第十八話 左を見ろ
ヨークが槍を構えた瞬間、広場の音が一枚向こうへ退いた。
兵のざわめきも、シセンの戦士たちの息遣いも遠くなる。松明の火だけが、やけに近くで揺れていた。
僕の手の中に残ったのは、手掻き棒の重さだけだった。
槍ではない。鉱山で使う道具だ。先端は曲がり、柄には手垢と傷が染み込んでいる。持っただけで、手のひらにささくれが刺さりそうになる。
けれど、今の僕にはこれしかなかった。
いや、これでよかった。
「タルボ殿」
背後から、アリアさんの声がした。
振り返らなかった。振り返れば、たぶん右手を見てしまう。あの人が賭けた、右手を。
「はい」
声だけ返した。
「ご武運を」
シセンの村で、リクと向き合った時と同じ言葉だった。
でも、あの時とは違う。
賭けたものの重さだけではない。僕が、椅子に座っているだけの人間ではないと、僕自身に示すための試合でもあった。
僕は、薄汚れた白の法衣を脱ぎ捨てた。
ネローラン殿が、腕を組んだまま、口の端で笑った気がした。
*
ヨークが一歩、前へ出た。
地を踏む音がしただけで、喉が鳴った。まだ間合いはあるはずなのに、喉元に穂先を置かれている気がする。
顔色は悪い。肩には布が巻かれ、血の滲んだ跡もある。手負いであることは間違いない。
それでも、弱っているようには見えなかった。
「始め!」
ラーサが叫んだ。
ヨークが消えた——と思った時には、手掻き棒が鳴っていた。
受けたつもりはない。たまたま腕がそこに残っていただけだ。骨まで響く衝撃に弾かれて、二歩、三歩、後ろへよろめく。足が地をこすった。体勢を戻す前に二撃目が来て、肩口の布が風ごと裂けた。
「っ」
熱くはない。痛みもまだ来ない。布が裂けた、という事実だけが遅れて届いた。
「狙っているのか。狙えないのか」
ヨークが、円を描くように僕の周りを歩き始めた。
打ち合って、分かったことが一つだけある。
この槍は、僕を見ていない。
穂先はもっと奥を狙っている。僕の後ろにある何か——白い法衣、判、帳簿、ミルヴァード。そういう全部を、まとめて突こうとしている。
だから重い。
人ひとり分の憎しみより、ずっと重い。
次の突きを、柄で逸らし損ねた。切り返しが脇腹に入って、肺の空気がまとめて押し出される。膝が落ちかけた。
倒れるな。
アリアさんが差し出した右手が、脳裏に浮かんだ。僕の膝で終わらせるわけにはいかない。手掻き棒を地に突いて、体を支えた。
ヨークの動きを、目で追っても駄目だ。見えてから動いたのでは、もう遅い。
シースト家の稽古場で、嫌というほど言われた。槍先を見るな。柄を見る、肩を見る、最後に足を見ろ。体が動く前に、槍は動かない。
兄は、最初からそれができた。僕はできないまま逃げて、魔術の方が向いていると言い訳して、稽古場から離れた。
その言い訳が今さら僕を助けてくれるとは思わない。
ただ、今の僕には、魔術師の目がある。
ヨークは淵殻から力を得ている。けれど魔術師のように制御してはいない。垂れ流しに近い。流れを読めれば、次が見える。
ヨークの右半身に、魔力が膨れた。
右の肩。右の腕。前へ出る右足。どこを見ても右だった。
読めた。
僕は手掻き棒を右へ振った。
空を、切った。
穂先は左から来ていた。
考えるより先に体が落ちた。受け身ですらない。石畳に肘と膝を擦り、転がって、距離だけを拾う。頬のすぐ横で、石の粉が跳ねた。
松明の油の焦げる匂いがした。
こんな時に、と自分でも思う。
立て。
膝が震えて、すぐには言うことを聞かない。
——奴は左が利き足だ。
ディーゼンさんの声が、今ごろになって意味を持った。すれ違いざまの、たった数語。
『迷ったら、左を見ろ』
そういうことか。
右は、ぜんぶ見せ札だ。肩も、腕も、踏み出す足も。あの男の体を本当に運んでいるのは、後ろに残った左足の方だった。
魔力は嘘をつかないと思っていた。違った。魔力は、流れているところにしか見えない。だから派手に流れる右へ目が行く。本当の力は、地面を掴んでいる側に、静かに沈んでいる。
僕は立ち上がり、ヨークの左足だけを見た。
あった。
足裏の奥に、黒く濁った熱が溜まっている。静かで、深い。井戸の底の水みたいに。
ヨークが高く構えた。
「次は、外さん」
来る。
右足が大きく前へ出た。兵の誰かが息を呑む。釣られそうになる目を、力ずくで左へ戻す。
左足が、地を噛んだ。
体が消える。穂先が伸びる。届く。避けられない——
避けるな。
兄上なら、躱せた。僕には無理だ。
なら、買うしかない。
肩だ。
左の肩を、前へ出した。
穂先が食い込む音を、僕は骨で聞いた。熱い。熱いというより、白い。視界の端が一瞬飛んで、口の中に鉄の味が広がる。
それでも、距離は届いた。
手掻き棒の曲がった先が、ヨークの左足首にかかっていた。
引いた。
払うとか、足を取るとか、そんな上等なものじゃない。ただ、残っている体重を全部乗せて、引いた。
地面を掴んでいた左足が、地面から剥がれた。
ヨークの体が、初めて崩れた。
膝が、石畳を打つ。
音は、すぐには戻ってこなかった。広場中が、まだ信じていなかったのだと思う。
一番信じていないのは、膝をついた本人の顔だった。
肩から槍が抜ける。今度こそ熱が来て、僕はその場に尻餅をついた。立っていられたのは、意地ではなく、たぶんただの遅れだ。
ヨークが、僕を見た。
「……見えていたのか」
低い声だった。
「見えたのは、あなたが怒りで、足元を見失っていたからです」
言ってから、口を押さえたくなった。
僕はまた、余計なことを言ってしまった。
ヨークは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと、槍を石畳に置いた。
ラーサが何かを言いかけて、やめた。言う必要がなかったのだ。膝をついた者が、自分の手で槍を置く。それが、シセンの槍の終わり方だった。
シセンの戦士たちの中から、太鼓がひとつ、低く鳴った。
一度きり。
戦の合図ではなく、終わりの音だった。




