一話 窓際の宮廷魔術師 タルボ・シースト
鉱物管理局の朝は、静かだ。
王城南棟の端にある小さな執務室で、僕は今日も書類に埋もれていた。机の上には、国内外から届いた報告書が山になっている。鉱山名、出荷量、輸送経路、品質、遅延理由、関税処理。紙の束は一つ片づけても、すぐ横から別の束が崩れてくる。
一応、僕も宮廷魔術師である。
身にまとっている白い法衣には、胸元にミルヴァード王家の紋章を囲む銀糸の刺繍がある。宮廷魔術師にのみ許された証だ。
もっとも、袖口にはインクの染みがつき、裾には書庫と倉庫を行き来するうちについた埃が薄く絡んでいる。
南大陸でもっとも権威ある魔法学校、ミルヴァード魔術学院を出て、王城勤めになった。肩書きだけなら、誰もが聞けば目を丸くするほど立派なものだ。
だが現実は、鉱物管理局勤務。
王都に入荷される鉱物資源の量を記録し、出荷元と数量を照合する仕事である。魔力の低い僕には戦闘任務も高度な研究も回ってこない。性格も小心者で、会議では端の席に座って黙っていることが多い。
つまり、窓際だ。
ドリアリの里にいる両親や兄弟には、できれば知られたくない。
だが、僕はこの仕事が嫌いではなかった。
誰にも怒鳴られない。危険な魔物と向き合う必要もない。貴族の機嫌をうかがう場に出されることも少ない。
数字は、声を荒らげない。
書類は、こちらを馬鹿にして笑わない。
少なくとも僕にとっては、人間よりずっと付き合いやすい相手だった。
僕は椅子に座り直し、湯気の立つ紅茶を一口飲んだ。机の端には、小さな皿に焼き菓子が置かれている。菓子を一つ口に放り込む。
やはり、メイフェ通りの菓子屋はうまい。
「ええと……霊核石が西部タイノエ鉱山から八千六百。黒受石がチーロン国、クリューエ鉱山から一万二千七百……」
ぶつぶつ読み上げながら、帳簿に数字を書き入れていく。
「次は……ニラバ民族共和国からの蒼磁石が……」
次の書類を手に取ったところで、眉が寄った。
「……ん?」
数字が、少し妙だった。
こんこん。
扉が鳴った。
肩が跳ねる。
こんな時間に訪問者。しかも、鉱物管理局の僕の部屋に。
嫌な予感しかしなかった。
「あ、はい、どう――」
どうぞ、と言い終える前に、扉が開いた。
「お忙しいところ、失礼するよ。シースト殿」
入ってきたのは、アグネタだった。
僕より四つ上の宮廷魔術師で、身なりだけは整っている。整いすぎていて、かえって人を見下すために襟を正しているように見える男だ。
その後ろには、ルトガーがいる。アグネタの半歩後ろで、すでに口元をゆがめていた。
胃が重くなる。
アグネタは、自分より家格が低い者や地方出身者を、わざとらしく家名で呼ぶ癖がある。親しみではない。礼儀でもない。相手を一段下に置くための呼び方だ。
「おや」
アグネタの視線が、机の端で止まった。
紅茶と菓子皿だ。
「おやつの時間でしたか? こんな部屋にこもって食べてばかりいると、ますます太りますぞ」
「太りますぞ」
ルトガーが嬉しそうに被せてくる。
くそ。
気にしていることを。
学院時代より丸くなったのは認める。だが、本人の前で言うことではない。
そう思っても、口には出せなかった。
「先輩方、何のご用でしょうか」
椅子から半分立ち上がり、できるだけ丁寧に言った。声が少し上ずった。
アグネタは、僕が言い返せないのを見て、目元だけで笑った。
「実は、忙しそうな貴方に助手をつけてやろうと思ってね」
「助手、ですか」
「そうだ。昨年入宮したばかりの新人だ。まだ宮廷の仕事に慣れていない。そこで、君のところで学ばせるのがよいだろうという話になった」
そんな話、初耳だった。
そもそも鉱物管理局に人などついたことがない。人手は足りないが、人を回してくれるような部署でもない。
嫌な予感がさらに濃くなる。
アグネタは扉の方へ顔を向けた。
「アリア。入りたまえ」
廊下から、一人の女性が入ってきた。
彼女もまた、白い法衣を身につけていた。
まだ袖口に汚れ一つない、新人らしい真新しい法衣だった。胸元の銀糸の紋章だけが、彼女も僕と同じ宮廷魔術師であることを示している。
金色の長い髪を後ろで結った、整った顔立ちの女性だった。立ち姿には品がある。だが、箱入り娘というよりは、乗馬服で馬を走らせている姿の方が似合いそうだった。
利発そうな目。
まっすぐ伸びた背筋。
ただし、表情は明らかに不機嫌だった。
僕は言葉に詰まった。
綺麗な人だと思った。
同時に、絶対に面倒なことになるとも思った。
「シースト殿。是非、アリアの新人指導員としてよろしく頼むよ。資料整理でも、伝票運びでも、何でもやらせておきたまえ」
「いや、しかし、私はその、指導員などを務めたことは――」
「大丈夫、大丈夫。君の仕事は、根気だけは必要だろう? 新人に宮廷魔術師の地道な務めを教えるには、ちょうどいい」
地道な務め。好きでしてるんだ、ほっといてくれ。
「よかったですな、シースト殿。ついに部下ができましたぞ」
「部下ではないだろう、ルトガー。助手だよ、助手」
「これは失礼。助手でしたな」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
僕は笑えなかった。
アリアも笑っていなかったが、何かを言いたそうにしている。だが、言えばさらに面倒になると分かっているのだろう。
その我慢の仕方だけは、僕にもよく分かった。
「では、我々はこれで。頼んだよ、シースト殿。彼女には、資料整理でも何でも、しっかり仕込んでやってくれたまえ」
「仕込んでやってくれたまえ」
ルトガーがまた繰り返す。
二人はアリアを部屋に残したまま、そそくさと出ていった。
扉が閉まる。
静けさが戻った。
ただし、さっきまでの静けさとは違う。
机の上には山積みの資料。端には冷めかけた紅茶。皿には食べかけの菓子。
そして、扉の前には、不機嫌そうな新人宮廷魔術師。
僕は立ったまま、しばらく黙っていた。
アリアも黙っていた。
気まずい沈黙だけが、紙の山の上に積もっていく。
「あの……」
ようやく口を開いた。
何を言えばいいのか分からない。新人指導員など務めたことがない。人に指示を出すこと自体が苦手なのだ。相手が不機嫌な美女となれば、なおさらである。
視線を泳がせ、机の上の紅茶と菓子皿を見た。
「お茶、飲みますか?」
アリアは眉間に皺を寄せた。
「いりません」
「そ、そうですか」
また沈黙。
僕は、ゆっくりと椅子に座り直した。
これは、鉱物管理局始まって以来の厄介事かもしれない。
少なくとも、今日の紅茶はもう、のんびり味わえそうになかった。




