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第四話 ならず者の案内人 ディーゼン


 城門前には、すでにアリアさんが立っていた。


 門の上では衛兵が来城者を確認し、出入りする荷馬車の車輪が石畳を叩いている。

 そんな中で、アリアさんだけが妙に場違いなほど背筋を伸ばしていた。


 簡素な皮袋を肩にかけ、背には弓と矢筒。腰の左側には短いダガーまで下げていた。


 ……本当に調査任務だよな、これ。


「アリアさん」


 僕は恐る恐る声をかけた。


「今回の任務は、調査だけですよね」


 言いながら、つい彼女の弓矢に目がいく。


 アリアさんは、僕の視線に気づいたらしい。少しだけ胸を張った。


「タルボ殿。いつ魔族の襲撃に遭うか分かりません。備えは必要です」


「それは、まあ、そうですが」


「こう見えても、武芸は幼少期より嗜んでおります」


 そう言って、アリアさんは弓を引く仕草をした。


 綺麗な姿勢で様になっている。

 ただ、僕の不安はまったく消えなかった。

 むしろ増えた。


 なぜなら、彼女が完全にやる気だったからだ。


「タルボ殿は、ずいぶん荷物が多いようですが」


 今度はアリアさんの視線が、僕の背負子に移った。


 僕は反射的に背筋を伸ばした。


 背負子の中には、薬草、鉱石、魔導書、携帯用の小鍋、火打ち道具、干し肉、紅茶、菓子、念のための古い術式盤、念のための予備の術式盤、念のための予備の予備が入っている。


 正直、入宮以来、任務で国外どころか王都の外へ出たことすらほとんどない。


 何を持っていけばいいのか分からず、目についたものを片っ端から詰め込んだ結果がこれだった。


 恥ずかしい。


「いざという時のために、少し」


「準備万端ですね」


 アリアさんは真顔で言った。


「頼りにしております」


 やめてください。


 その純粋な信頼が、僕には一番重い。


 そうこうしているうちに、城門の内側から一台の馬車が近づいてきた。宮廷所属を示す紋章が側面に刻まれている。


 そして、その横を歩いていた人物を見て、僕の胃がきゅっと縮んだ。


 ネローラン殿だった。


 距離があっても、あの冷たい目だけはすぐに分かる。


 ネローラン殿は僕と背負子を一瞥した。


「行商か、お前は」


 ……違います。

 ごめんなさい。


 僕が黙っていると、ネローラン殿はもう興味をなくしたように御者へ顎をしゃくった。


「荷物は御者に預けろ。行くぞ」


 行くぞ。


 そう言われて、僕は慌てて背負子を下ろした。


 けれど、ふと気づく。


 どこへ?


 ニラバへ向かうなら、このまま馬車に乗るはずだ。しかしネローラン殿は馬車に乗らず、城門の外ではなく王都の横道へ足を向けた。


 僕とアリアさんは顔を見合わせ、慌ててその後を追う。


「ネローラン殿」


 歩きながら、アリアさんが問いかけた。


「ニラバに向かうのではないのですか」


 こういう時、臆することなく尋ねられるアリアさんは女神に見える。


 少なくとも、僕には無理だ。


「案内人が必要だ」


 ネローラン殿は振り返りもしない。


「ニラバは名目上ひとつの国家であっても、内側は部族と自治領の寄せ集めだ。地図だけ見て歩けるほど簡単な国ではない」


 そう言って、ネローラン殿はソホスター通りへ入った。


 僕は思わず足を止めかけた。


 ソホスター通り。


 王都の外れにある歓楽街だ。酒場が密集し、昼間から酔客が喧嘩し、夜になればスリや置き引きや決闘騒ぎが起きる場所として知られている。


 当然、僕は行ったことがない。


 怖いからだ。


 アリアさんも困惑しているようだった。無理もない。少なくとも、アリアさんのような人が足を踏み入れるような場所ではない。


 真昼間だというのに、通りは騒がしかった。


 酒の匂い。焼いた肉の匂い。こぼれた安酒の甘ったるい臭気。店先では粗野な男たちが笑い、奥の路地では誰かが怒鳴っている。


 僕はなるべく目立たないよう、ネローラン殿の背中に隠れるようにして歩いた。


 不思議なことに、ネローラン殿が通ると周囲の声が少しずつ小さくなる。


 笑っていた男が口を閉じる。


 路地にいた女が壁際へ下がる。


 酔った男が絡もうとして、顔を見た瞬間に目を逸らす。


 すごい。


 恐怖というのは、こういう時とても便利な盾になるらしい。


「タルボ殿」


 アリアさんが小声で言った。


「ここは……その、治安があまり良くない場所なのでは」


「はい。かなり」


 僕たちがそんな会話をしている間にも、ネローラン殿は迷いなく進んでいく。


 やがて足を止めたのは、地下へ続く階段の前だった。


 看板は古びていて、店名すら読みづらい。階段の下からは、昼間だというのに酒臭い空気が上がってきていた。


 僕は帰りたくなった。


 ネローラン殿は扉を開けた。


 中に入った瞬間、視線が集まる。


 さっきまで騒いでいたらしい強面の男たちが、一斉に黙った。酒杯を持ち上げたまま固まっている者までいる。


 ネローラン殿は気にも留めず、まっすぐカウンターへ向かった。


 店主らしき男が、濡れた布で杯を拭いている。


「ディーゼンは」


 ネローラン殿が短く尋ねた。


 店主は何も言わず、奥の部屋を指差した。


 ネローラン殿は頷きもせず、そちらへ向かう。


 僕とアリアさんも続いた。


 奥の部屋には、長髪で無精髭の男がいた。


 机の上には酒瓶が何本も転がり、食べかけの肉と、雑に広げられた地図らしきものが置かれている。

 男は椅子にだらしなく腰かけ、両脇の酒場女にからかわれながら、いかにも人生を無駄遣いしている顔で笑っていた。


「ディーゼン」


 ネローラン殿が言った。


「相変わらず、ゴミのような暮らしをしているな」


 容赦のない一言だった。

 だが、男は顔を上げ、にやりと笑った。


「おいおい、随分な挨拶だな。ネロ」


 ネロ。


 僕は耳を疑った。


 この人、今、あのネローラン殿のことをネロと呼んだのか。


「二年前のあの時以来じゃないか。久しぶりの再会だってのに、もう少し優しい言葉はないのかよ」


 ディーゼンと呼ばれた男は、握手のつもりなのか、ふらふらと左手を差し出した。


 ネローラン殿はそれを完全に無視した。


「蒼磁石の輸送隊が襲撃された。人間の仕業ではない可能性が高い」


「ニラバ民族共和国の案内が要る。我々と同行しろ」


「ニラバ、蒼磁石、襲撃……なるほどな。で、要件だけかよ」


「そうだ」


「変わらねえなあ」


 ディーゼンは不満そうに言ったが、なぜか少し嬉しそうでもあった。


 ネローラン殿の圧を感じたのか、両脇にいた酒場女たちはそそくさと部屋を出ていく。扉が閉まると、急に部屋が広くなったように感じた。


 僕は、改めてディーゼンを見た。


 長い髪は適当に後ろで束ねられている。服は旅装だが、かなりくたびれている。腰には短剣。壁には、どこの紋章とも知れない剣が立てかけられている。足元には、何かの爪痕がついた革鞄が置かれていた。


 風貌だけで判断するのはよくない。


 よくないのだが、どう見ても宮廷の人間ではない。


 アリアさんも同じことを思ったのだろう。少し警戒した顔で口を開いた。


「ネローラン殿。この方が、おっしゃっていたニラバの手引き人でしょうか」


「そうだ」


 ネローラン殿は、まったく表情を変えない。


「この男はディーゼン。南大陸を転々としているならず者だ。我々と同行する」


「おい、ネロ。ならず者って言い方はないだろ」


 ディーゼンが肩をすくめる。


「これでも各地で魔物退治、賊退治、傭兵仕事、鉱物採取、護衛、道案内と、懸命に働いてるんだぜ。せめてレンジャーと呼んでくれ」


「ならず者で十分だ」


「ひどいねえ」


 ディーゼンは笑った。


 けれど、その目だけは妙に落ち着いていた。


 さっきまで酔っていたはずなのに、ネローラン殿が来てから少しずつ顔つきが変わっている。ふざけているようで、こちらを観察している。


 僕はそのことに気づいて、少しだけ背中が冷たくなった。


「ところで」


 ディーゼンが僕たちの方を見た。


「お前がこんな若い部下を、こんなところまで連れてくるなんて珍しいな。よろしく頼むよ、お嬢さん」


「え、はい」


 アリアさんが珍しく返答に詰まった。


 ディーゼンはそれを見て、愉快そうに笑う。


 ネローラン殿は面倒くさそうに目を細めた。


「話は道中で聞く。出るぞ」


「おい、俺の返事は聞かないのか」


「必要か」


「へいへい」


 そう言って、ディーゼンは立ち上がった。


 来るんだ。

 僕は思った。


 こうして僕たちは、酒臭い地下の部屋を出た。


 日差しが、眩しい。


 ソホスター通りのざわめきは相変わらずだったが、ネローラン殿が店から出た瞬間、周囲がまた少し静まる。


 通りの外れには、先ほどの宮廷馬車と数名の兵士が待機していた。


「さすが宮廷魔術師様となると、おもてなしもひとしおだね」


 ディーゼンはそう言って、御者にご苦労と言わんばかりに片手を上げた。


 そして誰よりも先に馬車へ乗り込んだ。


 アリアさんの眉がぴくりと動いた。


「ネローラン殿」


「何だ」


「あのようなならず者を、重要な公務に加えるなど……」


「道理に反すると?」


 ネローラン殿が、アリアさんの言葉を先に言った。


 アリアさんは少しだけ唇を結び、小さく頷いた。


「はい」


 ネローラン殿は彼女を見た。


「お前にとって、公務は体裁か。それとも結果か」


 アリアさんは答えに詰まった。


 けれど、すぐに顔を上げる。


「……結果です」


「ならば乗れ」


 ネローラン殿は馬車の扉に手をかけた。


「奴の腕だけは確かだ」


 それ以上の説明はなかった。


 僕たちは馬車に乗り込んだ。


 宮廷用の馬車は、決して狭くない。


 座席は柔らかく、内装も質が良い。窓には厚手の布がかけられ、振動を抑える工夫もされている。


 それなのに、窮屈でたまらなかった。


 決して僕が太っているからではない。


 隣に座るアリアさんは、まだディーゼンを警戒している。


 斜め向かいのネローラン殿は足を組み、いつの間にか取り出した調書に目を落としている。存在感が強すぎて、馬車の半分くらいを占領しているように感じる。


 そしてディーゼンは、そんな空気を楽しむように、向かいの席で背もたれに体を預けていた。


 馬車が動き出す。


 車輪が石畳を叩き、やがて王都の道を抜けていく。


 沈黙が続いた。


 馬車の振動音が、やけに大きく聞こえる。


「ネロはいつもこうだろ」


 先に口を開いたのはディーゼンだった。


「ごめんね」


 誰に謝っているのか分からないが、たぶん僕たちにだ。


 ネローラン殿は調書から目を上げない。


 ディーゼンは肩をすくめると、今度はこちらに体を向けた。


「自己紹介がまだだったな。俺はディーゼン。さっきも言われた通り、南大陸を転々としてる。魔物退治、護衛、道案内、鉱物採取、まあ、金になることはだいたいやる」


 さっきまでの酔いは、かなり抜けているように見えた。


 顔つきが違う。


 頼りないようで、目だけは周囲をよく見ている。


「ネロとは昔からの仕事仲間みたいなもんだ」


 ネローラン殿の古くからの仕事仲間。


 ということは、宮廷は以前からこういう外部の人間に公務を依頼していたということなのだろうか。


 僕はそれを考えたが、面倒なことになりそうなので口には出さなかった。


「私はタルボ・シーストです。鉱物管理局に所属しています」


「シースト?」


 ディーゼンが少し目を細めた。


「ドリアリの貴族のシースト家か。槍術も得意な家だろ。魔法に槍術、すごいじゃないか」


 家名だけでそこまで分かるのか。


 僕は驚いた。


 同時に、ネローラン殿が推薦する人物だけのことはあるのだと、妙に納得してしまった。


「タルボ殿」


 隣からアリアさんの声がした。


「槍術もできるのですか」


 期待の目だった。


 痛い。


 その目が痛い。


 本当は、槍術が駄目だったからこっちにいるんです、とは言えない。


「いや、兄上と比べたら全然です」


 嘘ではない。


 兄上と比べたら、本当に全然だ。


 比べなくても全然だが、そこは言わない。


「なるほど。ご謙遜を」


 アリアさんは感心したように頷いた。


 やめてください。


 謙遜ではなく、保身です。


「で」


 ディーゼンが今度はアリアさんを見る。


「さっきまで警戒心満載で俺のことを見ていたこちらの美人は?」


 アリアさんは少しだけ表情を引き締めた。


 だが、地下酒場にいた時よりは落ち着いている。


「先ほどは失礼しました、ディーゼン殿。私はアリア・ベルハンと申します。現在はタルボ殿のもとでご指導いただいております」


「ベルハン?」


 ディーゼンが予想以上に驚いた顔をした。


「あのベルハン家か」


「はい」


「十年以上前になるかな。一度依頼を受けて、ベルハンのお屋敷に招かれたことがある。庭園に馬鹿みたいにでかい像があるところだろ」


「馬鹿みたいに、という表現はどうかと思いますが」


 アリアさんが少しだけ目を細める。


「あれは曽祖父の代に、不壊鉱を発見した記念として建てられたものです」


 不壊鉱。


 鉄と合わせることで錆びにくくする、近代史最大の発見のひとつだ。


 あれがなければ、今のミルヴァードの工業発展はなかったと言われている。鉄道、橋梁、工場設備――国の骨組みを支えている鉱物だ。


 僕は恥ずかしながら、それがベルハン家から生まれたことを知らなかった。


「アリアさんって、すごいところの生まれなんですね」


 情けないことに、無意識に背筋が伸びた。


 アリアさんは静かに首を振る。


「先祖の功績であって、私が成したことではありませんから」


 そう言って、小さく微笑んだ。


 嫌味ではなかった。


 本気でそう思っている顔だった。


「なら、アリア嬢はなぜ魔術の道に?」


 ディーゼンが尋ねた。


 それは僕も少し気になっていた。


 アリアさんは窓の外へ一度目を向けてから、穏やかに答えた。


「人間で魔法を使える者は多くありません。このような才を預かった以上、世のお役に立てるならと思い、志しました」


 期待通りの回答だった。


 流石です。


 僕なら、できれば仕事を増やしたくないから隠します。


「で、どんな魔法が得意なんだ?」


 ディーゼンがさらに聞いた。


 アリアさんは少し考えるように指先を重ねた。


「正直、対戦闘魔法は不得手です。ですが、状況に合わせて術式を組むことは、昔から得意でした」


「へえ」


「そうですね」


 そう言って、アリアさんは僕の方を向いた。


 なぜ僕を見る。


「タルボ殿、少し失礼します」


「え」


 返事をするより早く、アリアさんが身を寄せてきた。


 顔が近い。


 近い。


 彼女は両手を僕の両耳の横へかざした。


 超えてはならない距離感に、周りの雑音が消える。


 馬車の木材が軋む音。


 車輪が砂利を踏み砕く音。


 馬の蹄が地を叩くリズム。


 風の音。


 すべてが、すっと遠のいた。


 ……ん?


 いや、実際に消えている。


 僕が左右に首を振ると、アリアさんは少し嬉しそうに微笑んだ。


「今、タルボ殿の耳から入る周囲の音だけを消しました。私の声は聞こえますよね」


 確かに、アリアさんの声だけははっきりと聞こえる。


 僕は大きく頷いた。


「消したい音の波と、反対の波をぶつけるイメージでかけました」


「今作ったのか、それ」


 ディーゼンが感心したように言う。


「器用なもんだな」


 魔法とは、突き詰めればイメージの具現化だ。


 頭の中で描いた現象を、魔力という出力で現実に引き出す。理屈だけ聞けば簡単に思えるが、分かることと、できることの間には深い溝がある。


 たとえば火は分かりやすい。


 熱があり、燃えるものがあり、炎が揺れる。誰もが一度は見たことがある。だから初歩の魔法として扱われる。


 だが、音は違う。


 形も色もない。触れることもできない。ただ空気の振動として存在しているだけだ。それを打ち消すには、同じ波長で真逆の波を重ねる必要がある。


 理屈は分かる。


 だが、それをこの場で即座にイメージし、魔法として成立させるとなると話は別だ。


 見えないものを、見えているかのように扱う。

 そんな真似ができる魔術師は、そう多くない。


 魔力感知といい、この応用力といい、アリアさんはやはり相当な逸材だった。


 ……まずい。


 僕が指導員なんかで、本当にこの人の才能を潰したらどうしよう。


 どうしよう。


「タルボ殿」


 声が聞こえた。


「タルボ殿」


「はっ」


 気づけば、アリアさんが心配そうに僕を見ていた。


 顔が近い。


 まだ近い。


「私の魔法でお気分が悪くなられましたか? 申し訳ございません。今すぐ解きます」


 そう言って、アリアさんは再び僕の両耳の近くに手をかざした。


 次の瞬間、雑音が耳の中へ戻ってきた。


 馬車の軋み。


 車輪の音。


 風の音。


 ディーゼンの小さな笑い声。


 全部聞こえる。


「僕は大丈夫です。しっかり聞こえます」


「ですが、お顔が赤いようですが」


「大丈夫です」


「本当に?」


「本当に」


 ディーゼンが嬉しそうににやついていた。


 やめてほしい。


 ネローラン殿は相変わらず足を組み、調書を読んでいる。こちらを見ようともしない。


 あの人の圧を消す魔法も、ぜひお願いします。


 アリア様。


 馬車は王都を離れ、やがて国境へ向かった。


 最初のうちは整備された街道が続いていた。工業都市ミルヴァードらしく、道には荷馬車の轍が深く刻まれ、ところどころに蒼磁石や鉄材を運ぶための標識が立っている。


 だが、国境を越え、ホイロ高原へ差しかかる頃には景色が変わった。


 高原とは名ばかりで、道は次第に狭くなっていく。


 片側は崖、もう片側は切り立った岩肌。

 道は馬車一台が通るだけで精一杯だった。


 草はまばらで、風だけが強い。遠くの山肌は赤茶けていて、ところどころに黒い鉱脈のような筋が走っている。


 馬車の揺れもひどくなった。


 僕は座席の端にしがみつきながら、心の中で王都の机を恋しがった。


 あの狭い執務室。


 山積みの資料。


 冷めかけの紅茶。


 食べかけの菓子。


 今思えば、あれは天国だったのではないか。


 そんなことを考えていた時だった。


 馬車が突然止まった。


 前のめりになり、僕は危うく座席から落ちそうになる。


「何だ」


 ネローラン殿が調書を閉じた。


 御者の声が外から聞こえる。


「前方、道が塞がれています」


 僕たちは馬車を降りた。


 目の前には、崩れ落ちた崖があった。


 大きな岩と土砂が道を完全に塞いでいる。馬車はもちろん、人ひとり通る隙間もなさそうだった。


 だが、妙だった。


 崖崩れにしては、岩の積もり方が不自然に見える。まるで、道を塞ぐために落とされたように、中央へ集中していた。


「荷台襲撃の次は、輸送路の妨害ですか」


 アリアさんが低く呟いた。


 僕は思わず、王都の方角を振り返った。


 戻るなら、今しかない。


 そう思った瞬間、ネローラン殿が御者と兵士に命じた。


「王都へ伝令鳥を飛ばせ。復旧要請も出しておけ。兵はここで待機。我々は先に行く」


 我々。


 その中に僕は含まれますか。


 含まれるんでしょうね。


 分かっています。


「先に、とは」


 尋ねたのはアリアさんだった。


 ネローラン殿は崩れた道ではなく、横手に続く細い獣道へ目を向けた。


「ニラバ峡谷を抜ける」


 その言葉を聞いた瞬間、ディーゼンの顔から笑みが消えた。


「おい、ネロ」


 声の調子が変わっていた。


「ニラバ峡谷って、あの怨地の谷を抜けるのか」


 怨地の谷。


 聞き覚えはある。


 ニラバ峡谷の別名だ。


 昔から魔物が多く、獣も人も迷いやすい土地。

 噂では、串刺しにされた獣の死骸が、谷のあちこちに残されているとかいないとか。


 もちろん、僕は行ったことがない。


 行きたいと思ったこともない。


「あそこは魔物も多い。それに――」


「そのためにお前を連れてきた」


 ネローラン殿が、ディーゼンの言葉を遮った。


 ディーゼンはしばらく黙っていた。


 それから、口の端だけで笑う。


「報酬は上乗せだぞ」


 そう言って、剣の位置を確かめる。


 馬車の方を見ると、アリアさんはすでに自分の荷物を下ろしていた。


「よし」


 小さく自分に言っている。


 そして、僕は遠ざかる王都の方角を見た。


 帰りたい。

 心の底からそう思った。


 けれど、ネローラン殿はもう歩き出している。アリアさんも、ディーゼンも続いている。


 僕だけが、ここに残るわけにはいかなかった。


 背負子を背負い直し、僕は三人の後を追った。

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