第六話 怨地の谷2
「何の臭いですか、これ……」
その時、アリアさんが足を止めた。
視線の先を追って、僕も見上げる。
太い枝の先に、何か大きな塊が引っかかっていた。
最初は、枯れた蔦かと思った。
違う。
猪らしき獣が、枝に刺さっていた。
一本ではない。
奥にもある。
右にも、左にも。
木々の枝先や尖った岩の上に、獣の影がいくつも固定されている。
狩りの跡ではない。
貯蔵庫だ。
「これは、一体……」
アリアさんも、言葉を失っていた。
僕は背負子の肩紐を両手で強く掴んだ。
ディーゼンさんの表情が変わった。
「まずいな。バトラコモズの縄張りに踏み込んだらしい」
「バトラコモズ……?」
「有毒鳥だ。獲物を毒で動けなくしてから、岩や枝に串刺しにして保存する。羽根、爪、内臓に毒がある。かすっただけでも厄介だ」
その言葉が終わるより早く、アリアさんが叫んだ。
「ディーゼン殿、上です!」
見上げる。
黒い影が、谷の薄暗い空を旋回していた。
一体。
二体。
三体。
いや、もっといる。
頭から翼にかけて黒く、腹と脚は茶褐色。広げた翼は、人間の背丈を軽く超えている。巨大な鳥が、こちらを見下ろすように円を描いていた。
あれが、バトラコモズ。
旋回が止まった。
次の瞬間、鳥たちは一斉に降ってきた。
一体が翼を鋭く窄め、風を切る音さえ置き去りにする速さで、アリアさんへ襲いかかった。
毒を含んだ爪が、彼女の肩を掴もうと伸びる。
アリアさんは紙一重で身を沈め、そのまま前へ転がった。泥を払う間もなく起き上がり、弓を引く。
矢が放たれた。
鳥の首筋に命中する。
だが、鳥は落ちない。
そのまま翼を広げ、再びアリアさんへ向かう。
次の瞬間、鳥の体が大きく横へ流れた。
矢が刺さった場所から、淡い魔力が弾けている。
飛行の均衡を崩されたのだ。
鳥はアリアさんを大きく通り過ぎ、斜めから地面に叩きつけられた。
「そんなこともできるんですか……」
僕は思わず呟いた。
ディーゼンさんの方にも、二体が迫っていた。
「こえーな、おい!」
そう言いながら、ディーゼンさんは笑っていた。
一体目の翼の付け根を、抜き放った剣で切り払う。鳥が姿勢を崩したところへ、もう一体が横から突っ込んでくる。
ディーゼンさんは体を沈め、空いた手で短剣を投げた。
短剣は鳥の頭部に突き刺さり、その巨体は勢いのまま地面を滑った。
「言葉と動きが合ってない……」
怖がっている人間の動きではなかった。
ネローラン殿の方へも、左右から二体が同時に襲いかかった。
ネローラン殿は一歩も動かない。
ただ、左腕を軽く上げた。
滑空していた二体の鳥が、突然、視界から消えた。
重い音が二つ続く。
途中で見えない壁に押し潰されたように、直角に地面へ落ちたのだ。
地面にめり込んだ鳥の体は、翼が不自然に折れ曲がり、口から紫色の液体を流していた。
ネローラン殿はそれを見ることもなく、左手を下げ、潰れた鳥の間を歩いていく。
その周囲の空間が、わずかに歪んで見えた。
重力魔法。
魔法の中でも最上位に位置する魔法だと聞いたことがある。
それをネローラン殿は、左腕を上げただけで……
改めて、彼女の凄さと恐ろしさを実感した。
そして。
最後の一体が、僕に向かってきた。
「え」
鳥と目が合った気がした。
いや、合っていないかもしれない。けれど、少なくとも標的が僕に変わったのは分かった。
どうする。どうする。
こういう時は、どんな魔法を使えばいい。
火か。風か。防御か。
そもそも、僕の防御魔法であの爪を止められるのか。
「タルボ殿!」
アリアさんが矢を放った。
しかし鳥は翼でそれを弾いた。
アリアさんは次の矢を取ろうとした。だが、その場で膝をついた。
「アリアさん?」
様子がおかしい。
まさか、さっきの一体目を避けた時、爪がかすっていたのか。
鳥は僕から視線を外し、アリアさんの方へ体を向けた。
まずい。
僕が逃げれば、次に狙われるのはアリアさんだ。
「おい、こっちだ!」
僕は火球を放った。
背後からの攻撃だったにもかかわらず、鳥は軽々とそれを避けた。そしてこちらを向く。
翼が大きく広がった。
黒い羽根の隙間から、茶褐色の腹が見える。
嘴が開いた。
逃げたい。
本当に、逃げたい。
けれど、ここで逃げるわけにはいかない。
僕は背負子に手を突っ込んだ。
指先が、硬い硝子瓶に触れた。
さっきの池で汲んだ鉱蝕水。
透明なのに、生き物がひとつも棲めない水。
金属すら溶かす、谷の毒だ。
武器にするために持ってきたわけではない。
ただ、後で成分を調べようと思っただけだ。
でも、今はそれしかなかった。
「……当たれよ」
僕は小瓶を投げた。
当然、鳥はそれを避けようとする。
だから、瓶ではなく、その横を狙って火球を撃った。
火球が硝子瓶を叩き、瓶が空中で弾けた。
中の鉱蝕水が、細かな飛沫になって広がった。
鳥の翼が、その飛沫をまともに受けた。
黒い羽根の表面から、じゅっと嫌な音がした。
鳥が初めて、悲鳴のような声を上げる。
だが、落ちない。
巨体はまだ空を掴んでいる。
足りない。
あの程度では、羽を焼いただけだ。
僕は両手を前に出した。
大きな魔法はいらない。
強い魔法もいらない。
必要なのは、横から一度だけ、風を叩きつけること。
「落ちろ!」
風が曲がった。
鉱蝕水で乱れた翼が、空を掴み損ねる。
バトラコモズの巨体が斜めに傾き、そのまま木の幹へ突っ込んだ。
鈍い音がした。
鳥は地面を転がり、羽根を震わせたあと、動かなくなった。
僕はしばらく、手を前に出したまま固まっていた。
倒した。
いや、倒せた。
たぶん、半分以上は偶然だ。
それでも、動かない。
鳥はもう、動かなかった。
「ぼん!」
ディーゼンさんの声で、僕は我に返った。
そうだ。
アリアさん。
僕は急いで彼女のもとへ駆け寄った。
アリアさんは膝をつき、左腿を押さえていた。傷は深くない。だが、血が滲んでいる。顔色は青ざめ、呼吸も荒い。
「まずいな。毒を食らったか」
ディーゼンさんが低く言った。
アリアさんは傷口に手を当てながら、苦しそうに息を整えていた。
「解毒の魔法を……かけているのですが……効きません」
僕は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
解毒魔法が効かない。
「ディーゼンさん。この鳥の毒名はご存じですか」
「羽毒と呼ばれてる。詳しい成分までは知らねえが、食らった奴は呼吸が止まる」
呼吸が止まる。
神経系だ。
多くの神経毒は、解毒そのものが難しい。毒を消そうとするより、毒が代謝され、排出されるまで、体の機能を維持する方が現実的だ。
僕はアリアさんの前に膝をついた。
「アリアさん。よく聞いてください」
自分でも驚くほど、声がはっきり出た。
「この毒は、解毒しようとしても駄目です」
アリアさんの目が、かすかに揺れる。
「毒を消すのではなく、心臓と肺を維持してください。内側から魔力を送って、自分の心臓と肺を動かすんです」
「心臓と……肺を……」
「はい。さっき、矢に魔力を通していましたよね。あれを、自分の体にやるんです。外から無理やり動かすんじゃなくて、内側から支える感じです」
アリアさんの呼吸が乱れる。
目の焦点が少しずつぼやけている。
僕は彼女の手を取った。
「できます。アリアさんならできます」
根拠はある。
彼女は魔法に対して柔軟性と応用力がある。矢に魔力を込め、飛行中の鳥の均衡を崩した。あれができるなら、自分の体の一部へ魔力を流すこともできるはずだ。
「この毒は、長く残る毒ではありません。体が押し流すまで、心臓と肺を止めなければいいんです」
アリアさんは虚ろな目で、わずかに頷いた。
彼女の手に力が入る。
最初は荒かった呼吸が、少しずつ整っていく。
胸の上下が、安定していく。
顔色はまだ悪い。だが、呼吸は戻っている。
「……よかった」
僕は思わず息を吐いた。
「アリア嬢も大したもんだが、ぼん」
ディーゼンさんが僕を見た。
「お前の助言がなかったら危なかったな」
「ええ、まあ……毒物や人体には、多少心得がありまして」
槍術への現実逃避で学んだ座学が、命を救うことになるとは思わなかった。
現実逃避も、捨てたものではない。
その時、ネローラン殿が僕のそばまで来た。
いつもの冷たい目で、倒れているアリアさんを一瞥し、それから僕を見た。
「大儀」
それだけ言って、また離れていった。
僕はしばらく固まった。
「……今、褒めたんですよね」
「たぶんな」
ディーゼンさんが笑った。
「あいつにしちゃ、かなり褒めてる」
「分かりにくすぎます」
しばらくして、アリアさんは目を覚ました。
「アリアさん。気分はどうですか」
僕が尋ねると、アリアさんはゆっくりと体を起こした。
まだ顔色は悪い。だが、意識ははっきりしているようだった。
そして彼女は、すっと立ち上がろうとして、少し膝を揺らした。
「無理しないでください」
「いえ」
アリアさんはそれでも姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「タルボ殿。先ほどは、ありがとうございました」
「いや、その、僕は言っただけで」
「貴方の言葉がなければ、私はこの場に立っていなかったでしょう」
そう言って、アリアさんは僕の手を両手で強く握った。
顔が近い。
綺麗な顔が近い。
毒を受けたのはアリアさんなのに、僕の心臓の方が止まりそうだった。
「い、いえ、本当に、その」
「タルボ殿?」
「今度は僕の心臓が危ないです」
「え?」
「何でもありません」
ディーゼンさんが、咳払いのように笑った。
「アリア嬢もあれだし、今日はここで野営するか」
「え、ここでですか?」
僕は、枝に刺された獣の列を見上げながら言った。
「バトラコモズの縄張り内の方が、かえって安全だ。群れはだいたい片づけたし、他の魔物もここには近づきたがらねえ」
「理由は分かりますけど、気分は最悪です」
「気分で野営地選ぶと死ぬぞ、ぼん」
ディーゼンさんはそう言いながら、倒したバトラコモズの一体へ近づいた。
そして短剣を抜き、慣れた手つきで解体を始める。
「あの、ディーゼン殿。何をしているのですか?」
アリアさんが尋ねた。
「ああ、今日の晩飯だ」
「晩飯!? この毒鳥を食べるんですか?」
横から叫んだ僕の声は、今日一番大きかったかもしれない。
ディーゼンさんは、期待通りの反応だと言わんばかりに満足そうだった。
「羽根、爪、皮、内臓は駄目だ。肉も内臓を破れば毒が回る。だが、綺麗に落とせば食える」
「あれみたいに潰しちまうと駄目だ」
ディーゼンさんは、ネローラン殿が重力で潰した二体を、嬉しそうに指差した。
「対峙時、そんなことを考えながら斬っているのですか?」
「野営では大事なことだ。覚えとけよ、アリア嬢」
「勉強になります。ディーゼン殿」
アリアさんは真面目に頷いた。
突っ込むところは、そこではない気がした。
バトラコモズの肉は、僕の予想に反して美味しかった。
味は淡白だが、臭みは少ない。こんな谷の中で食べるものとしては十分すぎるくらいだった。
「どうだ。俺の腕がいいからな」
ディーゼンさんは得意げに笑った。
確かに捌き方は見事だった。
ただ、焼いただけの肉がここまで食べやすいのは、僕が持ってきた薬味のおかげもあると思う。
だが、それは黙っておいた。
アリアさんは毒の一件もあり、早々に眠りについた。
僕も疲れていた。体は重い。足も痛い。目も乾いている。
けれど、眠れるはずがなかった。
見上げれば、枝の先に刺さった獣の影がある。耳を澄ませば、谷の風が低く鳴っている。
いつもなら、今頃は王都の宿舎で紅茶を飲んでいたはずだ。菓子を少しずつ食べながら、本でも読んでいたはずだ。
それが今は、怨地の谷で毒鳥を食べている。
人生は、どうしてこうなるのだろう。
焚き火の向こうで、ディーゼンさんとネローラン殿の声がかすかに聞こえた。
僕は聞くつもりはなかった。
けれど、風の切れ間に、声が届いてしまった。
「なあ。ニラバの蒼磁石の件に、ベルハン家のお嬢さんを連れてくるって、どういう了見だ」
ベルハン家。
僕は目を開けた。
「お前には関係ない」
ネローラン殿の声は冷たかった。
「あの様子だと、気づいていないようだったぞ」
「黙れ、ディーゼン」
「相変わらず、肚を見せねえな」
「……でもよ、ぼんに雨雲のことを言った時。あれ、昔のお前が――」
「ディーゼン」
その一言で、焚き火の向こうの空気が冷えた。
「昔話をする気はない。寝ろ」
声が途切れた。
少しして、ディーゼンさんがわざとらしく軽い声で言った。
「へいへい。承知しました、閣下」
それきり、二人の会話は聞こえなくなった。
ベルハン家。
蒼磁石。
昔のネローラン殿。
そして、アリアさん。
僕は、聞いてはいけないものを聞いてしまった気がした。
その晩、怨地の谷では風だけが鳴っていた。
眠れない理由が、また一つ増えた。




