ふかふかの幸せ
もう一度、部屋を見回す。
寝床と武器立て。
それでアクセル一人なら困らないんだろう。
でも。
(俺一人ならともかく、ここちゃんとむぎまで一緒に泊まるのは厳しいな)
ここちゃんを抱き直す。胸元では、むぎが小さく動いていた。
「……悪い。やっぱり俺たちは宿にする」
「そうか」
アクセルは特に気を悪くした様子もない。
たぶん本当に、ここで十分だと思って暮らしているんだろう。
(そこがもう分からないんだけどな)
さっきの衝撃を引きずりながら、外へ出ようとして。
足が止まった。
「……待て」
「どうした」
「宿って、金いるよな」
「ああ」
「俺、金ない」
街へ入った時にも気づいたことを、改めて突きつけられる。
冒険者にはなった。仕事もできる。
でも、まだ一件も仕事をしていない。当然、収入もない。
「俺が出す」
「いや」
反射的に断った。
「それは違うだろ」
アクセルが俺を見る。
「金がないんだろう」
「ないけど」
そこは否定できない。
アクセルは少し考えてから、腰の魔法袋へ手をやった。
「素材がある」
「素材?」
「道中で取った」
ああ。
森で倒した魔物から、牙や爪を回収していた。
「換金する」
「……それ、アクセルの金だろ?」
「ああ」
「じゃあ、やっぱり俺の金じゃないじゃないか」
「使えばいい」
「よくない」
「なぜだ」
「俺が気になるからだよ」
アクセルは黙った。
たぶん納得はしていない。
でも、このままだと話が進まない。
「……今夜必要な分だけ貸してくれ」
「貸す?」
「宿とか、飯とか。今日必要な分だけ」
一度言葉を切る。
「明日、仕事して返す」
「返さなくていい」
「返すよ」
「そうか」
あっさり引いた。
そこは引くんだな。
まだよく分からない。
⸻
結局、今日二度目の冒険者ギルドへ戻ることになった。
俺たちを見るなり、カウンターのミアが少しだけ目を丸くした。
アクセルは気にせず、魔法袋から牙や爪を取り出していく。
森で俺が見ていた、アクセル自身が倒して回収したものだ。
ミアが一つずつ確認していく。
しばらくして、硬貨の入った袋がアクセルへ渡された。
アクセルは受け取ると、そのまま俺へ差し出す。
「使え」
「だから全部はいらないって」
受け取らずに押し返す。
「これはアクセルが倒した魔物の金だろ。俺のじゃない」
「同じだ」
「同じじゃない」
少なくとも俺の中では違う。
「今夜必要な分だけ借りる。それでいい」
アクセルは少しだけ俺を見たあと、頷いた。
「ああ」
とりあえず、宿へ行って、いくら必要なのか聞いてからだ。
⸻
宿へ入る頃には、外はもう夕方だった。
木の扉を開けると、暖かい空気が流れてくる。
人の声。食事の匂い。食器の触れ合う音。
森にはなかった生活の気配だ。
受付で、まず一泊できるか尋ねる。
ここちゃんは腕の中。むぎは胸元。
どちらもそのままだ。
宿の主人が二匹を見たが、特に追い出されることはなかった。
部屋と夕食の値段を聞く。
そこで、隣のアクセルを見る。
「アクセルも泊まるのか?」
「ああ。待ち合わせる方が面倒だ」
「そうか」
それだけだった。
明日も一緒に動くつもりなら、確かにその方が早い。
宿の主人が料金を告げる。
アクセルが魔法袋から硬貨を取り出した。
自分の分を先に払い、それから必要な分だけ俺へ差し出す。
「これで足りる」
「……分かった」
受け取る。
重くはない。
数枚の硬貨。
それでも。
(……借金第一号だ)
俺もその中から宿代と夕食代を払った。
借りた。ちゃんと。
明日返そう。
そのまま、ここちゃんを少し持ち上げる。
「あの、もう一つお願いがあるんですけど」
「何だい?」
「この子たちの水を入れる、小さめの器って借りられますか?」
主人がここちゃんを見る。
「小さい皿ならあるよ」
「助かります。あと、もしもう一つあれば、食べ物を置くのにも使いたくて」
「ああ。構わない」
「宿にいる間、借りてもいいですか?」
「壊さなきゃいいよ」
「ありがとうございます。あと、水もお願いします」
よかった。
宿にいる間は、これで何とかなる。
(自分たちのものも、そのうち買わないとな)
⸻
通されたのは、寝台が二つ並んだ簡素な部屋だった。
扉を閉めて、まず中を軽く確認する。
ここなら、森よりずっと安全そうだ。
「よし」
コートを脱ぐ。
寝台のそば、邪魔にならない場所へ広げた。
ここちゃんをその上へ下ろす。むぎはまだ胸元だ。
さっき頼んだ小さな器と水も、少しして部屋へ届けてもらえた。
「ここちゃん、水」
器へ水を入れ、コートのそばへ置く。
ここちゃんが鼻を動かし、顔を寄せる。
ぺろぺろと飲み始めた。
「よし」
次はむぎ。
胸元から手のひらへ移す。
水の入った器を近づけると、むぎも顔を寄せた。
キュ。
小さく鳴いてから、水を飲み始める。
ちゃんと飲んでいる。
それを確認して、ようやく肩の力が抜けた。
食べ物もある。
サイファへ向かう途中、目につくたびにくさえもんへ確認して拾っておいたものだ。
ここちゃんが食べられる草。むぎが食べられる種や木の実。
「拾っといてよかったな」
ここちゃんの草はコートの端へ。
もう一つの小皿には、むぎの種と木の実を少し入れる。
ここちゃんはすぐに草を食べ始めた。
むぎは俺の手のひらに乗せたまま、小皿を近づける。
鼻を動かす。
キュ。
「うん。食え食え」
少しずつ食べていく。
しばらくして、むぎが口を止めた。
「もういいか?」
手のひらへ乗せたまま様子を見る。
問題なさそうだ。
胸元へ戻す。
もぞもぞと位置を決めて、落ち着いた。
二匹が水を飲んで、食べるものもある。
やっと一安心だ。
⸻
夕食の時間になった。
ここちゃんを抱き上げる。むぎは胸元。
二匹を連れて、アクセルと一緒に食堂へ下りた。
椅子へ座り、ここちゃんは膝の上。
むぎはそのまま胸元にいる。
運ばれてきた食事は、温かいスープとパンだった。
特別なものではない。
でも。
椅子に座って、机の上に置かれた器から、温かいものを食べられる。
それだけで、妙にありがたかった。
「……うまいな」
思わず口にすると、アクセルも頷く。
「ああ」
味付けはかなり単純だ。
森で見つけた香りのある草を少し使ったら、もっと変わるかもしれない。
そんなことを考えられるくらいには、余裕が戻ってきたらしい。
食事を終えて、二匹と一緒に部屋へ戻る。
ここちゃんをコートの上へ下ろす。
むぎはまだ胸元だ。
⸻
しばらくして、宿の主人が桶と布を持ってきてくれた。
「身体を拭くなら使ってくれ」
「ありがとうございます」
桶から湯気が立っている。
布を浸す。絞る。
顔へ当てた。
「あぁ……」
声が出た。
温かい。
ただそれだけなのに、すごい。
森では水があっても、身体を拭くためにわざわざ湯を沸かす余裕なんてなかった。
火は食事のために使った。
まず生き延びることが優先だった。
今は違う。
顔。首。腕。
温かい布で拭いていくたび、身体から森の疲れが少しずつ抜けていく気がする。
「湯っていいな……」
「ああ」
アクセルも短く返した。
そこは普通なんだな。
⸻
身体を拭き終える。
もう一度、二匹の様子を見る。
ここちゃんはコートの上で落ち着いている。
水も残っている。
胸元からむぎを出し、同じコートの端へそっと下ろす。
むぎは少しだけ周囲を確かめると、ここちゃんから離れた端の方で丸くなった。
「よし」
水もある。食べるものもある。
今夜は大丈夫そうだ。
そこで、ようやく自分の寝台を見る。
木の台。
その上に敷かれた寝具は、思っていたほど厚くない。
手で押してみる。
少し沈む。
特別柔らかいわけでもない。
たぶん、普通の寝台だ。
でも。
「……ふかふかだ」
アクセルが隣の寝台からこっちを見る。
「そうか?」
「俺にはふかふかなんだよ」
森では二晩。
木の根。硬い地面。
湿った土を気にして、少しでも休める場所を探した。
まともに眠れた気がしない。
でも、これは地面じゃない。
木の根も背中に当たらない。湿気もない。身体を横にできる。
それだけで十分だった。
寝台の端へ腰を下ろす。
少し沈む。
「……幸せだ」
大げさかもしれない。
でも今は、本気でそう思う。
森では、生き延びることで精一杯だった。
水。食べ物。火。寝る場所。
全部、その日を越えるためだった。
街へ来た。
冒険者になった。
宿へ泊まった。
二匹へ水をやって、食事を用意できた。
温かい飯を食べて。
湯で身体を拭いて。
寝台がある。
(こういうのが、暮らすってことなのかもな)
そのためには、当然金がいる。
今日の分はアクセルに借りた。
(明日は仕事をしよう)
借りた分くらい、自分で稼いで返したい。
何ができるかは、明日ギルドで考えればいい。
今日はもう、少しだけ横になるだけ。
コートの上を見る。
ここちゃんは伏せている。むぎも少し離れた端で丸くなっている。
二匹とも落ち着いている。
「おやすみ」
寝台へ身体を倒した。
薄い。
別に、高級でもない。
それでも。
(……ふかふかだ)
目を閉じる。
少し休むだけのつもりだった。




