第十七話 右手への誓い
「武装を解け!」
ニラバ兵の一人が怒鳴った。
「総統府の管理区域への襲撃である! 今すぐ武器を捨てよ!」
ラーサは答えなかった。
ナタを握り、まっすぐ前を見ている。
退く気は、ない。
駄目だ。
このままぶつかれば、政府の思う壺だ。
そう言いかけた時、アリアさんが一歩前に出た。
「ラーサ殿!」
声が、広場に通った。
兵たちが振り返り、シセンの戦士たちも、彼女を見る。
「ベルハンの娘か」
ラーサがアリアさんを見た。
少し意外そうな顔で首を傾げた。
「そこを退け。お前を斬りに来たわけではない」
「分かっています」
そう言って、アリアさんはその場で弓と矢筒を地に置いた。
「だからこそ、申し上げます。この場を、戦場にしないでください」
兵たちの間に、ざわめきが走る。
アリアさんは、少しも退かなかった。
「シセン族には、槍の腕で序列を決める掟がありましょう」
その一言で、ラーサの目が、わずかに動いた。
あの槍試合のことだ。
僕がリクに負けた、あの試合のこと。
「以前、私たちは、その掟に従いました」
アリアさんは、続けた。
「この場も、同じ掟で決めてください。武器を取って広場へ出たからには、シセンの理で裁かれるべきです。ニラバの兵にではなく」
張りのある声だった。
ニラバ兵が、シセンの戦士の顔を見た。シセンの戦士も、それを見返した。
馬鹿げた提案だ。
でも、僕は知っている。
こういう時の彼女は本気だ。
そして、僕にとって絶対にいいことがない。
「掟だと」
ラーサが言った。
「はい。私と貴方で決めましょう」
アリアさんの声は変わらなかった。
「ベルハンの娘とシセンの族長が斬り合って、何が決まる」
「私とあなたが戦うのではありません」
嫌な予感が、形になり始めた。
やめてください。
心の中で、僕は言った。
アリアさんが、ヨークを見た。
「タルボ・シースト殿と、ヨーク殿で」
広場が、静かになった。
たぶん、僕の顔も止まっていた。
「……僕ですか」
小さく言ったつもりだった。
だが、隣のアリアさんには聞こえたらしい。
「はい」
迷いのない返事だった。
やはり、僕だった。
ラーサが、鼻で笑った。
「馬鹿な。その男は、すでに我らに負けている。シセンの槍に敗れた者だ」
その通りだった。
僕は、以前の槍試合で負けている。
しかも、シースト家の名を出すのも恥ずかしい負け方だった。
「今さら何を賭ける」
ラーサの問いに、アリアさんは即答した。
「ベルハンの名を賭けます」
空気が変わった。
兵のざわめきが、別のものになる。
ベルハン。
その名は、この場所で軽いものではない。
「負ければ、ベルハン家はシセン一族につきます」
アリアさんの声は変わらなかった。
「ベルハンはシセンの名の下で」
「口では何とでも言える」
ラーサの声は、冷たかった。
「いくら娘とはいえ、あのベルハン家がそんな約束を受け入れるものか」
「受け入れさせます」
「どうやって」
アリアさんが、右手を差し出した。
弓を引く手だった。
魔法を放った手でもある。
書類を盗み、ベルハンの名を背負うと決めた、その手だ。
「その時は、私の右手をそのナタで裂き、父に送りつけてください」
息が、止まった。
手だけが動いた。
アリアさんの肩に届かせようとして、踏み出せなかった。
届く距離まで、僕の足は動かなかった。
「アリアさん」
ようやく、それだけ言えた。
アリアさんは、僕を見なかった。
見ないことが、彼女の答えだった。
「ベルハンの娘が、ベルハンの名を賭けて敗れた証です。父は、知らぬとは言えなくなります」
兵の声も、シセンの戦士の息遣いも、遠くなる。
僕には、アリアさんの右手だけが見えていた。
白く、細い手だった。
こんなものを、なぜ差し出せるのだろう。
いや。
彼女にとって、それは「こんなもの」ではない。
魔術師としての手であり、ベルハンの娘として差し出せる、最後の証だった。
消された家のため。
鉱山で数にされた子どものため。
それから、ベルハン家の名で開いた扉の先に人が消えていたことを、自分の家へ突き返すために。
ラーサは、しばらく動かなかった。
ナタの柄を握る指が、一度、強く締まる。
「そこまで言うなら」
ラーサが、ナタをわずかに上げた。
「いい覚悟だ」
だが、兵が前へ出た。
「認められない!」
「これは反乱だ! 総統府の命により、武装解除させる!」
「待ってください」
僕の声は、情けないくらい細かった。
兵は聞かなかった。
当然だ。
煤だらけで、泥だらけで、手枷をつけた男の制止など、聞く理由がない。
兵たちが、一歩進む。
シセンの戦士たちも、武器を構える。
その瞬間、広場の空気が重くなった。
足元から、石畳ごと沈むような圧が来る。
兵の足が止まった。
魔力だ。
重力。
その魔法を、僕は知っている。
「そこまでにしろ」
広場の端から、ネローラン殿が歩いてきた。
赤紫の法衣は汚れていた。
右の義腕は、まだ完全ではない。布で覆われ、動きがわずかに硬い。
それでも、誰も道を塞がなかった。
隣には、ディーゼンさんがいた。
こちらを見つけると、少しだけ眉を上げる。
たぶん、僕の手枷を見たのだ。
「ミルヴァード政府が責任を持つ」
ネローラン殿は、ニラバ兵に向かって言った。
「これはニラバ国内の問題です!」
「ならば、ここで兵を進めろ」
ネローラン殿の声は、低かった。
「シセンの一族を、ミルヴァードの視察団の前で武力鎮圧しろ。少数部族の訴えを反乱として潰した、と私はそのまま報告する」
兵たちが黙った。
「それとも、掟として受けるか」
ネローラン殿は、ラーサを見た。
次に、アリアさんを見た。
「お前は自分の言っている意味は、分かっているな」
「はい」
ネローラン殿は、すぐには続けなかった。
義腕の指が、外套の下で一度、ぎこちなく動く。
「負ければ、お前は家にも、城にも戻れなくなる」
「それでも、置いていきません」
アリアさんは言った。
「ベルハンの名も、消された家の名も」
ネローラン殿は、短く息を吐いた。
「なら、やれ」
許可だった。
助けではなかった。
逃げ道でもない。
ただ、アリアさんの選んだ場所が、公の場から消えないようにするための一言だった。
ディーゼンさんが、僕のそばへ来た。
「ぼん、手枷、まだつけてんのか」
「外し方を聞く前に、あなたが消えたんですよ。どこ行ってたんですか」
「悪かったな。忙しかったんだよ」
ディーゼンさんが腰の道具袋から細い金具を取り出した。
がちゃり、と音がした。
鉄の輪が、僕の手首から外れる。
急に手が軽くなった。
軽くなったのに、逃げられる気はしなかった。
むしろ、ここから逃げる理由がなくなった。
「あとこれ、お土産だ」
ディーゼンさんは、先端が曲がった金属製の長尺な棒を渡した。
「なんですか、この棒は」
「鉱物採掘の手掻きに使っているらしい。頼むぞ、シースト槍術タルボ先生」
そう言って、ディーゼンさんは僕の背中を叩いた。
すれ違いざま、口を耳元へ寄せる。
短い、低い声だった。
数語。
離れる頃には、もう普段の顔に戻っていた。
全く、この人は抜け目がない。
と言っても、相手はヨーク。
手負いとはいえ、到底、僕が勝てる相手ではない。
シースト家の兄なら、あるいは。
そう思いかけて、やめた。
ここにいるのは兄ではない。
僕だ。
アリアさんを見た。
無意識に、彼女の右手に視線が移る。
アリアさんも、こちらを見ていた。
僕は、その目を正面から受けた。
「アリアさん」
「はい」
「僕は、あなたの右手を賭けさせたくありません」
「分かっています」
「でも、あなたがベルハンの名を賭けたなら」
喉が乾いていた。
言葉を出すたび、胸の奥が痛む。
「僕は、シーストの名で逃げません」
アリアさんの表情が、わずかに変わった。
泣きそうになったわけではない。
笑ったわけでもない。
ただ、何かを受け取ったように、目を伏せた。
「お願いします」
僕は頷いた。
それしかできなかった。
ニラバ兵の一人が、渋々と引いた。
シセンの戦士たちが、広場の中央を空ける。
ラーサが、ヨークに短く何かを告げた。
ヨークは頷かなかった。
ただ、槍を持って前に出た。
広場の石畳に、彼の足音が響く。
一歩。
また一歩。
近づくほど、勝てないことが分かる。
呼吸の深さが違う。
立ち方が違う。
こちらを見る目に至っては、もう種類が違った。
あれは、敵を見る目じゃない。
邪魔な石を、足元から退けるかどうか測る目だった。
怯むな。
消された家の名をめぐって、ベルハンの娘が右手を賭けた場所だ。
ヨークが、広場の中央で止まった。
僕も、その向かいに立った。
距離がある。
けれど、もう届く気がした。
彼の槍が、僕の喉にも、胸にも、それから足元のどこにでも届く気がした。
「タルボ・シースト」
ヨークが、初めて僕の名を呼んだ。
声に、坑道で見たあの鋭さは戻らなかった。
淵殻が抜けたのか、ラーサと再び向き合ったからなのかは分からない。
ただ、目だけは、人を測る男のものに戻っていた。
「あの時、お前が止めなければ、俺は今ここにいない。礼を言う」
「そう思うなら、黙って倒れてください」
口が勝手に動いた。
怖い時ほど、余計なことを言う。
悪い癖だ。
ヨークは笑わなかった。
「シセンの戦士は手加減はしない。そんな鉄の棒で挑むのか」
僕は、手掻き棒を握り直した。
汗が滲み指が滑りそうになる。
差し出された手を思い出した。
裂かれていい手など、この世にない。
こんな時に僕は、兄の腕を抱えていたラーサの手まで思い出していた。




