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第十六話 用意された場所

 真鍮色の取っ手が、ゆっくりと回った。


 アリアさんが、反射的に僕の前へ出た。


 その背中越しに、僕の手枷が、かちゃりと気の抜けた音を立てる。


 この音は、どうにかならないのだろうか。


 扉のわずかな隙間から、兵の足先と肩口が覗く。


「アリア殿。失礼しま――」


 言い終える前に、声が途切れた。


 扉の向こうで、別の叫びが弾ける。


「敵襲! 敵襲!」


 兵が振り返った気配がした。


 次いで、駆ける足音。金属が擦れ合う甲高い音。誰かが命令を飛ばし、それに別の声が重なる。廊下の騒ぎは一つの音ではなく、ばらばらの音がぶつかり合って、次第に大きく、速くなっていく。


 開いた隙間の向こうで、兵がこちらへ向き直った。


「アリア殿は、ここで待機を。決して外へは――」


 そこまで言って、また廊下を見た。


 最後まで言い切る余裕は、なかったらしい。


 兵の足音が遠ざかっていく。廊下は、急に静かになった。


「タルボ殿」


 アリアさんは低い声で、肩にかけた矢筒の紐を強く握った。


 震えてはいない。


「今しか、ありません」


 彼女の瞳が緋く映り、はい、としか答えようがなかった。


 アリアさんは扉を開け、廊下へ出る。


 僕も続こうとして、ふと部屋の中を振り返った。


 椅子の背に、白い宮廷魔術師の法衣が掛けられていた。


 銀糸の刺繍は、まだ薄く光を拾っている。


 ミルヴァードの宮廷魔術師。


 その立場を示す白が、椅子に残されたままだった。


 アリアさんは、それを取りに戻らなかった。


     *


 官舎の外へ出ると、夜気が熱を帯びていた。


 鉱山管理所前の広場には、槍を構えたニラバ兵が並んでいる。魔道灯を掲げた役人、逃げ遅れた使用人、遠巻きに様子をうかがう鉱山労働者たちが、そろって音のする方を見ていた。


 低い鼓音が、夜の底を這うように響いた。


 最初は地鳴りかと思った。


 違う。


 幾つもの足が、同じ拍子で地面を踏んでいる。


 闇の中から、大きな影の塊が近づいてきた。点々と揺れる灯が、その輪郭を少しずつ浮かび上がらせていく。


 先頭に立っているのがラーサだと分かった時には、もう矢の届く距離まで迫っていた。


 手にはナタ。その横にヨークがいる。


 顔色は悪い。肩には布が巻かれていた。傷は、浅くないはずだ。


 それでも、槍を持って立つ姿だけで、周囲の兵を押し返すような気迫があった。


 後ろに、シセンの戦士たちが続く。


 槍を持つ者。弓を背負う者。腰にナタを差した者。鉱山で使う鋼の棒を、そのまま握っている者もいた。武器として作られたものではない。けれど、人を傷つけるには十分だった。


 ひと目で、分かった。


 数が違う。


 ニラバ兵の方が多い。


 しかも兵は、鉱山管理所の前だけではなく、官舎の脇にも回っていた。街道へ抜ける道にも、槍の穂先が見える。


 シセンの戦士は強い。


 ただ、戦況は歴然だった。


 このままぶつかれば、流血だけでは済まない。


 広場の石に、血が落ちる。


 武装蜂起。


 反逆者。


 「鎮圧済み」の判が押されるだけだ。


 誰がなぜ武器を取ったのか。誰の家が消されたのか。誰が坑道で働かされ、誰が名を奪われたのか。


 そんなものは、書かれない。


 いや、書かせない。


 胸の奥で、何かが冷えた。


 どうして、今なのだろう。


 僕たちが、ここにいる時、ミルヴァードの宮廷魔術師がニラバへ来ている時に。


 考えれば、考えるほど、おかしい。


 ヨークたちが今まで野放しにされていたのも、変だった。あれほど厳格に兵を置き、鉱山を管理し、労働者の数まで押さえているニラバ政府が、ヨークたちだけを捕まえられない。そんな都合のいい話が、あるだろうか。


 街道の破壊も、タイミングが良すぎる。


 逃げ道を塞ぐため。


 口の中が、乾いていた。


 塞ぐだけではない。戻れない場所まで追い込むつもりなのだ。シセンの一族を。


 不当に扱う。名を消す。家ごと消す。それでも足りなければ、ヨークたちを泳がせ、襲撃を重ねさせ、ミルヴァードと引き合わせる。怒りが、こちらの目の前で形になるまで、ただ待つ。


 武器を持たせて、広場へ出させて、兵の前に立たせる。


 その瞬間、シセンの訴えは訴えではなく、反乱に変わる。


 ……そうか。


 そういうことか。


 ニラバ政府は、シセン族を裁きたいわけではない。


 裁けば、記録が残る。裁判という形式そのものが、消された家の存在を逆に証明してしまう。なら、裁判ではなく鎮圧で済ませたい。


 ミルヴァードの視察団の前で、武装蜂起した少数部族を鎮める。そうすれば、帳簿には反逆者と書ける。報告書には治安維持と書ける。


 消された家の名は、戻るどころか、今度こそ一族ごと塗り潰される。


 帳簿が、人を消す側に使われる。


 毎朝、僕が向き合っていた紙の束。


 その同じ形式が、今、ラーサとヨークを消すために使われようとしていた。


 僕は、広場の向こうを見た。


 ラーサがいる。


 ヨークがいる。


 武器を持ったシセンの戦士たち。その周囲には、もう兵がいた。


 これは、衝突ではない。


 用意された場所だった。

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