二話 謹厳新人アリア・ベルハン
「あの……怒ってます?」
僕は、恐る恐る聞いてみた。
鉱物管理局の小さな執務室には、山積みの資料。冷めかけた紅茶。食べかけの菓子。
そして目の前に、不機嫌そうな美人の新人宮廷魔術師。
どう考えても、気まずい。
「はい。怒っています」
「えっ、すみません。すみません」
反射的に謝ってしまった。
するとアリアは、少しだけ目を丸くした。
「あ、いえ。貴方にではありません。あの二人にです」
「そ、そうですか」
よかった。
僕じゃなかった。
胸の奥で、情けない安堵が広がる。
「あの方々は、体裁ばかり気にして、公務をまともに見ようともしません。私が苦言を申し上げたところ、新人は黙って見ておけ、の一点張りでした」
「なるほど。それで二人は面倒になって……」
言いかけて、僕は慌てて両手を振った。
「いやいや、ごめんなさい。今のは忘れてください」
「いえ。おそらく、その通りです」
アリアはきっぱりと言った。
「宮廷魔術師が実力だけで選ばれていないことは、知っていました。ですが、あれほど公務を軽んじる方々がいるとは思いませんでした。このままでは、この国の足元から腐ります」
突き刺さるほど真っ直ぐだ。
僕の新人時代とは大違いである。
あの頃の僕は、王都のどこの菓子屋がうまいかを調べることに、情熱を注いでいた。もちろん、そんなことを言ったら軽蔑されるだろう。
「ははは……入宮したからには、国のため、民のため、ですよね」
僕は笑ってごまかした。
すると、アリアは少しだけ表情を改めた。
「申し遅れました。私はアリア・ベルハンと申します。以後、ご指導のほど、よろしくお願いいたします」
そう言って、深々と頭を下げる。
礼の形は綺麗だった。
貴族の子女が身につける、隙のない所作だ。けれど顔を上げたときの目は、妙に強かった。
僕はその目を見返しきれず、少し視線を逸らした。
「僕は、タルボ・シーストです。ええと、ミルヴァード出身ではなく、地方都市ドリアリの出身で……」
何を言っているんだ、僕は。
自己紹介で、わざわざ弱点を差し出す必要はないだろう。
だが、口は止まらなかった。
「さっき先輩方が君をアリアって呼んでいたところを見ると、彼らも認める名家の出身なんでしょう。ほら、僕みたいな地方者には、わざと家名で呼ぶので」
言ってから、少し後悔した。
卑屈に聞こえただろうか…
アリアは、相変わらずまっすぐ僕を見ていた。
「タルボ殿」
「は、はい」
「公務に家名は関係ありません」
アリアは真顔で言った。
「ともに尽くしましょう」
そして、僕の手を両手で握った。
近い。
顔が近い。
金色の髪が揺れて、ふわりといい匂いがした。
体全体が一気に熱くなるのが分かった。
「あ、あの」
「どうされました?」
「いえ、その、何でもありません」
僕はなるべく平静を装い、そっと手を引いた。
心臓がうるさい。
これだから、美人は困る。
しかも本人にその自覚があるのかないのか、距離の詰め方が妙にまっすぐなのだ。
「ええと……早速ですが」
僕は咳払いをして、机の上の書類を一枚引き寄せた。
「蒼磁石のここ数か月の出荷量が、少し変なんです」
「蒼磁石ですか。あの魔動器の素材の?」
「そうです。よくご存じで」
「基本的な鉱物資源については、学院で学びました」
ちゃんと勉強してる。言うだけのことはある。
「シド博士が発明した魔動器は、宮廷外にも普及し始めています。灯火や炊事、工房の小型炉にも使われるようになってきました」
「魔力を込めて魔動器を使えば、貴方も魔法使い――」
アリアが、ふいに口ずさんだ。
最近、王都の街路でよく流れている販売歌だ。
露店の前で、客寄せのために子どもまで歌っている。
それを、こんな真面目な顔の彼女が口ずさんだ。
かわいい。
いや、今はそれどころではない。
「そ、そう。それです。そのため、国内の蒼磁石の需要が高まっているんですよ」
少し声が上ずった気がした。
僕はごまかすように、別の資料も取り出した。
「中央大陸の魔族国家シェルカエン奪還の突然の撤回から二年。その是非はともかく、国家興隆の鍵は、今や魔動器の普及にかかっています。魔力の強い者だけが便利に暮らせる時代から、魔力の弱い者でも魔導技術の恩恵を受けられる時代へ移りつつある。だからこそ、蒼磁石の安定供給は――」
そこで、僕ははっとした。
喋りすぎた。
緊張すると、僕は説明で間を埋めようとする悪い癖がある。
ちらりとアリアを見る。
退屈しているかと思った。
だが、彼女の目は意外にも輝いていた。
「勉強になります。タルボ殿」
「そ、そうですか」
「はい。続けてください」
また少し顔が近い。
近い。
僕は書類に視線を落とした。
「ええと、それで、これを見てください。今月の蒼磁石の出荷量が三万四千二百。先月が三万八千六百二十。先々月が四万二百」
「随分、落ちていますね」
「そうなんです。全体の数字だけを見ると、まだ大きな異常とは言い切れません。ただ、出荷元ごとに分けると、少し気になる偏りがあります」
僕は帳簿の端を指で押さえた。
「一番の採出国であるニラバ民族共和国からの供給が、明らかに減っているんです」
「ニラバは、三十年前の民族同意以降、共和国として安定している国だと記憶しています。鉱物貿易によって豊かで、ミルヴァードとも関係は悪くないはずです」
「アリアさんは勤勉ですね」
「当然です。宮廷魔術師ですから」
まぶしい。
真面目さがまぶしい。
「その通りです。ニラバは安定した供給元です。だから、こういう減り方は少し引っかかります。一度、ニラバ政府か、少なくとも王都の通商窓口に確認した方がいいかもしれません」
「上に報告しますか?」
「うーん……」
僕は視線を泳がせた。
上に報告。
それは、とても嫌な言葉だった。
報告すれば、質問される。質問されれば、説明しなければならない。説明すれば、誰かに笑われるかもしれない。
ばさり。
窓の外で、羽音がした。
じっ。じっ。
続いて、鋭く短い鳴き声が二度響く。
一羽の鳥が、窓枠に止まっていた。
黄色い羽を逆立て、せわしなく鳴いている。
伝令鳥だ。
採取鉱物の輸送護衛が携帯する鳥で、進捗状況や運搬路の異常を知らせるために使われる。青色なら平常伝令。黄色なら有事伝令。
もっとも、有事といっても、たいていは道の崩落や橋の破損、天候不順による足止めだ。
それが、鉱物管理局の窓枠に直接飛び込んでくる。
それだけでも十分に珍しい。
だが、様子がおかしかった。
羽が乱れている。
くちばしの先が震えている。
片足に括りつけられた小さな筒は、泥と血で汚れていた。
僕は急いで窓を開けた。
伝令鳥は逃げ込むように室内へ入り、机の端に止まった。
黄色の伝令鳥は珍しくない。
だが、こんな姿で届くことは、まずない。
「いったい、どういう……」
声がかすれた
僕は足の筒を外し、中の紙を取り出した。
紙はひどくよれていた。
端に赤黒い染みが広がっている。
僕の指先が止まる。
「タルボ殿?」
アリアの声が低くなる。
僕は紙を開いた。
文字は乱れていた。
まっすぐ書かれたものではない。震える手で、ほとんど引っかくように書かれている。
蒼磁石。
輸送時。
襲撃。
人間ではなく――
魔族。
喉が詰まった。
部屋の空気が、急に冷えた気がした。
「……魔族?」
僕の声は、自分でも情けないほど小さかった。
アリアが横から紙を覗き込む。
その表情が変わった。
怒りではない。
緊張でもない。
何か、もっと鋭いものだった。
「貸してください」
「え?」
「その紙です」
僕は反射的に紙を渡した。
アリアは赤黒い染みの部分に、指を触れないぎりぎりの距離で手をかざした。
彼女が顔をしかめる。
「……おかしい」
「おかしい?」
「この血痕に、わずかですが魔力の残穢があります」
「魔力の残穢……?」
「はい。ただ、人間のものとは考えづらい」
心臓が、嫌な音を立てた。
魔族。
蒼磁石の輸送。
襲撃。
僕は、書類の山を見た。
ついさっきまで、ただの数字だったもの。
三万四千二百。
三万八千六百二十。
四万二百。
紙の上の数字が、急に別のものに見えた。
誰かが運んでいた。
誰かが襲われ、必死にこの伝令を飛ばした。
「タルボ殿!」
アリアの声が、僕を現実に引き戻した。
「これは、すぐに上層へ申告すべきです」
「で、でも」
口が勝手に弱音を探す。
僕が行くのか?
僕が説明するのか?
「タルボ殿」
アリアは、まっすぐ僕を見た。
「貴方が最初に気づいたのです」
その言葉に、僕は息を止めた。
「数字の異常に気づいたのは、貴方です。伝令の意味をつなげられるのも、この資料を管理している貴方です」
「僕は……」
窓際だ。低魔力だ。地方出身だ。人前で話すのも苦手だ。
そう言おうとした。
けれど、机の上の紙が目に入った。
蒼磁石。
輸送時。
襲撃。
魔族。
僕は、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かりました。申告しましょう」
声はまだ震えていた。
だが、言った。
アリアは小さく頷いた。
「同行します」
僕は報告書の束から必要なものを抜き出し、慌ててまとめた。今月、先月、先々月。ニラバ民族共和国からの供給量。ほかの採出地との比較。伝令の紙。
どれも、さっきまで僕の日常の一部だった。
それが今は、何か大きなものの入口に見える。
僕は扉へ向かった。
手を伸ばす前に、自分の指が少し震えていることに気づいた。
アリアが横に立つ。
「行きましょう、タルボ殿」
「………はい」
僕は扉を開けた。
鉱物管理局の静かな部屋から、王城の廊下へ出る。
その瞬間、もう元の静けさには戻れないような気がした。




