最終話 青い伝令鳥
青い伝令鳥が、こつ、こつ、と窓をたたいた。
僕は、帳簿への書き込みを止めた。
王都の昼は、相変わらず埃っぽい。窓の向こうでは中庭の噴水が白く光り、遠くの廊下から、誰かの足音がかすかに届いてくる。
机の上には、鉱石の出荷表。魔導炉の検査報告。半分だけ減った紅茶。封を切っていない菓子の包み。
こういうものに囲まれていると、ニラバが、ときどき夢だったような気がする。けれど、右肩の古い傷が、雨の前だけ少し疼く。
伝令鳥は、もう一度、こつんと窓を鳴らした。
「はいはい、今開けますから」
窓を少し開けると、青い羽がすばやく中へ滑り込んできた。足には、小さく折りたたまれた手紙がくくりつけられている。
表の文字を見て、すぐにわかった。
アリアさんからだ。
彼女の字は、相変わらずまっすぐだった。少し力が強くて、便箋の裏にまで跡が残っている。読み始める前から、元気そうだとわかった。
王都に戻って、もう半年になる。
アリアさんの働きで、ほんの少しだけ僕の帳簿も役に立って、ヨークの娘、ミラは無事に見つかった。
手紙には、ミラが今もラーサの家によく顔を出していると書かれていた。父親とは、まだうまく話せない日もあるらしい。けれど、名前を呼べば振り向く。
その一文だけで、しばらく、何も読めなくなった。
ミラ。
帳簿の外に消されかけた名前。
それが、今は誰かに呼ばれている。
手紙の続きには、学校のことが書かれていた。
アリアさんは、シセン族を含めた、字の読めない子どもたちのために、小さな学校を始めたらしい。学校といっても、街はずれの小屋を少し直しただけのものだという。雨が降ると屋根の端から水が落ち、風の強い日は紙が舞う。それでも、毎朝何人かの子どもが来る。
ラーサも協力的だとあった。
あのラーサが、屋根を直している姿を想像して、僕は少しだけ笑った。たぶん、釘を打つにも勝ち負けを決めたがるのだろう。
本が足りないらしい。
宮廷の本を送ってほしい、と最後の方に小さく添えてあった。子どもでも読めるもの。絵のあるもの。できれば、名前を書く練習に使えるもの。
誰も読まない本なら、王宮にはたくさんある。
僕の机の脚の下にも、一冊ある。
もちろん、これは本来の使い方ではない。けれど、机がぐらつくのだから仕方がない。
最後に、アリアさんはこう結んでいた。
『タルボ殿に会えたことで、私は、白い法衣を着ている意味を、少しだけ自分のものにできた気がします。感謝しています』
僕はしばらく、その一文を見つめた。
そんな立派なことをした覚えはない。
怖がって、迷って、何度も逃げたくなって、それでも最後に、どうにか帳簿を読んだだけだ。
けれど、便箋の上の文字は消えない。
僕は手紙を折りたたみ、引き出しの奥にしまってある小さな箱を開けた。
そこへ、アリアさんの手紙を大切に入れた。
箱を閉じる。
鍵をかける。
少しだけ、気分がよくなった。
こういう日は、温かい紅茶を飲んで、封を切っていない菓子を食べても許される気がする。
僕は椅子に座り直し、カップへ手を伸ばした。
その時、ドアが鳴った。
三度。
礼儀正しい音だった。
礼儀正しい音ほど、嫌な予感がする。
「……どうぞ」
扉が開く。
嫌な予感は、当たった。
アグネタとルトガーだった。
「これはこれは、シースト殿。お忙しいところを失礼いたしますわ」
アグネタは部屋の中をのぞき込み、すぐに紅茶へ目をやった。
「あら。お忙しい、というほどではなかったようですけれど」
ルトガーも、彼女の横から机の上を見た。
「菓子まで用意されている。いや、結構なことですな」
半年ぶりにまともに話すと、二人は驚くほど変わっていなかった。
「何かご用ですか」
「ええ。ほんの小さなお願いですの」
アグネタは、お願いと言いながら、断られるとは欠片も思っていない顔をしていた。
「西三番街の倉庫に、蝙蝠犬が入り込んだそうですわ。まだ数匹ですが、群れを呼ぶと厄介でしょう?」
「それで?」
「シースト殿に駆除をお願いしたいのです」
僕は、ゆっくり瞬きをした。
「それは、アグネタ殿たちの担当区域では」
「まあ、細かいことをおっしゃる」
ルトガーが、間を置かず続いた。
「我々はこのあと、元老院へ提出する書類がありましてね。シースト殿は、そういう雑務に慣れておられるでしょう」
雑務。
その言葉を聞いても、不思議と、前ほど胸は縮まなかった。
僕は箱の上に置いていた手を、そっと引いた。
「ご自分たちでしてください」
アグネタの眉が、わずかに上がる。
「……今、何と?」
「ご自分たちでしてください、と言いました」
ルトガーが鼻で笑った。
「おやおや。ニラバから戻られて、ずいぶん勇ましくなられた」
アグネタも、扇子のない手で口元を隠すようにした。
「それとも、アリア殿がいないと蝙蝠犬の相手もできないのかしら」
僕の中で、何かが小さく鳴った。
怒鳴るほどではない。
けれど、聞き流すには少しだけ大きい音だった。
「アリアさんは、僕の部下ではありません」
二人が黙る。
「アリアさんを、そういうふうに使わないでください」
言ってから、少しだけ手が震えた。
けれど、言い直す気にはならなかった。
アグネタの目が細くなる。
「まあ。ネローラン殿に逆らっただけのことはありますわね」
「聞きましたよ。あの魔腕を落としたとか」
ルトガーが、面白がるように言った。
「普通なら、広場で吊るされてもおかしくないところですな」
僕は何も言えなくなった。
アグネタに嫌味を言われたからではない。
あの時が、少しだけ戻ってきたからだ。
「それとも」
アグネタは、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「何か、ネローラン殿の弱みでも握っていらっしゃるのかしら」
「あの……」
僕は、アグネタの後ろへ視線を送った。
赤紫の法衣の裾が、廊下の影に見えた。
ルトガーは気づいていない。
アグネタも気づいていない。
「まあ、あの方もニラバの一件以来、元老院からずいぶん睨まれているそうですし。お立場も、以前ほど盤石ではないのでしょうね」
彼女は流暢に続けた。
「ですから、シースト殿のような方にも、少し優しくなさる必要が――」
「私に何か用か」
刃のような声が、アグネタの背中を刺した。
アグネタの肩が跳ねる。
ルトガーの顔から、さっと色が引いた。
二人が振り向くと、そこにネローラン殿が立っていた。赤紫の法衣。冷たい目。右腕は、長い革手袋で覆われていた。
「ネ、ネローラン殿」
アグネタの声が裏返った。
「ちょうど、シースト殿との用を済ませたところですわ。私たちは、これで」
「そうか」
ネローラン殿は、二人を見ることもなく言った。
「なら、蝙蝠犬の駆除へ行け。西三番街だったな」
アグネタとルトガーは、同時に固まった。
「え、いえ、それは」
「群れを呼ぶと厄介なのだろう」
ネローラン殿の声は、少しも大きくなかった。
「行け」
「……はい」
二人は、ほとんど逃げるように廊下を去っていった。
足音が遠ざかる。
部屋に、埃っぽい静けさが戻った。
僕は、机の脚の下に挟んである本をちらりと見た。
「あの、図書庫の古い本を、少しニラバへ送ってもよろしいでしょうか」
「申請書を出せ」
「やはり、難しいですか」
「許可は取る。申請書を出せと言った」
僕は顔を上げた。
ネローラン殿はもう背を向けていた。
「タルボ・シースト」
「はい」
「次の任務だ」
それだけ言うと、彼女は歩きはじめた。
僕は机の上を見た。
紅茶は、もう冷めている。
菓子の包みは、まだ開いていない。
王都に戻っても、僕の席は変わらなかった。窓際の、埃が溜まりやすい場所。山積みの書類と、冷めかけの紅茶の間。
けれど、引き出しの奥には、名前を呼ぶ場所へ続く手紙が一通増えた。
それから、僕は赤紫の法衣を追いかけた。




