら、日付がなければ書類を突き返すところだ。

 だが、ここではそうはいかない。


 僕は村の出来事を軸に年表を作ることにした。


 大雨で橋が流れた年。

 毒鳥が村近くまで降りた年。

 ディーゼンさんが来た年。

 ディーゼンさんが逃げた年。

 ヨークがニラバへ行った年。

 ラーサが族長になった年。

 蒼磁石の荷運びが増えた年。


 不本意だが、ディーゼンさんの失態は年表上とても便利だった。


 アリアさんは骨札や持ち物に触れ、残穢を読んでくれた。


「この骨札と、この髪飾りは、同じ家に長く置かれていたものだと思います」

「持ち主は同じですか?」

「いえ、違います。ですが、残っている生活の匂いが似ています。同じ火、同じ寝床、同じ小屋の中にあったものかと」

「なるほど。では、家族単位でまとめられます」


 僕は木板に記録を書きつけた。


 ヨーク。

 妻。

 子。

 五年前、ニラバへ移動。

 帰還なし。


 書いてみると、ペン先が止まった。


 たった数行だった。


 作業の途中、ラーサが言った。


「兄の家を見ろ」


 僕は顔を上げた。


「ヨークさんの家ですか」

「ああ。台帳にするなら、あそこも見た方がいい」


 ラーサの声は平静だった。

 けれど、少しだけ硬かった。


 ヨークの家は、村の外れにあった。


 岩を背にして建てられた、小さな家だった。

 木と獣皮で組まれ、入口には古い骨飾りが掛かっている。


 中へ入ると、空気が乾いていた。

 五年も人が住んでいないはずなのに、生活の形だけが薄く残っている。


 壁には乾いた薬草。

 棚には削りかけの骨札。

 床の隅には、小さな骨笛が置かれていた。


 子どものものだろうか。


 僕はそれを見て、手を止めた。


 ヨークの家には、外へ出ようとした人の跡があった。


 木片には、外の文字を練習した跡がある。

 鉱物片もいくつか残っていた。


 ただの狩人や戦士の家ではない。


「タルボ殿」


 アリアさんの声がした。


 振り返ると、彼女は部屋の奥で膝をついていた。

 古い布袋の中を見ている。


「アリアさん、どうかされました?」


 アリアさんはすぐには答えなかった。


 指先で、何かをつまみ上げる。


 それは、古びた封筒だった。


 湿気を吸って端は波打ち、紙の色も黄ばんでいる。

 中身はない。

 封も切られていた。


 けれど、裏に残った赤い封蝋だけは、妙にはっきりと形を保っていた。


 アリアさんの顔色が、わずかに変わった。


「これは……」

「何か、分かるんですか?」


 僕は近づきかけて、足を止めた。


 封蝋に押された紋章。

 山を模した盾。

 そこに交差する、二本の鉱槌。


 見覚えがあるような気がした。


「ベルハン家の……封蝋です」


 アリアさんの声は、いつもより低かった。


「ベルハン家?」


 ラーサが鋭く聞き返した。


 アリアさんは、封筒を見つめたまま唇を結んでいる。


 僕は喉が乾くのを感じた。


「中身は、ありません」


 アリアさんは静かに言った。


「ですが、この封蝋は……間違いありません。ベルハン家で使われるものです」


 ラーサの目が、アリアさんへ向いた。


「お前の家か」


 アリアさんの肩が、わずかに強張った。


「……はい」


 短い返事だった。


 その場の空気が変わる。


 ディーゼンさんが、珍しく何も言わなかった。

 それが、かえって嫌だった。


 ネローラン殿だけが、封筒を一瞥し、感情の読めない顔で立っている。


「なぜ、兄の家にそれがある」


 ラーサの声は低かった。


 アリアさんは封筒を握りしめなかった。

 ただ、両手で丁寧に持ったまま、目を伏せた。


「分かりません。ですが……調べる必要があります」


 その声は震えていなかった。

 けれど、震えないようにしているのは分かった。


 アリアさんの家と、ヨークの家が、つながってしまった。


 そしてその線の先に、ニラバがある。


 ラーサはアリアさんをしばらく見た後、奥の床板を外し、そこから小さな箱を取り出した。


「兄が残したものだ」


 箱は古かった。

 けれど、丁寧に包まれている。


 ラーサは少し迷った後、その蓋を開けた。


 中には、木片、鉱物片、古い紙片、小さな袋が入っていた。


 木片には、外の文字が刻まれている。

 未完成の台帳のようだった。


 僕は目を見開いた。


「これ……ヨークさんが作ろうとしていたんですか」

「ああ。兄は、シセンの名を外の字に直すと言っていた」


 ヨークは、僕より先に同じことをしようとしていたのだ。


 箱の中には、白い粉の入った袋があった。

 もう一つ、小さな袋には湿り気を帯びた白っぽい結晶が入っている。


 僕は慎重にそれを見た。


「白息塩……雷硝塩……」


 思わず声が出た。


「知っているのか」

「ええ。ただ、こんなもの、谷の中にあるはずが……」


 言葉が続かなかった。


「兄は、鉱物にも詳しかった」


 これを、何に使うつもりだったのか。


「お借りしても、よろしいですか」


 ラーサは黙ってうなずいた。


 箱の底には、古い紹介札のようなものもあった。


 そこに、ディーゼンさんの名があった。


 僕は顔を上げる。


「ディーゼンさん」


 ディーゼンさんは、いつものようには笑わなかった。


「……それ、まだ残ってたのか」


 ラーサが低く言う。


「残していた。兄が、お前を信じた証としてな」


 ディーゼンさんは何も言えなかった。


 僕は胸の奥がざらつくのを感じながら、ヨークの未完成の台帳を見た。


 そこには、何人もの名前があった。


 シセン族の名。

 家の印。

 ニラバへ向かった時期。

 鉱山と思われる符丁。


 途中で途切れている。


 夜明け前まで、僕たちは作業を続けた。


 骨札を読み、結び紐を照合し、村人の証言を聞き、アリアさんが残穢を確かめる。

 ヨークの未完成台帳と照らし合わせ、外の役所に出せる形へ直していく。


 完全ではない。


 それでも、何もないよりはずっといい。


 木板の上に、家ごとの記録が並んでいった。


 ヨーク。

 妻。

 子。

 五年前、ニラバへ移動。

 帰還なし。

 ベルハン家の封蝋つき文書との接点あり。

 ディーゼンによる紹介の可能性あり。


 書きながら、ラーサの方を見ないようにした。


 見れば、手が止まる気がした。


 夜が白み始める頃、ひとまず台帳は形になった。


 ラーサはそれを黙って見ていた。


 やがて、彼女の指が、ヨークの家の欄で止まる。


「兄の子の名まで、残るのか」


 僕はうなずいた。


「残します。いなかったことには、できません」


 ラーサはしばらく何も言わなかった。


 小屋の外では、朝の風が骨飾りを鳴らしている。


「槍では、家は残せんのだな」


 ラーサが言った。


 僕は少し考えてから答えた。


「槍で守れる家もあります。でも、紙でなければ守れない家もあります」


 ラーサは僕を見た。


 僕が一撃で倒れた時とは、少し違う目だった。


「弱いくせに、嫌な戦い方を知っている。そういう奴が一番厄介だ」


 それは褒め言葉なのだろうか。


 分からない。

 けれど、少なくともナタで斬られる雰囲気ではなくなっていた。


「船は出す」


 ラーサは言った。


 僕はほっと息を吐いた。


「ありがとうございます」

「ただし、わたしも行く」

「……え?」


 今度は別の意味で息が止まった。


「兄を探す。兄の妻と子を探す。シセンの家を消した者を、この目で見る」


 ラーサの声に迷いはなかった。


「それに、お前には生涯尽くしてもらう契りだからな。ディーゼンのように逃げないよう、見張る必要がある」


 ラーサはナタの柄で、ディーゼンさんの脇腹を突いた。


「痛っ。いや、逃げねえよ」


 ディーゼンさんは脇腹をさすりながら、何か言いかけて、結局何も言わなかった。


 僕は、「生涯の契り」という言葉が気が気でなかった。


 アリアさんは、ベルハン家の封筒を丁寧に包んでいた。


「私も、確かめなければなりません」


 その声は静かだった。


 だが、そこには先ほどまでとは違う重さがあった。

 彼女はもう、ただの任務としてニラバへ向かうわけではない。


 ネローラン殿は短く言った。


「来るなら、役に立て」


 ラーサが睨む。


「使われる気はない」

「それでいい」


 相変わらずの言い方だった。


 僕の胃が痛くなる。

 この二人を同じ船に乗せて大丈夫なのだろうか。


 夜明け前、僕たちは船着き場へ向かった。


 川は暗く、流れは速い。

 谷の風は冷たく、どこか湿った鉱物の匂いがした。


 シセン族の船は、細長く、底が浅かった。

 岩の多い川を下るためのものらしい。


 僕の荷物は、出発前より明らかに増えていた。


 シセン族の家台帳。

 ヨークの記録の写し。

 ベルハン家の封蝋つき封筒。

 白息塩。

 雷硝塩。


 ラーサは村人たちの前に立った。


「消された家を、連れて戻る」


 村人たちは何も言わなかった。


 ただ、骨飾りの音だけが風に鳴っていた。


 ディーゼンさんは黙って船に乗った。

 いつもの軽口は少ない。


 アリアさんは封筒を抱え、視線を落としている。

 声をかけるべきか迷ったが、結局何も言えなかった。


 ネローラン殿は最後に村を一瞥し、それから船に乗り込んだ。


 こうして、僕たちはシセン族の船でニラバへ向かうことになった。


 船を借りるだけのはずだった。


 けれど、僕の周りには、また胃に悪い人と荷物が増えた。

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