第七話 シセン族1
怨地の谷の朝は、暗かった。頭上では黒い枝葉が重なり合い、風が吹くたびに、ぎしぎしと嫌な音を立てていた。
蒼磁石。
ベルハン家。
ディーゼンさんと、ネローラン殿。
昨夜聞いた言葉が、頭の中で何度も回っていた。
おかげで、ほとんど眠れなかった。
「タルボ殿、顔色が優れませんが、体調の方は」
声の主は、アリアさんだった。
僕は一瞬、返事に詰まった。
昨夜聞いたベルハン家の名が、彼女の顔を見るたびに頭をよぎる。
アリアさんは、何も知らないような目でこちらを見ていた。
目を合わせづらかった。
「ええ、僕は大丈夫です。アリアさんこそ、もういいんですか?」
なるべく平静を装ったつもりだったが、声は少し上ずった。
「全快とは言えませんが、だいぶ良くなりました」
そう言って、アリアさんは左腿の傷口にそっと触れた。痛みがないわけではなさそうだが、歩けないほどではないらしい。
とはいえ、本調子でないことは明らかだった。
「おい、ぼん。アリア嬢。そろそろ行くぞ」
少し離れた場所から、ディーゼンさんが呼んだ。
すでに荷をまとめ、いつでも歩き出せる格好をしている。
「ディーゼンさん。アリアさんの体調は万全じゃありません。あとどのくらいで谷を抜けられるのでしょうか」
ディーゼンさんは顎の無精髭をかきながら、少しだけ空を見上げた。
「そうだな。順当に歩けば、あと三日ってところだ」
「三日っ!」
思わず声が裏返った。
それは困る。
僕も困るが、アリアさんの体に負担がかかりすぎる。
「そんなに歩いたら、アリアさんの体に――」
「歩いて抜けるなら、な」
「というと?」
ディーゼンさんは、谷の奥へ目を向けた。
「今から行くところがうまくいけば、明日までに抜けられる」
「本当ですか!」
「ああ」
ディーゼンさんは、そこで僕を見た。
嫌な予感がした。
「まあ、成功するかは、ぼん次第だ」
「え、僕?」
「期待してるよ、タルボ先生」
そう言って、ディーゼンさんは僕の肩を叩き、さっさと前を歩き出した。
先生。
その呼び方は、だいたい悪いことの前触れだ。
僕はアリアさんと顔を見合わせた。
アリアさんも、さあ、といった感じで、小さく首を傾げている。
後ろでは、ネローラン殿が無言でこちらを見ていた。
……いや、正確には見ていたのではない。
早く歩け、と言われている気がした。
僕は黙って荷を背負い直した。
それから二時間ほど、僕たちは谷を進んだ。
寝不足のせいで足元が少しふらつく。けれど、立ち止まろうものなら、後ろのネローラン殿に重力魔法で毒鳥のように地面へ押し潰されそうだったので、必死で耐えた。
幸い、アリアさんは思ったよりしっかり歩いている。
昨日毒を受けた人とは思えない。
いや、たぶん我慢しているだけだ。
やがて、周囲の風が少し弱くなっていることに気づいた。
昨日まで耳元にまとわりついていた、あの嫌な唸りが薄い。
不気味にねじれた木も、少しずつ数を減らしている。
水の音が聞こえる。
森を抜けると、大きな川辺に出た。
谷の中の水にしては、妙に澄んで見えた。だが、昨日見た鉱蝕水のことが頭から離れない。
僕はしゃがみ込み、小瓶に少量を汲んで確認した。
臭いはない。
色もおかしくない。
金属片を浸しても、すぐに変色する様子はない。
水だ。
ディーゼンさんは、周りを見渡しながら、川下の方を指さした。
「この支流を下れば、ニラバ川に当たる。そこまで出れば、街は近い」
何か落ち着かない様子で、左右をきょろきょろしている。
「下ればって、船もないのに泳ぐ気ですか?」
「ああ、船は今から――」
その時だった。
空気を裂く音がした。
ディーゼンさんに向かって、一本の槍が飛んできた。
ディーゼンさんは、ひょい、と体を傾けた。
槍はその肩口を抜け、僕の頬のすぐ横を通り過ぎる。
一拍遅れて、背後の木に突き刺さる音がした。
「タルボ殿!」
アリアさんが即座に弓を構えた。
だが、ディーゼンさんが片腕を上げて制した。
「アリア嬢、大丈夫だ」
「大丈夫ではありません。今、タルボ殿に当たりかけました」
「当たってないだろ」
……いや、僕、いま死にかけたんですけど。
川辺の奥。
岩と木の陰から、男たちが四人ほど姿を現した。
皆、陽に焼けた古銅色の肌をしている。体は屈強で、革と布と獣骨を組み合わせた装束を身につけていた。
三人は槍を持っている。
一人だけ手ぶらだった。たぶん、さっき槍を投げた男だ。
男たちの目は、明らかに友好的ではなかった。
「久しぶりだな、ディーゼン」
男たちの間から、一人の女が出てきた。
背は高くない。
アリアさんより、少し低いくらいだ。
だが、小柄という印象はまるでなかった。
古銅色に焼けた肌。肩、腕、腹、太腿に浮いた無駄のない筋肉。革と布と獣骨の装束は肌を大きく出しているが、飾りではなく、岩場で生きるための服に見えた。
右手には、幅広のナタが握られていた。
「ラーサ、久しぶ――」
ディーゼンさんは最後まで言えなかった。
ラーサと呼ばれた女の右手が跳ねた。
幅広のナタが、ディーゼンさんの頭上をかすめる。
「待て待て待て! いきなり首を狙うな!」
「黙れ。わたしを置いて逃げた男が、いまさらどの面下げて戻った」
「いや、逃げたっていうか、あれはだな」
「黙れ」
ラーサは短く言い、再びナタを振った。
ディーゼンさんは後ろへ跳び、首をすくめ、さらに横へ転がるように避ける。
さすがというべきか、逃げ足だけはやたら速い。
「話せば分かる!」
「話してから逃げただろうが!」
「その件は悪かった!」
「悪いと思うなら斬られろ!」
ナタが風を切るたび、僕は肩をすくめた。
「……どうやら、訳ありのようですね」
アリアさんが小声で言った。
「だから、ディーゼンさん、さっきから落ち着かなかったんですね」
僕も小声で返す。
つまり、谷を抜ける方法というのは、この人たちに船を借りることだったのだろう。
そして、その交渉相手が、ディーゼンさんにナタを振り回している女性。
うん。
先に言ってほしかった。
「おい、ディーゼン」
後ろから、冷たい声が飛んだ。
ネローラン殿だった。
「なんの茶番だ」
その一言で、場の温度が少し下がった。
ラーサのナタが止まる。
男たちの視線が、ネローラン殿の赤紫の法衣へ向いた。
空気が変わった。
さっきまでの怒りとは違う。
もっと硬く、深い警戒だった。
ディーゼンさんは咳払いをし、乱れた襟元を直した。
「この方はラーサ。シセン族の族長だ」
ラーサは僕たちを見た。
その目が、白い法衣を順に追い、最後にネローラン殿の赤紫で止まる。
「ミルヴァード王都の者か」
低い声だった。
「何の用だ」
男たちが槍を構え直す。
明らかに歓迎されていない。
「まあ、待て。ラーサ。俺たちはただ、川を下る船を貸してほしいだけだ」
「ミルヴァードの役人を助ける義理はない」
「役人って言っても、こいつらは――」
「どれも同じだ。信用できん」
ラーサの声が、鋭くなった。
「船は貸さん」
「そこをなんとかならないか。こっちも急ぎなんだ」
ディーゼンさんが両手を広げる。
ラーサは冷たく言った。
「なら、谷の掟に従え」
「掟?」
嫌な響きだった。
「よそ者がシセンの船を使うなら、力を示せ」
ラーサはナタの背で肩を叩きながら、僕を見た。
「その男。我らの戦士と槍で戦え。勝てば船を貸す」
えっ。僕。
無意識に後ろへ一歩下がった。
その瞬間、ディーゼンさんが僕の肩を掴んだ。
「だとよ、シースト家槍術タルボ先生」
えっ。
「……朝の話って、このことですか?」
「おう」
「おう、じゃないですよ」
何を勝手にしているのだろう、この人は。
ラーサは僕を上から下まで見た。
そして、明らかに疑わしそうな顔をした。
「この男が、槍術の先生?」
「彼のシースト家槍術は、王都でも名が通ってる。なあ、ぼん」
「いや、通ってません。少なくとも僕経由では通ってません」
「謙遜するなって」
「謙遜じゃありません」
僕は必死に抗議した。
だが、ラーサは少しだけ興味を示したようだった。
「ほう。では、そのタルボ先生とやらが勝てば船を貸す」
「負けたら?」
ディーゼンさんが気軽に聞いた。
聞かないでほしかった。
ラーサは、にやりと笑った。
「ここの村のために生涯、尽くしてもらう」
背筋が凍った。
紅茶もお菓子もアリアさんもいない谷で一生……。
「ちょっと待ってください」
僕は震える声で言った。
「僕はニラバに行かないと」
「なら勝つか泳げ」
ラーサは川を指した。
流れは思ったより速い。
荷物を背負ったまま入れば、たぶん一分ももたない。
僕はディーゼンさんを見た。
「一体、何を考えているんですか」
「大丈夫だ。ぼんならやれる」
会話が通じない。
僕はネローラン殿を見た。
「ネローラン殿……万が一の時は、その……ばあーっと、なんとかしていただけるんですよね」
かなりぼかした表現になったが、紅紫の魔腕と呼ばれる方なら、いざとなれば……。
しかし、ネローラン殿は一切表情を変えずに言った。
「馬鹿か、お前。少数民族の掟に宮廷魔術師が力で介入すれば、外交律に触れる」
「では、万が一の時は」
「置いていく」
「……ですよね」
知っていた。
知っていたけれど、少しは違う答えを期待していた。
「タルボ殿」
アリアさんが真剣な顔で僕を見る。
「大丈夫です。タルボ殿なら、きっと勝てます」
その信頼の目が痛い。
残念ながら、僕の槍術は、信頼に応えられるほど洗練されていない。それにこの体だ。
僕は腹をさすりながら、男たちの割れた腹筋を見た。
こうして、僕たちはシセン族の村へ案内されることになった。
川辺から少し上流へ戻り、岩の間を抜ける細い道を進む。
道とは言っても、ほとんど獣道だった。木の根が張り出し、濡れた岩が足を滑らせる。普通に歩くだけでも大変なのに、シセン族の男たちは音もなく進んでいく。
ディーゼンさんは、その後ろを慣れた様子で歩いていた。
僕は小声で問い詰める。
「一体、どういうことですか」
「ああ、ラーサとは昔、この谷で迷っていたところを助けてもらってな」
「はあ」
「その礼に、結婚して族長になる約束をした」
「はい?」
「で、すっぽかして逃げた」
「何やってるんですか、この人は」
思わず本音が出た。
「まあ、ラーサも本気で怒ってるわけじゃ――」
前を歩くラーサが振り返った。
手にはナタ。
「怒っている」
「だそうですよ」
「聞こえてたか」
ディーゼンさんは気まずそうに頭をかいた。
僕はため息をつく。
「そっちも問題ですけど、今は決闘の方です。はじめからこうなることは分かってたんですね」
「あー。シセン族の男は、槍の腕で序列を決めるところがあってな。シースト家の槍術なら楽勝だろ」
「僕の槍術は、シースト家の期待を裏切る方向で育っています」
「謙遜するなって」
「だから、してないですって」
アリアさんが横から口を挟んだ。
「ですが、タルボ殿はシースト家で槍術を修めておられるのですよね」
「一応、父、兄から手ほどきを」
「ならば」
「現実逃避していました」
「現実逃避?」
「だから今、宮廷魔術師をやっているんです」
アリアさんは、言葉を失ったようだった。
そんな目で見ないでほしい。
今、一番後悔しているのは僕だ。
やがて、木々の間に集落が見えてきた。
シセン族の村は、川から少し離れた岩場に作られていた。
木と獣皮で組まれた小屋が、斜面に沿って点々と並んでいる。地面は平らではなく、岩を削り、木の板を渡して生活の場所を作っていた。
干された魚や獣肉が吊るされ、骨で作られた飾りが風に鳴る。
小屋の間には、細い煙がいくつも立っていた。
村人たちは、珍しそうに僕たちを見ている。
だが、歓迎されているというよりは、警戒しているように見えた。
ラーサたちもミルヴァードを嫌っているようだが、なぜ。
僕はそのことに、引っかかった。
ただ、その理由を考える余裕はすぐになくなった。
広場のように開けた場所へ通されると、ラーサが僕の前に立った。
「ミルヴァード随一の槍使いタルボ」
「はい……?」
なんか、尾鰭ついてませんか。
「お前の相手は、我が村で一番の槍の使い手、リクだ」
ラーサが顎で示した先に、一人の若い男がいた。
リクと呼ばれた男は、さっき川辺にいた男たちより小柄だった。
体も細い。もちろん鍛えられてはいるが、あの屈強な男たちに比べれば、まだ何とかなるのではないかと思えた。
ほんの少しだけ、安心した。
その安心は、すぐに消えた。
リクは、火の前に立っていた。
黒い薄片のようなものが火にくべられ、そこから淡い煙が上がっている。
リクはその煙を、両腕と胸に浴びるようにしていた。
煙は普通の薬草の匂いではなかった。
湿った石を焦がしたような、重い匂い。
「あれは何ですか?」
僕が聞くと、ラーサは当然のように答えた。
「シセンの戦士は、戦いの前に淵殻の煙をまとう。谷の力を借りるためだ」
「淵殻……」
聞き慣れない言葉だった。
けれど、嫌な響きだった。
「タルボ殿」
アリアさんの声が硬くなった。
「あの方、魔力の流れが少し変です」
「変?」
「体の内側を、無理やり押し広げているような……」
僕はリクを見た。
気のせいか、さっきより大きく見える。
肩が膨らみ、腕の筋が浮き、呼吸が荒くなっている。
目も少し血走っていた。
ちょっと待ってほしい。
これ、本当に槍の試合なのだろうか。
相手だけ何かを強化していないだろうか。
「時間だ」
ラーサは、僕に一本の槍を放り投げた。
僕は慌てて受け取る。
穂先に刃がない。
「死んでしまったら、この村で尽くせんからな」
いっそ、気方が……。
「ぼん、頼んだぞ!」
ディーゼンさんが親指を立てる。
全く、誰のせいでこうなっていると思っているのか。
「タルボ殿。ご武運を」
アリアさんが真剣に言った。
その横で、ネローラン殿は腕を組んでいる。
助ける気は一切なさそうだった。
リクが僕の前に立つ。
やはり、最初に見た時より大きい。
煙のせいなのか、僕の恐怖のせいなのかは分からない。
リクは槍を構えた。
ああ、どうしてこんなことに。
こんなことになるなら、現実逃避なんかせずに、兄上の訓練を真面目に受けておくべきだった。
いつのまにか、僕らの周りには人だかりができていた。
罵声と歓声が入り混じって飛ぶ。誰かが笑い、誰かが金を賭けようとしている。
……待ってほしい。
これは、いつの間にそんな催しになったんだ。
視線の端で、アリアさんが心配そうにこちらを見ていた。
その顔を見た瞬間、少しだけ救われた気がした。
いや、違う。
救われたい気分になっただけだ。
リクは槍の穂先を高く、こちらへ向けていた。
重心が、やや上にある。
踏み込みは強い。たぶん、一気に突いてくる。
僕は逆に、穂先を少し引いた。
腰を落とす。
突くのではなく、待つ。
シースト家の槍術は、相手が来るまで動かない。
リクの目つきが、わずかに変わった。
周囲の歓声が、少しだけ遠のく。
こう見えても、型は得意だ。
型ばかりやっていた。
だって、掛かり稽古は痛いから。
かといって、勝算がないわけではない。
シースト家に伝わる槍術は、突きよりも崩しを重んじる。
穂先で仕留めるのではなく、相手の槍を絡め、体勢を崩し、立て直せない一瞬を作る。
力ではなく、技で制する。
相手の穂先を横刃で引っ掛ければ――。
……ん?
手元の槍を見た。
そっか……横刃が、ない。
僕の動揺を、リクは見逃さなかった。
地面を蹴る音がした。
次の瞬間、目の前に穂先が迫っていた。
避け――。
られない。
視界が、ふっと暗くなった。
「タルボ殿! タルボ殿、しっかりしてください!」
ああ。
天使の声だ。
僕は死んだのだろうか。
「起きろ、タルボ・シースト」
脇腹に衝撃が走った。
「ぐえっ」
ネローラン殿の足だった。
いや、ここは地獄かもしれない。
目を開けると、空が見えた。
その向こうで、アリアさんが泣きそうな顔をしている。
どうやら、僕はリクの一撃で気を失っていたらしい。
つまり。
あっけなく負けた。
「いやあ、ぼんが構えた時は、ちょっとだけいけるかもって思ったんだけどな」
ディーゼンさんが、実に楽しそうな顔でしゃがみ込んでいた。
実際、自分でも一瞬そう思っていた。
それが余計に恥ずかしかった。
「すみません……」
としか言えなかった。
「さあ、約束通り。尽くしてもらうぞ」
ラーサが僕のそばまで来た。
手には相変わらずナタを持っていた。
その刃が、妙に光って見えた。




