第三話 紅紫の魔腕 ネローラン
元老の部屋は、僕の執務室の三倍は広かった。
「で、何かね」
机の向こうで、ロースト元老が面倒くさそうに言った。
白髪をきれいに撫でつけた、いかにも偉い人という顔の老人である。
「え……と、ですから」
自分でまとめた資料を見た。
なのに、声にすると途端に頼りなくなる。
「蒼磁石の出荷量の減少は、今回の輸送隊襲撃だけでは説明がつかず、その、ま、魔族の関与も……」
「魔族?」
あ、まずい。
ロースト元老の眉が、分かりやすく動いた。
「君たちは、分かって言っているのかね。今その名を出すことが、どれだけ面倒な意味を持つか」
面倒。
偉い人たちにとって、危機とはだいたい面倒の別名である。
「あくまで推測です」
アリアさんが一歩前に出た。
相変わらず、声が澄んでいる。
僕の声とは大違いだ。
「君は、見たところ新人のようだが」
「困るのだよ。推測を報告に混ぜられては。蒼磁石はミルヴァードの未来を左右する資源だ。軽い言葉で騒ぎにされては困る」
「軽い言葉ではありません」
アリアさんが言った。
僕は内心で頭を抱えた。
アリアさん。
そこは少し軽くしてもいいところです。
「出荷量の減少は二か月前から始まっています。今回の襲撃は、最初の異常ではなく、表に出た最初の事件だと考えられます」
「考えられます、か」
ロースト元老は鼻を鳴らした。
「外れても責任を取らずに済む」
嫌な言い方だ。
けれど、言い返せない。
実際、まだ断定できるだけの材料はない。
「つまりどういうことだね」
ロースト元老は、今度は僕を見た。
「鉱物管理局としての結論を言いたまえ」
結論。
嫌な言葉だ。
結論には責任がついてくる。
責任は嫌いだ。
ここで引くべきだ。
報告はした。
危険性も伝えた。
あとは上が揉み消すなり、真面目に調べるなり、好きにすればいい。
そう思った。
「……鉱物管理局として」
なのに、口が動いた。
「ニラバ民族共和国への現地調査を要求いたします」
言ってしまった。
ロースト元老が、嫌そうに僕を見た。
アリアさんが、嬉しそうに僕を見た。
やめてほしい。
どちらの視線も、今の僕には重い。
「調査か」
ロースト元老は、深く息を吐いた。
「まったく、現場はいつも簡単に言う」
僕は今すぐ取り消したかった。
しかし、アリアさんの期待の視線が僕の背中に刺さっている。
「……はい。現地の確認が必要かと」
「よかろう」
「え」
思わず聞き返した。ロースト元老は、すでに次の書類へ視線を落としていた。
つまり、もう興味がない。承認したのではなく、厄介払いしたのだ。
それでも、通った。
「報告事項は承認する。大義であった」
僕たちは部屋から追い出された。
扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、僕はようやく息を吐いた。
「……疲れた」
「タルボ殿」
隣から、妙に近い声がした。
見ると、アリアさんが僕の顔を覗き込んでいる。
近い。
とても近い。
そして、困ったことに美人だ。
「先ほどは、進言してくださりありがとうございました」
「い、いや。アリアさんに後押しされただけですよ。こちらこそありがとうございます」
新人の前で格好をつけることもできない。
情けない。
けれどアリアさんは、本気で感心したように頷いていた。
「やはり、タルボ殿は見るべきところを見ておられます」
「いや、本当にそんな立派なものでは……」
謙遜ではない。
本当に、そんな立派なものではない。
僕はただ、帳簿の数字が気持ち悪かっただけだ。
執務室に戻って、僕は紅茶を淹れた。
こういう時は紅茶だ。
現実から目を逸らすには、温かい飲み物がいる。
「しかし、減少は二か月前からなんですよ」
僕は帳簿を広げた。
「今回の襲撃一件では、数字が合いません」
「では、以前から何かが起きていたと?」
「その可能性が高いです。嫌ですけど」
「嫌なのですか?」
「嫌ですよ。大事件の気配がする帳簿なんて、ただの呪物です」
アリアさんは少しだけ目を丸くした。
冗談のつもりだったが、半分くらい本気である。
蒼磁石。
魔動器の重要素材であり、ミルヴァードの工業を支える鉱物資源。
それが滞れば、工房も軍も宮廷も困る。
「やはり、二年前のスマニア島侵攻の報復でしょうか」
アリアさんが言った。
スマニア島。
その名前が出ると、少しだけ部屋の空気が変わる。
二年前、ミルヴァード王は突如、シェルカエン奪還作戦の一時休止を正式に発令した。
理由は、補給線の再編。
スマニア島統治の困難。
南大陸内部の軍備見直し。
魔族側との不要な大規模衝突を避けるため。
僕のような末端には、それ以上の情報は回ってこなかった。
ただ、妙な発令だった。
勝ったとも言わない。
負けたとも言わない。
撤退とも、休戦とも言わない。
「んん……どうでしょう」
僕は曖昧に答えた。
だとしたら、軍の仕事だ。
宮廷魔術師ではなく、軍の出番である。
そう考えて、少し安心している自分がいた。
情けない。
僕はそれをごまかすように、紅茶をすすった。
その時だった。
どん、どん。
扉が叩かれた。
嫌な音だった。
だいたい、嫌な用件の時ほど扉は重く叩かれる。
「……はい。どうぞ」
扉を開けると、青色の法衣をまとった男が立っていた。
上級宮廷魔術師だ。
紅茶が逆流しそうになった。
「鉱物管理局のタルボ・シーストだな」
「は、はい。何かご用件でしょうか」
「ネローラン殿が呼んでいる。来い」
ネローラン。
名前だけは知っている。
宮廷に五人しかいない赤紫の法衣。
その一人。
異名は、紅紫の魔腕。
そして、ミルヴァード最強の魔術師。
僕のような窓際宮廷魔術師が、できれば一生関わらずに済ませたい相手だった。
「タルボ殿」
背中を押された。
振り返ると、アリアさんがまっすぐな目でこちらを見ていた。
「行きましょう」
嬉しくないことに、彼女の目は輝いていた。
僕たちは青色法衣の男に連れられ、長い廊下を歩いた。
城の奥へ進むほど、人の声が減っていく。
床に敷かれた絨毯が足音を吸う。
帰りたい。
とても帰りたい。
やがて、男は一枚の扉の前で立ち止まった。
「ネローラン殿。お連れしました」
「入れ」
声だけで帰りたくなった。
「失礼します」
僕はゆっくりと扉を開けた。
部屋は、怖いくらい何もなかった。
机。
椅子。
地図。
以上。
処刑前の待合室である。
その机の向こうで、ひとりの女が立ち上がった。
年は四十前後に見えるが、はっきりとは分からない。
背は僕より高い。
長い茶髪が片側の顔を隠し、赤紫の法衣の下には薄い鎧を着込んでいる。
黒い手袋とブーツだけが、硬質な光を返していた。
その目がこちらを向く。
背筋が冷えた。
ドラゴンと向かい合えば、きっとこんな気分になるのだろう。
向かい合ったことはないけれど。
「お前か」
ネローランは言った。
「蒼磁石輸送襲撃に、魔族が関与していると進言したのは」
「え、はい。出荷量の減少幅から見て……」
「その説明は報告書で読んだ」
遮られた。
怖い。
「なぜ、伝令内容からそこまで言い切れる」
言葉が詰まった。
喉がうまく動かない。
その横で、アリアさんが一歩前に出た。
「伝令書には、わずかですが、人間のものとは思えない魔力の残穢がありました」
「ほう、わずかな残穢がわかると」
ネローランの視線が、アリアさんに移る。
僕にはほとんど分からなかった残穢だ。
それを読み取ったのだから、アリアさんの感知は相当なものなのだろう。
「魔力感知には、多少の自負があります」
ネローランは構わず続ける。
「伝令書の記述、残穢。それだけなら、魔族に似せた偽装の可能性もある」
「否定はできません」
「では、なぜ魔族の関与を疑う」
「出荷量の減少が、今回の襲撃だけでは説明できないからです。以前から、組織的な何かが働いていた可能性があります」
アリアさんは臆さない。
すごい。
僕は今、自分の足が床にくっついているかどうかも怪しい。
ネローランはしばらくアリアさんを見ていた。
「お前は誰だ」
「失礼いたしました。アリア・ベルハンと申します。現在、タルボ殿の下でご指導いただいております」
アリアさんは、僕にした時と同じように、美しい礼の形で深々と頭を下げた。
「アリア・ベルハン……」
ネローランは、わずかに間を置いた。
その響きに、何かを確認するような沈黙があった。
次に、彼女の視線が僕へ戻る。
「タルボ・シースト」
「は、はい」
「お前はどう見る」
「え」
「魔力ではない。帳簿だ」
逃げられない。
僕は資料を握る手に力を込めた。
「……今回の襲撃だけなら、減少幅が大きすぎます。二か月前から小さな不足が出ていて、それが少しずつ広がっている。単発の野盗や偶発的な事故では、説明がつきません」
「帳簿を信じるのか」
声が震えた。
「ただ、数字は怯えませんので」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
ネローランの目が、僅かに動く。
怒らせたかもしれない。
終わった……
「ふん」
短く言った。
「お前たちは、これから私とニラバへ向かう」
部屋の空気が止まった。
「……はい?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「軍は動かせん。今、軍をニラバ方面へ動かせば、共和国は警戒する。魔族側にも余計な口実を与える。だが、鉱物管理局の調査官なら話は別だ」
「あの、調査官というのは……」
「お前たちだ」
やっぱり。
「ですが、我々が行っても……」
「報告書には、ニラバ民族共和国への現地調査を要請するとある」
ネローランの目が光った。
「これは虚言か、タルボ・シースト」
違います。
いや、違わない。
確かに言った。僕が言った。言ってしまった。
「……いえ。私の発言です」
「ならば行け」
「タルボ殿」
隣でアリアさんが言った。
「行きましょう」
アリアさん。
今日その台詞、何回目ですか。
そしてなぜ、毎回それを言うたびに目が輝くんですか。
明らかに動揺している僕と、明らかにやる気に満ちたアリアさんを、ネローランは一瞥した。
「一時間後、城門前だ」
一時間って、早すぎませんか。心の準備がまだ……
「下がれ」
その一言で、僕たちは部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下に戻った瞬間、僕はようやく息を吐いた。
「……アリアさん」
「はい」
「本当に、行くんですか」
彼女は迷いなく頷いた。
「もちろんです」
その横顔は、どこまでも真剣だった。
僕は天井を見上げた。
蒼磁石の帳簿。
血に染まった伝令。
魔族の残穢。
ニラバ民族共和国。
つい昨日まで、僕の平穏は小さな執務室と冷めた紅茶の中にあった。
それなのに今は、一時間後に城門前である。
どうしてこうなった。




