第十九話 勝者の右手
太鼓の余韻が、まだ広場の石に染みていた。
戦の合図ではなく、終わりの音。それが消えたあと僕は尻餅をついたまま動けずにいた。立てない。意地が抜けたわけではなく、たぶん、体の方が先に終わっていた。肩から槍が抜けた感触だけが、遅れて熱に変わっていく。
「タルボ殿!」
アリアさんが駆けてきた。膝をつき、僕の肩の布を裂く。
「動かないでください」
言うなり、彼女は傷口に両手をかざした。
淡い光が滲み、肩の奥で熱がゆっくりほどけていく。回復魔法だ。
顔が、近い。
とても近い。
真剣な目が、僕の肩だけを見ている。金色の髪が頬のすぐ横で揺れて、血と土の匂いの中に、場違いな甘い匂いが混じった。
たった今まで死にかけていたのに、僕の心臓は、もう別の理由で騒いでいた。
「痛みますか」
「い、いえ。別のところが」
「別のところ?」
「……何でもありません」
我ながら、どうかしている。
「すみません。情けない勝ち方でした」
「勝ちは、勝ちです」
アリアさんは手元から目を離さずに言った。
「形のいい勝ちなど、必要ありません」
その横顔を見ながら、僕は何も言えなかった。
広場の中央では、ヨークが膝をついたまま、自分の置いた槍を見下ろしていた。折れてはいない。倒されたのに、まだ折れていない。膝をついた者の顔ではなかった。
ラーサが、その兄の前を通り過ぎ、こちらへ歩いてくる。
ナタを下げたまま。
シセンの戦士たちが族長の言葉を待っていた。ニラバの兵も、息を呑んでこちらを見ている。
「シセンは」
ラーサの声は、広場の隅まで通った。
「負けを認める」
屈服ではない。声にそんな湿り気はなかった。ただ、掟に従う。ラーサの背筋は、そういう立ち方をしていた。
ニラバ兵の間に、わずかなざわめきが走る。
ラーサはそれを無視して、アリアさんの前で足を止めた。
胃の底が、すっと冷えた。
ナタ。
ほんの少し前、アリアさんは言った。負ければ、この右手をそのナタで裂いてくれ、と。父に送りつけてくれ、と。
勝ったのだ。
なのに、ラーサはアリアさんの前に立っている。
まずい。
手掻き棒を地について、体を起こそうとした。塞がりかけの肩が悲鳴を上げ、肘から崩れる。立てなかった。
「アリアさ——」
ラーサの手が、ナタの柄にかかった。
一拍。
刃が、わずかに持ち上がる。
僕は息を止めた。アリアさんは動かなかった。逃げも、退きもしない。差し出した右手を引かずに、ラーサを正面から見ている。
ラーサのナタが——止まった。
刃は、振られなかった。
「賭けは」
ラーサが言った。
「お前たちが勝った」
ナタが鞘へ戻り、乾いた音を立てた。
「その右手は……シセンが取る理由はない」
借りを作らない。
ラーサの誇りが、そう告げていた。
僕は、心の底から息を吐いた。
よかった。
あの手が、裂かれることはない。
そう思った。
思って、しまった。
「ええ。勝ちました」
アリアさんは、引っ込めなかった。
右手を、ラーサの前に残したまま。
「だから、もう差し出す義務はありません」
その声は、静かだった。
「——それでも、私はここに残ります」
広場の空気が、止まった。
「アリアさん……?」
「義務としてではありません」
アリアさんは、僕の方を見なかった。ラーサだけを見ている。
「私が、決めたこととして」
ラーサの眉が、わずかに寄る。
「勝った側が、なぜ残る」
もっともな問いだった。
アリアさんは、少しだけ間を置いた。
「賭けに勝っても、ベルハンの紙に書かれた名前は、戻ってこないからです」
ベルハンの紙。
僕は、革袋の中の便箋を思い出した。人員、十二。単価、銀貨百八十枚。返却記録、空欄。ベルハンの印の下で開いた扉の、その先で消えた人たち。
あれは、勝負では消えない。
決闘で僕がヨークを倒しても、ラーサがアリアさんの手を取らなくても、あの空欄は、空欄のままだ。
「ラーサ殿」
アリアさんは、まっすぐに言った。
「償います、とは言いません」
その声に、揺れはなかった。揺れないように噛みしめている、あの声でもなかった。もっと、静かに据わった声だった。
「そんな言葉で済むものではありませんから」
ラーサはしばらく何も言わなかった。
ただ、アリアさんの右手を見ていた。
「信用はしていない」
やがて、ラーサが言った。
「お前の家が、シセンに何をしたか。それを、お前一人が残ったところで、消せるとも思わん」
「はい」
「だが」
ラーサは、ナタの鞘を軽く叩いた。
「いろ」
短い一言だった。
「逃げたら——その時こそ、取りに行く」
ナタの柄を、もう一度。
「お前の右手をな」
脅しだった。
許しでも、約束でもない。
けれど、アリアさんは頷いた。
「ええ。それで、結構です」
僕は、地面に手をついたまま、二人を見上げていた。
回復魔法で塞がった肩が、それでも鈍く疼く。
終わった、と思っていた。
たぶん、何も終わっていない。
アリアさんの背中が、もう、そう言っていた。
その時だった。
ニラバ兵の列が、動いた。




