第十八話 残されない者
決闘は終わった。
シセンは負けを認め、アリアさんは勝者として、この地に残ると言った。
ニラバ兵の列から、指揮官らしき男が前へ出てくる。
顎の張った、頑丈そうな顔つき。検問所で見た兵たちより、装具の革が使い込まれている。
「茶番は終わりか」
声は怒鳴っていなかった。それが、かえって硬かった。
「シセンの掟がどうであれ、ここは総統府の管理区域だ。武装した部族が押し入った事実は消えん」
穂先が、また上がる。
「決闘に、法的な効力はない。野蛮な見世物が一つ済んだだけだ」
この男は、間違ったことを言っていない。武装して広場へ来たのはシセン族で、ここがニラバの土地であり、槍試合に国の法を曲げる力がないのも、その通りだ。
「それに」
指揮官の視線が、こちらへ動いた。
「その男は脱獄犯だ」
僕のところで、止まる。
「鉱山襲撃犯の逃亡を幇助し、牢を破った。ミルヴァードの宮廷魔術師だろうが関係ない。引き渡してもらう」
手首に、もう手枷はない。ディーゼンさんが外してくれた。
当たり前だが、罪の方は外れていない。
アリアさんが、僕の前へ半歩出た。
「彼は——」
「ベルハンの娘は黙っていろ」
指揮官が遮った。
「あんたも総統府預かりの身だ。客人の礼は尽くした。これ以上は」
「これ以上は、何だ」
低い声が、割って入った。
広場の端から、ネローラン殿が歩いてくる。
赤紫の法衣。布で覆われた右腕。歩幅は、いつもと同じだった。誰も道を塞がない。
その斜め後ろに、ディーゼンさんがいた。
ディーゼンさんは僕を見て、それから僕の手首を見て、満足そうに小さく頷いた。
やめてほしい。
「ネローラン殿」
指揮官は退かなかった。
「これはニラバの内政です。違法に武装した部族の処分も、脱獄犯の身柄も、我々が——」
「処分」
ネローラン殿が、その一語だけを拾った。
左手を、軽く横へ出す。
ディーゼンさんが懐から布包みを取り出し、その手に載せた。
いつから持っていたのか。
いや——どこから持ってきたのか。
布がほどかれる。
紙の束だった。
ネローラン殿は、近くの荷箱の上に、それを一枚ずつ置いていった。
怒鳴らない。読み上げもしない。ただ、置く。
「非公認鉱山への、労働者の斡旋記録」
一枚。
「総統府による、その黙認の決裁。判つきだ」
一枚。
「そして」
三枚目を置く手が、一拍だけ止まった。
「シセンの名を、戸ごと消す計画」
広場が、静まり返った。
戸ごと消す。
反乱として鎮圧し、死者の名を残さず、家ごと記録から外す。残った者は未登録の流民として処理する。骨札も、結び紐も、外の紙には最初から存在しない。
ラーサの顔から、表情が消えていた。
怒りですらなかった。
知っていたことを、紙の形で見せられた顔だった。
「三つ揃えば」
ネローラン殿は、指揮官を見た。
「内政問題では済まん」
「……出所は」
指揮官の声が、初めて掠れた。
「その書類を、どこで」
「総統府自身だ」
ネローラン殿は、質問には答えなかった。
「控えというものは便利だな。作った側が忘れた頃に、出てくる」
ディーゼンさんが、明後日の方を向いて口笛を吹く真似をした。
消えていた間、この人が何をしていたのか。僕はようやく分かった。
「燃やせば済むと思うか」
ネローラン殿は続けた。
「写しは、すでにミルヴァードへ飛ばした。私を斬っても、紙は届く」
指揮官が黙った。
兵たちの槍が、わずかに下がる。
「だが、勘違いするな」
ネローラン殿の声が、そこでほんの少しだけ変わった。
「私は、シセンに同情して言っているのではない」
その目がラーサを一瞥し、ヨークを一瞥し、戻ってくる。
「襲撃は襲撃だ。蜂起は蜂起だ。それは変わらん。——だが、裁くなら、記録に残せ。誰が、何をして、なぜ裁かれたか。全部だ」
指揮官が、絞り出すように言った。
「鎮圧すれば済むものを、なぜ」
「済まんからだ」
即答だった。
「消した名前は、戸の数だけ、いつか紙の外から戻ってくる。今夜のようにな」
ネローラン殿は、広場のシセンの戦士たちを顎で示した。
誰も、何も言えなかった。
目の前にいるのだ。
消されたはずの家が、武器を持って、ここに。
「だから私が残す。記録に」
ネローラン殿は、最後の一枚を置いた。
「総統府が拒むなら、ミルヴァードの調査報告として残す。少数部族の訴えを、視察団の眼前で武力鎮圧した、とな。どちらの紙に残りたいかは、そちらで選べ」
指揮官は動かなかった。
やがて、片手を上げる。
槍が、下りた。
僕は詰めていた息を吐いた。
だが、自分の件が残っている。
「あの、ネローラン殿。僕の脱獄は……」
「ああ、それか」
ネローラン殿は、こともなげに指揮官へ目を戻した。
「この男を裁くか?」
「当然——」
「なら、裁判記録が要るな。なぜ投獄されたか。鉱山で何があったか。誰が誰を泳がせていたか。全部、紙に残る」
指揮官の口が、開いて、閉じた。
「……身柄は、ミルヴァードに預ける」
苦い声だった。
助かった。
だが、僕の罪は消えたのではない。ニラバにとって、記録に残すと損な罪になっただけだ。
帳簿が人を消す。
その同じ帳簿が、今夜は人を守るために使われていた。
守られたのが僕だというのが、何とも締まらないけれど。
「それと、ミルヴァードも無傷では済まん」
ネローラン殿は、置いた紙の上に、最後にもう一枚を重ねた。
見覚えのある形式だった。
商会の通商記録。
保証欄に、ベルハンの印。
「ベルハンもだ」
アリアさんの肩が、動かなかった。
「ここから先は、誰がどの紙に署名したかを洗う。買った側の名も、全部だ」
それだけ言って、紙から手が離れた。
夜風が、束の端をめくる。
誰も、拾わなかった。
*
兵が退いた広場に、妙な空白ができた。
戦いが終わったわけでも、話が済んだわけでもない。ただ、槍が下りただけだ。
それでも、人は息をつく。
シセンの戦士たちが武器を下げ、ニラバの兵が距離を取る。その間に、誰のものでもない地面が戻ってきた。
その真ん中に、ヨークがまだ膝をついていた。
立てないのではないと思う。
立たないのだ。
ラーサが、兄の前まで歩いていった。
手にはもう、ナタがなかった。
族長の歩みではなかった。広場へ入ってきた時の、地を踏み鳴らすような歩き方ではない。一歩ごとに、何かを確かめるような足取りだった。
ラーサは、その前で立ち止まった。
しばらく、何も言わなかった。
「兄者」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
ヨークは、顔を上げなかった。
「義姉と——子は」
広場の空気が変わった。
シセンの戦士たちの何人かが、目を伏せる。
骨札を思い出した。ヨークの家の札。大きく深い印の横に、細く美しい刻みと、小さな印が一つ。
妻と、子。
五年前、すぐ戻ると言って、三人で谷を出たのだと聞いた。
ヨークは、長いあいだ黙っていた。
石畳を見たまま、動かない。淵殻の力が抜けた体は、坑道で見た時より一回り小さく見えた。盛り上がっていた筋は落ち、浮いていた血管は鎮まり、残っているのは、ただ削れた男だった。
「ターニャは」
声は、低かった。
「死んだ」
ラーサは、動かなかった。
息もしていないように見えた。
「三年前だ。第七坑で、天井が落ちた」
ヨークの言葉は、奇妙なほど平坦だった。
「八人、埋まった。掘り出されたのは、石だけだ。蒼磁石の箱は、その日のうちに運び出された」
「……遺体は」
「ない」
短い答えだった。
「探すことも、許されなかった。崩れた区画は危険だと、そのまま封じられた。翌日には、別の場所に新しい穴が掘られた」
口の中が、乾いていった。
「届けは」
聞いたのは、僕だった。
聞くべきではなかったかもしれない。けれど、口が動いていた。
役人の口だ。
死んだ人間がいれば、届けがある。記録がある。そう信じて生きてきた口だった。
ヨークが、初めて僕を見た。
「届け?」
一拍、間が空いた。
笑わなかった。
笑われた方が、まだましだった。
「ターニャは、登録されていない。第七坑そのものが、帳簿にない。帳簿にない穴で、帳簿にない女が死んで、誰が、どこに、何を届ける」
返す言葉がなかった。
事故は、なかった。
死は、なかった。
ターニャという人は、ニラバの紙の上では、最初からいなかった。
いなかった人間は、死ねない。
「ミラは」
ラーサの声が、揺れた。
初めて、揺れた。
「ミラは、どうした」
子の名前だった。
ヨークの顎が、わずかに動いた。
「分からん」
「分からん、だと」
「ターニャが死んだ後、ミラは別の坑へ移された。子どもは選鉱場で使える。手が小さいからだ。細かい石を、よく拾う」
ヨークの声は、まだ平坦だった。
平坦であろうとしていた。
「移送の朝、俺は坑の中にいた。出てきた時には、もういなかった。どこへやったと聞いた。答えはなかった。三日聞き続けて、四日目に、俺は監督を殴った」
拳が、石畳の上で握られる。
「それからは、坑の底だ。逆らった人足の行く場所だ。——ミラの行き先は、誰も知らん。知っている者は、言わん。紙には、何も書かれん」
書かれない。
いや、違う。
僕は、気づいてしまった。
書かれているのだ。
名前ではなく、数として。
「ヨークさん」
声が、上ずった。
「ミラさんが移されたのは、いつですか」
ヨークが僕を見る。
「三年前の、雨季の終わりだ」
三年前。
革袋の中の便箋。ベルハンの印の通商記録。日付は、三年前。
品目欄。
蒼磁石。不壊鉱。
人員、十二。
僕は革袋を引き寄せた。肩の痛みも忘れて、紙を探る。指が震えて、二度、束を取り落としかけた。
あった。
単価表。
人員、十二名。
銀貨百八十枚。
その内訳の欄。
ずっと、ただの数字として見ていた行。
大人、十一。
子ども、一。
血の気が引いた。
断定はできない。
三年前に移送された子どもが、この国に一人だけだったはずがない。この一行がミラさんだと言い切れる根拠は、どこにもない。
ない、けれど。
ゼロでも、ないのだ。




