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第九話 ニラバと帳簿の外


 船は、岩の間を縫うように川を下った。

 底の浅い細長い船だった。

 水面に近く、少し身じろぎしただけで、川に放り出されそうになる。

 僕は荷物を抱えたまま、できるだけ中央に座っていた。


 船の先にはラーサが座っている。

 腰には例のナタ。

 背筋はまっすぐで、揺れる船の上でもまるで岩の上に立っているようだった。


 僕とは大違いである。


「揺れるたびに顔色が変わるな」


 ラーサが振り返らずに言った。


「船に慣れていないだけです」

「谷では三度落ちれば慣れる」

「できれば一度も落ちずに慣れたいです」


 ラーサは鼻で笑った。


 やがて、谷が開けた。


 岩壁の切れ目の向こうに、平地が見える。

 そこに、ニラバ民族共和国の街があった。


 僕は初めて見るニラバの街に、少しだけ身を乗り出した。


 だが、想像していたものとは違った。


 蒼磁石の供給国。

 ミルヴァードの魔道器産業を支える鉱物国家。

 鉱物管理局の資料には、そう書かれていた。


 けれど、川岸に見えた街は、豊かには見えなかった。


 家々は低く、壁は土と石を継ぎ合わせたような造りだった。

 屋根の高さも、窓の形も、通りの幅もそろっていない。

 道はほとんど舗装されておらず、乾いた土に車輪の跡が何本も刻まれていた。


 その一方で、川岸の検問所だけは妙に立派だった。


 木の柵。

 見張り台。

 弓を持った兵。

 槍を持った兵。


 道よりも、兵の武器の方がよく整えられている。


 それが、最初に見たニラバだった。


 船が岸につくと、兵士が近づいてきた。


「止まれ。荷と身分を示せ」


 硬い声だった。


 ネローラン殿が先に船を降りる。

 赤紫の法衣が、朝の光を受けてわずかに揺れた。


 兵士たちの視線が、その色に止まる。


 ミルヴァードの宮廷魔術師。

 しかも赤紫。


 それだけで、兵士の態度が変わったのが分かった。


 続いてディーゼンさんが降り、アリアさんが降りる。

 僕は荷物に足を取られながら、どうにか船から岸へ移った。


 最後にラーサが降りようとした時だった。

 兵士の一人が、彼女の腰を指さした。


「その刃物は預かる」


 空気が止まった。

 僕は嫌な予感がした。

 ラーサの手が、ゆっくりとナタの柄に触れる。


「これはわたしのものだ。腕を預けろと言われて、預ける者がいるか」

「街に入る蛮族は武器を預ける決まりだ」

「蛮族ではない。シセン族だ」

「同じだ」


 まずい。

 とてもまずい。


 ラーサの目が細くなる。

 その横顔を見ただけで、僕は胃が縮むのを感じた。


 アリアさんが一歩前に出ようとする。

 だが、その前にディーゼンさんが軽い調子で口を挟んだ。


「まあまあ、そう固いこと言うなよ。こっちは正式な使節のお連れさんだ。ちょいと刃物を持ってるくらい――」


「黙れ」


 ラーサと兵士が同時に言った。


 ディーゼンさんが口を閉じた。

 いや、火に油を注がなかっただけ、まだましかもしれない。


 兵士がさらに一歩近づく。


 僕は思わずネローラン殿を見た。

 ネローラン殿は、何も言わずに兵士を見ていた。

 ただ、それだけだった。


 だが、兵士の顔色が変わった。


 赤紫の法衣。

 冷たい目。

 そして、何もしていないのに、そこにある圧。


 兵士は一瞬だけ喉を鳴らし、視線をそらした。


「……今回は、ミルヴァード使節の同行者として通す」


 ラーサはナタから手を離した。


「最初からそう言え」


 兵士の眉が動いたが、何も言わなかった。


 僕は深く息を吐いた。


 権力というものは、便利だ。

 便利で、嫌なものだ。


 正しいから通ったわけではない。

 ネローラン殿の色が、通したのだ。


 検問を抜けると、ネローラン殿は僕たちを振り返った。


「私は総統府へ行く」


 短い一言だった。

 ディーゼンさんが肩をすくめる。


「俺もそっちだな。ぼん、そっちは頼んだ」

「頼んだ、ではなく、説明が先では」

「街を見てこいってことだろ」


 ネローラン殿が言った。


「タルボ。アリア。ラーサ」


 名前を呼ばれ、僕は背筋を伸ばした。


「帳簿の外を見ろ」


「……帳簿の外、ですか」


 聞き返してしまった。

 だが、ネローラン殿はそれ以上説明しなかった。


 いつものことだ。

 この人は、必要なことを必要最低限しか言わない。

 問題は、その最低限が僕にとってはいつも足りないことである。


 ネローラン殿とディーゼンさんは、兵に案内され、街の奥へ向かった。

 ディーゼンさんが一度だけ振り返り、軽く手を上げた。

 その仕草が、いつもより少しだけ硬く見えた。


 その先には、他の道とは違い、石で整えられた広い道が伸びている。

 総統府へ続く道だろう。

 その道だけが、妙に平らだった。


 僕たちは反対側の市場へ向かった。

 街の中に入るほど、違和感は濃くなった。


 道は狭く、乾いた泥と割れた石でできていた。

 排水の溝は浅く、濁った水がところどころで溜まっている。

 荷車が通るたび、土埃が舞った。


 それなのに、角ごとに兵がいた。


 弓を背負った兵。

 槍を持つ兵。

 剣を腰に下げた兵。


 貧しい街に、兵だけが多い。


 アリアさんも同じことを感じたらしい。


「随分、警備が厳しいのですね」


 ラーサが低く言った。


「鉱石の国だからな。奪う者も、奪われたくない者も多い」

「部族間の争いが多い、ということでしょうか」

「外の者はそう言う」


 ラーサは市場の一角を顎で示した。


「あれはマボフの印だ」


 木の看板に、山をかたどったような印が刻まれている。

 その周りの店だけ、兵の立ち位置が近い。


「クルクエン総統の出た部族ですね」


 アリアさんが言った。

 ラーサは短くうなずく。


「この国では、あの印があるだけで値が変わる」


「安くなるのですか?」


 僕が聞くと、ラーサは僕を見た。


「お前、本当に役人か」

「一応、そうです」

「高くなるに決まっている。こちらが買う時はな」


 なるほど。

 分かりやすい理不尽だった。


 市場には、いくつもの言葉と印が混じっていた。

 布の巻き方も違えば、首飾りの形も違う。

 同じ国の市場というより、いくつもの村が無理に一つの通りへ押し込められたようだった。


 その中で、ラーサは目立った。


 彼女が通ると、何人かが視線をそらす。

 店主の一人は、露骨に商品を奥へ引っ込めた。


「嫌われていますね」


 僕は小声で言った。


「恐れられていると言え」

「では、恐れられていますね」

「少しは言い方を考えろ」


 難しい人だ。

 アリアさんが困ったように僕たちを見る。


 その時、通りの向こうから、小さな子どもが三人、重そうな袋を背負って歩いてきた。

 袋の口から、青みを帯びた石が見えている。

 僕は足を止めた。

 蒼磁石だ。

 魔道器の核に使われる、ミルヴァードの産業には欠かせない鉱物。

 それを、子どもが背負っている。


 まだ十歳にもならないような子もいた。

 裸足の足には泥がこびりつき、肩に食い込んだ紐の跡が赤くなっている。


 アリアさんの表情が強張った。


「子どもが……運んでいるのですか」


 ラーサは淡々と言う。


「外の国が石を欲しがれば、誰かが掘る」


 アリアさんは何も言えなかった。

 僕も、言えなかった。


 ミルヴァードで蒼磁石は数字だった。

 出荷量。

 価格。

 不足率。

 納入予定。


 けれど、その数字の下には、この子どもたちの肩があった。


 僕はそのことを、今まで本当に考えたことがあっただろうか。


「おい、待て!」


 怒鳴り声がした。

 通りの先で、少年が兵士に腕をつかまれていた。


 年は十二、三歳ほどだろうか。

 痩せていて、頬がこけている。

 手には、小さな蒼磁石の欠片が握られていた。


「盗んだな」

「違う! もらったんだ!」


 少年が叫ぶ。


「誰にだ」

「鉱山の親方に。今日の分だって」

「登録は」

「……ない」


 兵士は鼻で笑った。


「なら、働いていない。働いていないなら、賃金もない。持っている石は盗品だ」


 僕は思わず前に出ていた。


「あの、少しよろしいですか」


 兵士がこちらを見る。


「何だ」


「その子が鉱山で働いていた可能性があるなら、まず雇用主を確認すべきではありませんか。労働記録、出入りの記録、鉱石の配分記録などがあるはずです」


 兵士は僕を見た。


「ない」

「確認を」

「登録がないと言った」

「登録がないことと、働いていないことは別です」


 自分で言いながら、思い出した。

 帳簿に名がなければ、いなかったことにされる。

 あれはシセン族だけの話ではなかったのだ。


 兵士は面倒そうに眉を寄せる。


「外国の役人が口を出すことではない」

「ですが、蒼磁石はミルヴァードとの取引品でもあります。未登録労働者が採掘や運搬に関わっているなら、輸出記録にも影響が――」


「うるさい」


 兵士の声が低くなった。


「ですが」

「外国人が口を出すなと言った」


 僕は口を閉じた。

 理屈は間違っていない。


 だが、ここでは通じない。


 僕の言葉は、紙の上では戦える。

 けれど、少年の腕をつかんでいる兵士の手を、今すぐ離させる力にはならなかった。


 ラーサの手がナタに動きかける。

 まずい。

 ここでラーサが兵士を斬れば、少年どころではなくなる。


 その時、アリアさんが前に出た。


「その子を離してください」


 静かな声だった。

 兵士が彼女を見る。


「何者だ」


 アリアさんは一瞬だけ息を止めた。

 そして、はっきりと言った。


「ミルヴァード宮廷魔術師、アリア・ベルハンです」


 ベルハン。


 その名を聞いた瞬間、兵士の顔色が変わった。


 僕にも分かった。

 効いたのだ。


 正しさではなく、家名が。


 兵士は少年の腕を離した。


「……今回は、警告で済ませる」


 少年は腕を押さえながら、こちらを見た。

 逃げていいのか分からない顔だった。


 ラーサが少年の前にしゃがむ。

 そして、乱れた肩紐を直してやった。


「走れ。次は捕まるな」


 少年は小さくうなずき、人混みの中へ駆けていった。


 アリアさんは、その背中を見つめていた。


 助けた。

 確かに助けた。

 けれど、その横顔に安堵はなかった。


 ラーサが立ち上がり、アリアさんを見た。


「便利な名だな」


 アリアさんは何も言わなかった。


 反論も、謝罪も、言い訳もできない。

 ただ、唇を結んでいた。


 ラーサはそれ以上責めなかった。

 それが、かえって重かった。


 もう、そこには誰もいない。

 けれど、いなかったことにはできない。


 少なくとも、僕は見てしまった。

 ネローラン殿の言葉が、ようやく少しだけ分かった気がした。


 帳簿の外を見ろ。

 帳簿にないから、いないのではない。

 いるのに、帳簿へ入れられていないのだ。


 僕は、少年が消えた路地を見ていた。

 この街には、そういう人間が多すぎる。

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