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第五話 怨地の谷1

 怨地の谷は、想像していたより岩肌が少なかった。

 剥き出しの崖と、乾いた石の道を思い浮かべていたのに、実際には、岩そのものが森に呑まれていた。


 岩は、緑とも紫とも呼べない苔に覆われている。割れ目からはシダが垂れ、木々は岩を押し広げるように根を張っていた。幹はまっすぐ伸びず、不規則に曲がり、ねじれ、互いの枝を避けるでもなく絡ませ合っている。


 そのせいか、まだ昼のはずなのに、妙に暗かった。


 地面は湿っている。踏むたびに靴底がぬかるみに吸われ、苔の下に隠れた石が、いちいち足首をねじろうとしてくる。


 それよりも気味が悪いのは、風の音だった。


 谷の奥から、低く、ゆっくりとした音が流れてくる。まるで誰かが息を吐いているような音だ。かと思えば、急に細く高くなり、耳元で泣き声のように震える。


 風が吹くたびに、僕は左右を見た。後ろも見た。ついでに上も見た。


「前を向け。死ぬぞ」


 しんがりを務めるネローラン殿が、呆れた声で言った。


「す、すみません」


 僕は慌てて前を向いた。


 とはいえ、前を向いたところで安心できるわけではない。前を向いたところで、待っているのは妙な形の木と、濡れた岩と、薄暗い道だけだった。


「ニラバ峡谷は、太古には火山地帯だったと聞いています」


 僕の前を歩くアリアさんが、周囲を観察しながら言った。


「火山活動と隆起が繰り返され、鉱脈が地表近くまで押し上げられた場所だと聞いています。この植物の異常な育ち方も、その影響でしょうか」


「よく知ってるな、アリア嬢」


 先頭を歩くディーゼンさんが、肩越しに振り返った。


「まあ、その通りだな。昼でも暗い。方角も狂う。鉱物のせいか、魔物の気配も読みにくい。だから死ぬ冒険者が多い」


「僕らは大丈夫なんでしょうね、ディーゼンさん」


 僕は叫ぶような、祈るような声で言った。


「おいおい、ぼん。天下の宮廷魔術師様が何びびってんだ」


 いつの間にか、ディーゼンさんは僕のことを「ぼん」と呼んでいた。


「安心しろ。俺がいるうちは、道に迷って死ぬことはねえ。たぶんな」


「たぶんじゃ困ります」


「あとは、運次第だ」


 ディーゼンさんは愉快そうに笑った。


「あと、火山の名残で、今でも岩の裂け目から毒気が出ることがある。池だと思って近づいたら、金属が溶ける鉱蝕水だった、なんてこともある。綺麗だからって水に手を突っ込むなよ」


 僕は無意識に手を背中の方へ引っ込めた。


 ここまで来るだけでも、もう三時間以上歩いている気がする。


 実際には、そこまで経っていないのかもしれない。けれど、薄暗い谷の中では時間の感覚まで狂ってくる。


 そろそろ休憩しませんか。


 そろそろお茶にしませんか。


 せめて立ち止まりませんか。


 その言葉を、僕は何度も喉元まで出しかけた。


 だが言えなかった。


 背後にいるネローラン殿の圧が強すぎる。


 少しでも弱音を吐いた瞬間、冷たい視線で背中を貫かれる気がした。


 その時、女神の声が舞い降りた。


「ディーゼン殿。ここらで小休憩を挟みませんか」


 アリアさんである。


 僕は心の中で手を合わせた。


「そうだな」


 ディーゼンさんは足を止め、周囲を確認した。


「ここなら、少しはひらけてる。休むなら今のうちだ」


「好きにしろ」


 ネローラン殿は短く言って、少し離れた岩のそばに立った。


 僕はその言葉を聞いた瞬間、背負子を下ろした。


 ようやく休める。


 そして、休めるなら紅茶だ。


 僕は小さな鉄のやかんと茶葉の包みを取り出した。こんな場所だからこそ、温かい紅茶の一杯が必要なのだ。人間、文明を失ってはいけない。


 だが、そこで気づいた。


 水がない。


「……しまった」


 僕は背負子の中を探った。ない。革袋の底まで確認したが、残っている水はほんの少しだ。紅茶どころか、やかんの底を濡らす程度しかない。


 近くに水場はないだろうか。


 怖い。


 ものすごく怖い。


 だが、紅茶のためだ。


 僕は休憩場所から少しだけ離れ、三人が確認できる範囲で探した。苔むした岩を避け、木の根をまたぎ、低い枝に頭をぶつけそうになりながら進む。


 すると、木々の間に光が見えた。


 池だ。


「あった」


 僕は思わず声を漏らした。


 水面は驚くほど澄んでいた。底まで見える。濁りもなく、藻も浮いていない。まるで磨いた硝子のような透明さだった。


 だが、近づいた瞬間、喉や目に違和感を覚えた。


「……ん?」


 僕は足を止めた。


 透明だから綺麗、とは限らない。


 僕は背負子から小さな硝子瓶を取り出し、恐る恐る池の縁に近づいた。手では触れず、瓶の先だけを水面につける。


 瓶に入った液体は、やはりただの水ではなかった。


 水より粘度があり、重い。鼻を突くような臭い。おそらく、金属を溶かす鉱蝕水だ。


 透明なのは、清らかだからではない。


 生き物が一つも棲めないからだ。


「……ディーゼンさん、本当に冗談じゃなかったんだ」


 槍術が嫌で、錬金や魔毒、人体の勉強ばかりしていた時期がある。そのおかげで、こういうものには多少の心得がある。

 本来なら、その場で捨てるべきだった。でも僕は興味本位で瓶に栓をして、慎重にしまった。


 ただし、肝心の水は見つからなかった。


 僕が三人のところへ戻ると、アリアさんがすぐにこちらを向いた。


「タルボ殿。どこへ行っていたのですか。一人行動は危険です」


「あ、すみません。湯を沸かしたかったんですけど、肝心の水がなくて……」


 言っていて、自分でも情けなくなる。


 命の危険がある谷で、紅茶の水を探していたのだ。冷静に考えると、なかなかひどい。


「お前、魔術師だろ」


 離れた場所から、ネローラン殿の呆れ声が飛んできた。


「茶飲み分の雨雲くらい作れんのか」


「雨雲……」


 確かに。


 大きな雨雲は無理だ。天候を変えるほどの出力もない。だが、やかん一杯分の水を集めるくらいなら、僕にもできるかもしれない。


 空気中の水分を集め、冷やし、小さな雲にして落とす。


 風魔法と氷結魔法の組み合わせだ。


「ええと……湿度は高い。風は乱れてるけど、局所的に集めるだけなら……」


 僕はやかんの上に両手をかざした。


 空気を寄せる。


 冷やす。


 逃がさない。


 やかんの上に小さな白い雲ができた。


 雲というより、湯気の塊に近い。けれど、そこからぽつり、ぽつりと雫が落ち始めた。


「おお」


 ディーゼンさんが感心したように声を上げる。


 僕は少しだけ胸を張った。


 やがて、やかんの中に必要な分の水が溜まった。アリアさんは気を利かせて、近くの枯れ枝を集め、火の魔法で小さな火をつけてくれた。


「水魔法では駄目なのか?」


 ディーゼンさんがアリアさんに尋ねた。


「無から作った水は、術式が切れれば消えてしまいます。でも、タルボ殿のこれは違います。空気中にあった水を集めただけですから」


「へえ。魔術師ってのは、結構面倒なんだな」


「面倒というより、理屈です」


「俺はあいつと違って、魔法はからっきしだからな」


 そう言って、ディーゼンさんはネローラン殿の方をちらりと見た。


 ネローラン殿は何も言わない。


 紅茶ができると、僕とアリアさんは並んで腰を下ろした。


 ディーゼンさんとネローラン殿は、いらないらしい。少し離れた場所で、ディーゼンさんが一方的に何か話しかけているようだった。ネローラン殿は、たまに短く返すだけだ。


 僕は湯気の立つ紅茶をすすりながら、小声で言った。


「アリアさん。あの二人のご関係って、実際どうなんでしょう」


「どう、とは?」


「いくら昔からの仕事仲間とはいえ、宮廷魔術師幹部のネローラン殿にあそこまで近いのは、大陸中でディーゼンさんくらいじゃないですか」


「大陸中で、とまでは言いませんが……確かに、不思議ではありますね」


 アリアさんが少しだけ笑った。


「仕事仲間というより、昔からの友人のようにも見えます」


「でも、その割にはネローラン殿の態度が冷たすぎませんか」


「それは……ネローラン殿ですから」


「それで納得できるのが怖いです」


 結局、本人たちに聞く勇気はなかった。


 紅茶を飲み終え、少しだけ体が温まると、僕たちは再び歩き始めた。


 谷の風は相変わらず不気味だった。


 木々はねじれ、苔は濡れ、岩の間からはどこか甘く腐ったような臭いが漂ってくる。

 けれど、その先で見た光景は、それまでの不気味さを一瞬忘れさせるほどだった。


 その甘さが、急に腐敗した肉の臭いへ変わった。

 僕は鼻を押さえた。


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