第二十一話 僕の武器
子ども、一。
その短い記録から、目が離せなかった。
「タルボ殿?」
アリアさんが、僕の手元を覗き込んだ。そして、同じ行で止まった。
ベルハンの印。
その下にある、子ども、一。
彼女の顔から、ゆっくりと色が落ちていく。
「この記録の移送先は」
声は、ひどくかすれていた。
「書かれていません。卸先の商会の符丁だけです」
「その符丁は、辿れますか」
「王都でなら」
口にしてから、自分の言葉の意味に気づいた。
王都でなら、辿れる。
商会の登録。卸先の台帳。港の積み荷記録。鉱物管理局の、埃をかぶった保管庫。僕が窓際の椅子から、ただ眺めてきた紙の山。
あの中のどこかに、銀貨百八十枚という数字の内側へ押し込められた、子どもひとりの行き先が眠っている。
*
「ヨーク」
ラーサが膝を折った。
兄の前に、同じ高さで座る。
「なぜ、村に報せなかった。ターニャのことも、ミラのことも。報せてくれれば、わたしは——」
「来たか?」
ヨークが、妹の言葉を遮った。
「来ただろうな。お前は来た。ナタ一本で、谷を下りてきただろう。それで、どうなった」
今度は、ラーサが答えられなかった。
「シセンの族長が、ニラバの坑で死ぬ。それで終わりだ。家の記録ごと、谷ごと、終わる。だから、報せなかった」
ヨークはゆっくりと首を振った。
「俺一人が、化け物になればいいと思った」
淵殻。
あの不自然に膨れた筋肉。黒ずんだ血管。人の身体の奥から、別のものが透けて見えるような魔力。
「淵殻は」
ネローラン殿が、初めて口を挟んだ。
「シセンの煙とは別物だ。あの量、あの濃さは、谷のものではない。どこで手に入れた」
ヨークの目が、すっと細くなった。
「寄越した者がいる」
広場の空気が、わずかに変わった。
「名は知らん。顔も、まともには見ていない。坑の外から来た。逃がした人足の隠れ家に、ある夜、置かれていた。樽で、だ」
「文が添えられていた」
ヨークは目を伏せた。
「『石を止めろ』と。それだけだ」
石を止めろ。
蒼磁石の輸送を止めろ。
ヨークたちの襲撃の裏に、誰かがいる。人足を救いたいのでも、ニラバを憎んでいるのでもなく、ただ、ミルヴァードへ石が流れることを止めたい誰かが。
ネローラン殿は、それ以上聞かなかった。
ただ、一度だけディーゼンさんと目を合わせた。二人とも何も言わない。その沈黙だけが、広場に残った。
*
ラーサが立ち上がった。
兄の腕を取る。
坑道で見た、あの手だった。爪の間に土が入り、指の皮が剥け、それでも離さなかった手。
「帰るぞ、兄者。ミラは、わたしたちが探す。お前は化け物にならんでいい」
ヨークは立った。
崩れるように、妹の肩へ重さを預ける。
それから、僕を見た。
「タルボ・シースト。紙で探せるか。ミラを」
問いというより、刃だった。
簡単に「探せます」とは言えなかった。
帳簿にない穴で妻を失い、数の中に娘を消された人の前で、紙を信じろとは言えない。
「分かりません」
僕は正直に言った。
「紙は、嘘をつきます。消されてもいます。途中で、途切れているかもしれません」
ヨークは瞬きもしなかった。
「でも、数は残ります。消した側にも、数だけは要るからです。銀貨百八十枚を、誰かが受け取って、誰かが帳簿に付けた。その線は、どこかに必ずあります」
息を吸った。
肩の奥が、まだ少し痛んだ。
「僕は、それを辿るのが仕事です」
ヨークは長いあいだ僕を見ていた。
やがて何も言わず、視線を外した。
信じたのではないのだと思う。
ただ、そこに一本だけ、まだ切れていない糸があると認めただけだ。
*
夜が薄くなり始めていた。
広場の松明は半分が燃え尽き、東の空との境目だけが、墨を水で割ったような色になっている。
シセンの戦士たちは、広場の隅で円になって座っていた。ニラバの兵は遠巻きのまま近づかない。槍の穂先だけが、ときおり鈍く白んだ。
「タルボ殿」
アリアさんが、僕の隣に立った。
「肩は、いかがですか」
「アリアさんのおかげで、もう大丈夫です。それより」
言葉を探った。
見つからないまま、聞いた。
「本当に、残るんですか」
「はい」
迷いはなかった。
「ラーサ殿たちは、ミラさんを探します。けれど、シセンの方々はニラバの紙が読めません。役所も、商会も、彼らには扉を開きません。開かせるのが、私の仕事です」
「ベルハンの名で」
アリアさんは、まっすぐ前を見ていた。
「この国の役人は、ベルハンの印を見ると扉を開きます。私はそれを、恥だと思っていました。そして今も、恥だと思っています」
彼女はそこで、一度だけ息を整えた。
「でも、恥なら恥のまま、使います。人を消した名前で、今度は人を探します」
次の言葉は来なかった。
それで十分だった。
「では、僕は王都側から押します」
僕はそう言った。
「符丁の先を辿ります。銀貨百八十枚がどこへ流れたか。誰が署名したか。アリアさんはニラバの端を持ち、僕が王都の端を持つ。両側から。繋がるまで」
アリアさんが、僕を見た。
その目は、何も返さなかった。答えは、もう出ていたから。
彼女は右手を差し出した。
握手のための手だった。
初めて会ったときの、あの距離の詰め方と同じだ。
僕は、その手を握った。
手のひらは冷えていた。
けれど、力は抜けていなかった。
*
「タルボ・シースト」
ネローラン殿の声がした。
振り返ると、ネローラン殿が顎で広場の隅を示していた。
決闘の前に、僕が脱ぎ捨てた場所。
白い法衣が、石畳の上にくしゃりと落ちたままになっていた。
「拾え」
「……え」
「脱ぐ許可は出していない」
僕は、のろのろと歩いていき、それを拾い上げた。
ひどい有様だった。
煤と土と血。銀糸は片側が切れて、垂れている。白というより、もう灰色に近かった。
「あの、ネローラン殿。僕の処分は」
「私が決める」
ネローラン殿は短く言った。
「王都へ戻れ。鉱物管理局に戻り、署名を洗え。商会の符丁、卸先の台帳、港の積み荷記録。三年前の雨季から、全部だ」
「……はい」
「それが処分だ」
ネローラン殿は、僕の持つ法衣を一瞥した。
「上官に皇帝水を浴びせた。囚人を逃がした。牢を破った」
「はい」
「二度やれば殺す」
「はい」
即答した。
それ以外の返事は、存在しなかった。
「お前は、私の命令より、目の前の手を取った。組織の人間としては失格だ」
僕は何も言わなかった。
「だから、椅子に戻れ」
ネローラン殿の声は、怒鳴ってはいなかった。
「お前が毎朝座っている椅子の下に、誰がいるか。お前はもう、見た」
机の、資料の、紅茶の、山積みの書類の下にいる、顔の見えない誰か。
「見た人間が座るのと、見ていない人間が座るのとでは、同じ椅子でも、別の椅子だ」
ネローラン殿は背を向けた。
「夜明けで発て」
歩き去る背中に、僕は頭を下げた。
そのとき初めて気づいた。
あの人は、僕を罰していない。
罰さない代わりに、逃げられない場所へ、僕を戻そうとしている。
窓際の椅子へ。
今度は、窓の外を知っている人間として。
*
「ぼん」
ディーゼンさんが隣に来た。
「辛気くせえ顔してんな。勝ったんだぞ」
「勝った気が、まったくしないんです」
「だろうな」
ディーゼンさんは、夜明け前の広場を眺めたまま笑った。
「ネロのこと、頼まれてくれ」
「……え?」
「あいつは、ミルヴァードに紙を飛ばした。総統府の控えをな。それが王都でどう扱われるか、あいつが一番わかっている」
握り潰される、ということですか。
そう聞く前に、ディーゼンさんが僕の背中を叩いた。
「だから、ぼんの帳簿が要るんだよ。紙が握り潰される前に、数字の方で外堀を埋めとけ。数字は握り潰すと、帳尻が合わなくなるからな」
それはネローラン殿の指示ですか。
そう聞く代わりに、僕は頷いた。
ディーゼンさんが笑った。
「やっぱり、ぼんは紙の人間だな」
少し前なら、情けない言葉に聞こえたかもしれない。
今は、そうは思わなかった。
*
夜明け前、僕は荷物をまとめた。
背負子の中身は、出発の時よりずっと重くなっていた。
ヨークの未完成台帳の写しを、ベルハンの記録の隣に並べる。
骨札から書き起こした、シセンの家の記録。
ヨーク。
妻、ターニャ。
子、ミラ。
五年前、ニラバへ移動。
片方には、名前だけがあって、行き先がない。
片方には、数だけがあって、名前がない。
この二枚を繋ぐ。
王都の、あの埃っぽい保管庫で。
冷めた紅茶と、山積みの書類の間で。
僕は便箋を背負子の奥へしまい、薄汚れた白の法衣を羽織った。
煤と土の匂いがした。
血の匂いも、まだ少し残っていた。
東の空が白み始めている。
船着き場の方から、アリアさんの呼ぶ声がした。
誰も見ていない場所で、ただ数字を辿ること。帳簿の外へ消された名前を、帳簿の中へ連れて帰ること。
それが、戦場にいない魔術師の、唯一の武器。
僕は日の出を背にした。




