第十五話 ベルハンの名
壁の向こう側へ、ようやく転がり出た。
頬を石にぶつける。
痛い。
でも、外だ。
胸元の銀糸の刺繍が、石の角でぷつりと切れていた。
宮廷魔術師の証。
逃げるために、自分でそれを切ったような気がした。
続いてディーゼンさんが、すんなり抜けて出てきた。
「俺、痩せてんなあ」
「自慢しないでください」
通路は細い裏路だった。足元はぬかるみ、古い水と石の匂いが鼻についた。白い法衣の裾が泥を吸う。もう宮廷魔術師の白ではない。逃げ損ねた役人の汚れ方だった。
「ぼん」
ディーゼンさんが振り返らずに歩き出した。
「行くあてはあんのか」
「……あります」
即答した自分に、少し驚いた。
「アリアさんの宿舎です」
ディーゼンさんが足を止めた。
夜の路地に、ぽつりと立ち止まる。
「夜明けまで待ちゃあ、ベルハンのお嬢様は丁重に総統府預かりだぞ。ご丁寧に護衛つきでな」
「アリアさんを巻き込むな、と言いたいんですか」
「ばかか。もう巻き込まれてんだよ」
足が止まった。
「このまま政府の手に渡されたら、あの嬢ちゃん、一生そこから出られねえ」
牢を出ていくアリアさんの背中を思い出した。
まっすぐだった。胸を張っていたわけではない。折れないように、肩甲骨だけが妙に張っていた。
「……行きます」
「ディーゼンさんは、どうされるんですか」
「……ネロを追う」
少し間が空いた。
「……ネローラン殿を、ですか」
「あいつが今、一人で何決めてんのか、見届けねえとな」
幼馴染、と言っていた。
ガキの頃からの付き合い、と。
その三文字で済む関係ではないことを、僕はもう知っていた。
「止めるんじゃないんですか」
「止められるなら、とっくに止めてる」
軽い声だった。
軽い声に聞こえるように、わざとそうしている声だった。
「ぼん」
いつもよりわざとらしく強く、僕の肩を叩いた。
「アリア嬢、頼んだぞ」
「……はい」
「それと、ぼん」
「はい」
「アリア嬢の前で、格好つけすぎるなよ」
「この姿で、格好がつくと思いますか」
泥まみれの法衣。
切れた銀糸。
手枷。
「男ってのは、余計なところで格好つけて死ぬ」
「縁起でもないことを」
ディーゼンさんが、ふっと笑った。
「変わったな、ぼん」
「何がですか」
「変わったのは、ちょっとだけだけどな」
その「ちょっとだけ」が、いつものディーゼンさんだった。
少しだけ、息が楽になる。
彼は路地の角で、一度だけ振り返った。
手は振らなかった。
代わりに、軽く顎を引いた。
それきり、夜の向こうへ消えた。
あ。
手枷。
あの人、手枷はどうしたのだろう。
僕の手首には、まだ鎖が垂れている。
ディーゼンさんに聞きそびれた。
あの人は、よく消える。
こちらが聞きたいことを思いつく少し前に、いつもいなくなる。
たぶん、そういう人なのだ。
人の隣に立つことはできる。
でも、同じ場所に留まることはできない。
*
ニラバの夜は、昼間とは別の街だった。
昼間のニラバは、鉱山と役所と兵隊の街だった。けれど夜になると、その下に隠れていたもう一つの街が、湿った石の隙間から滲み出てくる。
湯気の立つ桶。
干された粉袋。
戸口に残った蒼磁石の青い粉。
低い声。
どこかで泣いている子ども。
兵が少ない。鉱山の混乱に回されたのだろう。
布を膝に置いた老女が、針を持ったままこちらを見ていた。
目が合うと、すぐに布へ視線を落とす。
白い法衣は、もうほとんど白くなかった。
煤と土と、石の粉と、自分の血。
胸の銀糸は片側が切れて垂れている。
ちょうど良かった。
この街で、ミルヴァードの宮廷魔術師の白は、目立ちすぎる。
手枷だけが、まだ目立つ。
路地裏の井戸の脇に、捨てられた麻袋があった。
拾った。
破れていたが、手枷を覆うには十分だった。
袖の中に押し込んで、鎖の音を殺す。
帳簿の数字を、上の人の都合に合わせて直す時と似ていた。
見えてはいけないものを、見えない場所へ動かす。
存在しなかったことにはできない。
でも、存在していないように見せることはできる。
僕はそういうことが、昔から少しだけ得意だった。
得意であることと、好きであることは違う。
*
アリアさんの宿舎は、鉱山管理所の裏手にあった。
石造りの二階建て。役人や視察団を泊めるための官舎だ。門の両脇では魔道灯が鈍く光り、その下をニラバ兵が歩いている。
僕は通りの向こうから、しばらく宿舎を見ていた。
表に二人。
裏手にも、たぶんいる。
窓の影にも、もう一人いるかもしれない。
ディーゼンさんなら一目で数えただろう。
僕の目では、半分くらいしか分からない。
それでも、はっきり分かることがあった。
二階の角部屋の窓に、灯りがついていた。
布越しの黄色い光が、わずかに揺れている。
他の窓は暗い。
その明かりだけが、起きていた。
いる。
まだ、いる。
胸の奥が冷えた。
恐怖に似ていたが、少し違う。
たぶんそれは、間に合ったかもしれない、という感覚だった。
正面は無理だ。
昼間ですら、ベルハン家の令嬢に面会するには筋を通せと追い返されたはずだ。ましてや今は、煤だらけの脱獄犯である。
梯子を探したが、近くにはなかった。
あったとしても、見張りの目の前に立てかける勇気はない。
建物をぐるりと回りながら、僕は思った。
配膳の通用口。
官舎には、必ずある。
食事を運ぶ通路、洗濯物を出す裏口、汚物を捨てる勝手口。表向きには存在しないことになっている動線。
鉱物管理局で、何度も視察団の宿舎を手配したことがある。
書類の上で、何度も。
通用口の位置は、図面で見たことがあった。
ニラバの官舎の図面ではないが、似たような構造だろう。
建物の北側。
台所の裏手。
そこにあった。
小さな木の扉。
鍵はかかっていたが、立て付けが古い。
僕は、扉の縁に、ごく小さな水の塊を作った。
牢の時と同じだ。
弱い魔力。
魔感石は、たぶんここにはない。あれは囚人を見張るためのものだ。
ぽつ。
ぽつ。
古い木が、水を吸う。
膨らむ。
歪む。
錠の差し込みが、わずかに緩む。
あとは、指で。
扉が、音もなく開いた。
これだけは、得意だった。
*
通用口の中は、暗かった。
台所の脇を抜け、配膳用の階段を上がる。
石の階段は、足音を吸ってくれない。
爪先だけで進んだ。
二階に上がると、廊下は二つに分かれていた。
表側の廊下には、兵の影がある。
魔道灯の明かりを背に、扉の前で動かない。
あれが、アリアさんの部屋を見張っている兵だ。
だが、台所から続く細い裏廊下は、配膳のためだけの通路らしく、灯りも薄い。壁には食器棚が並び、床には古い水染みが残っている。
角部屋の横手に、小さな脇扉があった。
食事を運ぶための扉だ。
僕はそこで、息を殺した。
叩くべきか。
叩いたら見張りに気づかれる。
叩かなかったら不法侵入だ。
すでに不法侵入の体勢ではある。
扉の向こうから、紙を動かす音が聞こえた。
衣擦れ。
金具の触れる音。
誰かが、起きている。
動いている。
迷っている時間はなかった。
僕は、指の関節で、脇扉を二度叩いた。
ごく弱く。
音が向こうに届くか、届かないかの強さで。
中の物音が、止まった。
扉の向こうから、静かな声がした。
「タルボ殿、ですか」
全身の力が抜けそうになった。
「……はい」
「お入りください」
扉が、内側から開いた。
アリアさんが立っていた。
髪はきつく結ばれ、旅装に着替えている。法衣ではない。市井の旅人の服だ。腰には短剣。背中には弓。
準備は、終わっていた。
「来てくださる可能性は、あると思っていました」
その声に、わずかな揺れがあった。
「可能性、ですか」
「ええ」
アリアさんは、扉を閉めた。
「私を信じてくださる方が、まだいると思いたかったのです」
その言葉の意味を、すぐには受け取れなかった。
人に信じられることより、人を信じたいと思うことの方が、時としてずっと危うい。
「アリアさん、武器は」
「返されました」
アリアさんは短く答えた。
「ベルハン家の令嬢として、丁重に。失礼があってはならない、と」
刃より冷たい礼節だった。
「私は、客人扱いです。明け方まで、自由に部屋を使ってよいと言われました。本を読んでも、書き物をしてもよい、と」
「……」
「ただし、表の扉には兵が立っています」
なるほど。
武器を返した代わりに、出口を塞いだ。
ベルハン家の令嬢として「礼を尽くす」。
政治犯として「監視する」。
同じ手で、両方をやる。
ネローラン殿の言葉が、また蘇る。
お前が毎朝座っている椅子の下に、ヨークがいる。
アリアさんの椅子の下にも、誰かがいる。
顔を知らない、誰かが。
*
部屋は整っていた。
寝台、机、椅子。壁際には旅行鞄。床には開いた書類。
急いで荷造りした気配はある。
それでも乱れていない。
アリアさんらしい。
机の上に、書類が広げられていた。
紹介状。
身分保証。
ニラバ側の鉱山商会へ宛てた礼状。
どれも見慣れた形式だ。
そして、その隅に。
ベルハンの名があった。
一通ではなかった。
「アリアさん。これは」
「私が、自分で持ち出したものです」
「持ち出した?」
「ニラバ政府から、調査のためにベルハン家の控えを見せてくれと頼まれていました。今回の件のためにと。総統府へ移される前に、自由に閲覧できる時間が、わずかにあったのです」
アリアさんは、紙の端を指で揃えた。
「閲覧と書き写しは、許可されていました。けれど、原本を抜き取る許可はありません」
「……それは」
「ええ。窃盗です」
平静な声だった。
ベルハン家の令嬢が、ニラバ政府の管理下から自家の控え書を盗んだ。
頭が追いつかない。
追いつかないが、考えてみれば、僕も今は脱獄犯だ。
上官に皇帝水を浴びせ、令嬢の部屋に忍び込んでいる。
人の罪を驚ける立場ではなかった。
「なぜ、僕が来ると」
聞きたかったことを、ようやく聞けた。
アリアさんは、すぐには答えなかった。
書類を揃える手だけが、動いている。
「ネローラン殿に、言われたのです」
窓の外を見ながら、アリアさんは言った。
「あの方は、私を解放する前に、こう言いました」
一度、息を置く。
「『逃げるか、誰かが来るか。どちらかだ』と」
ネローラン殿が。
「『どちらもなければ、お前はベルハンの名に潰される』と」
冷たい言葉だった。
けれど、その冷たさの中に、逃げ道だけは残されていた。
「だから、私は準備をしていました。逃げる準備を。そして、もし誰かが来るとしたら、それはタルボ殿だと、思っていました」
「……なぜ、僕だと」
「ディーゼン殿は、ネローラン殿を追います」
即答だった。
「あの方は、私を助けには来ません。ネローラン殿のところへ行きます」
「……なぜ、分かるんですか」
「あの方の目が、ずっと、私たちを見ていなかったからです」
アリアさんは、それだけ言った。
僕は、それに気づいていなかった。
*
アリアさんは、束ねた書類から一枚を抜いた。
「これだけは、見ておいてください」
差し出された紙を、僕は受け取った。
ニラバ語と、商会の通商記号が並んでいる。
差出は、ベルハン家と古くから取引のあるミルヴァードの商会。
宛先はニラバ側の卸商会。
日付は、三年前。
そして、保証欄。
ベルハンの印があった。
品目欄。
蒼磁石。
不壊鉱。
その下の一行で、目が止まった。
人員。
鉱物管理局では、品目欄に入るものと入らないものを、嫌というほど見てきた。
石は入る。
工具も入る。
人は、入らない。
それでも、そこには書かれていた。
人員、十二。
単位欄には、人、とあった。
紙を握る指の感覚が消えた。
「単価は」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「単価は、どこですか」
「次の欄です」
アリアさんが、もう一枚の紙を指差した。
付随する単価表。
蒼磁石、二十単位あたり、銀貨百二十枚。
不壊鉱、十単位あたり、銀貨二百枚。
人員、十二名、銀貨百八十枚。
数字の意味が、頭の中で組み立たない。
組み立ってはいけない、と思った。
でも、組み立ってしまう。
毎朝、僕は机に座って数字を見ている。
出荷量。
輸送量。
不足分。
差し引き。
数字は声を荒らげない。
泣きもしない。
こちらを責めもしない。
だから、僕は安心して数字を見ていられた。
その数字の中に、人が混じっていた。
「単価が、低すぎます」
声を出した。
声を出さなければ、頭がもたない気がした。
「ニラバの公認鉱山からの鉱石なら、もっと高い。これは……非公式鉱山からの納入です」
「そして、人ひとりが、不壊鉱一単位より安い」
「これは、人を、物として」
アリアさんは、答えなかった。
答える必要が、なかった。
「誰も、戻っていません」
アリアさんが、別の紙を見せた。
返却記録。
空欄。
十二名分、空欄。
「鉱物の卸契約に、なぜ人員が混じっているのか。父に問えば、おそらくこう答えます」
一度、息を吸う。
「『保証したのは商会であって、人員ではない』と」
「……」
「分かるのです。父の声で、再現できてしまうのです」
「……」
「ですが、その商会は、ベルハンの印で扉を開けました」
封蝋のベルハンの紋章が、灯りでぬらりと光った。
山を模した盾と、交差する二本の鉱槌。
鉱物の家。
その下に、人の数が書かれている。
「これだけが、というわけではないんですね」
「他にも、あります。多くは、ありません。けれど」
アリアさんは、口を結んだ。
「ゼロでも、ないのです」
「……」
「私は、これらを、ずっと『便宜』だと言われて育ちました」
アリアさんの声が、少しだけ揺れた。
「家業のための。鉱物の流通を円滑にするための。事業のための」
指先が、紙の端を押さえた。
「便宜」
アリアさんは、そう言って、口を閉じた。
しばらくしてから、また言った。
「便利な言葉です。人が消えても、帳簿が汚れても、そう呼べば済む」
「アリアさん」
「私は、見ないようにしてきました」
膝の上で、指が組まれた。
「魔法が好きで、宮廷魔術師になって。それで、家の話は、別だと思っていました。父の事業は、別だと」
「……」
「別では、ありませんでした」
その声は、震えていなかった。
震えないように、噛みしめていた。
*
廊下の向こうで、足音がした。
三つ。
表の扉の前で止まる。
「アリア・ベルハン殿。総統府より通達です」
アリアさんの表情が、すっと固くなった。
「来ました」
「予定よりも、早いですか」
「夜明けではなく、今すぐと」
アリアさんは、紙束を革袋へ押し込んだ。先ほどの便箋も、その奥へ。
動きに迷いはなかった。
扉の向こうで、声が続く。
「夜明けを待たず、貴殿を総統府へお移しします。保護のためです」
保護。
また、その言葉だ。
「タルボ殿」
「はい」
「謝らないでください」
言おうとしていた言葉が、喉で止まった。
なぜ、僕が謝ろうとしていたのを見抜くのだろう。
アリアさんは弓を背負い、灯りを消した。
部屋が暗くなる。
扉の向こうで、兵の声が強くなった。
「アリア殿。開けます」
アリアさんは、僕の手首を取った。
手枷の鎖が、ちゃり、と鳴る。
麻袋では、完全には音を消せなかった。
その指は、思っていたより冷たかった。
冷たいのに、力が強かった。
「タルボ殿」
月明かりに、金色の髪が揺れた。
「ベルハンの名は、置いていきません」
その目は、もう「新人指導員に頭を下げる新人」ではなかった。
「逃げるために捨てるのではなく、背負って出ます」
扉の取っ手が、外から回される音がする。
「父にも、いつか、自分で言います。あなたの便宜の下で、人が消えていた、と」
「行きましょう」
アリアさんが窓に手をかける。
夜気が、入ってきた。
その瞬間、遠くの鉱山の方角から、低い音が鳴った。
一度。
二度。
三度。
警備鐘ではない。
鐘の音ではなかった。
腹の底を叩くような、深い音。
アリアさんの手が、僕の手首をつかんだまま止まる。
「……今のは」
「分かりません」
分からない。
だが、役所の鐘ではない。
鉱山の警備鐘でもない。
人を集める音だ。
それも、助けを呼ぶための音ではない。
なぜか、ラーサの顔が浮かんだ。
怒る時よりも、笑う時よりも、ずっと静かな目。
消された家の名を、骨札に刻んでいた手。
あの人たちが何かを始めるなら、鐘ではなく、こういう音を鳴らす気がした。
鐘は役所のものだ。
だが、この音は違う。
誰かの許可を待つ音ではなかった。
扉の向こうで、兵の声が荒くなった。
「開けます!」
表の扉が、外から開き始めた。




