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帰る場所の匂い


 丘を下りるにつれて、匂いが変わった。


 最初に混じったのは、乾いた土の匂いだった。


 街道を踏む足の下から舞うような、乾いた匂い。


 そこへ、風に乗って別の匂いが届く。


 焼きたてのパン。


 油。


 まだ遠い。


 でも、知っている。


 少し進むと、今度は金槌の音が聞こえてきた。


 かん。


 かん、と。


 一定じゃない音が、風の向こうから響いてくる。


 それに人の声が混じり始める。


 荷車の車輪が転がる音。


 何かを呼ぶ声。


 笑い声。


「……あ」


 まだ門は少し先だ。


 街の中だって、ここからじゃほとんど見えない。


 でも。


 分かる。


「サイファだ」


 声に出すと、妙にしっくりきた。


 ここちゃんが腕の中で耳を動かす。


 きゅる。


 胸元から、むぎも小さな顔を出した。


 キュ。


「もうすぐ着くぞ」


 ここちゃんの耳が、また遠くの音へ向く。


 むぎは胸元から鼻先だけ出して、ひくひくと動かしていた。


 何に反応してるのかは分からない。


 俺はそのまま二匹を連れて、坂を下る。


 横ではアクセルが前を見ていた。


「見えたな」


「ああ」


 道の先。


 見慣れた門が少しずつ大きくなる。


 ノアもそちらを見た。


「帰ってきたな」


「ああ」


 短く返す。


 その言葉を、ここ数日は何度も使ってきた。


 王都でも。


 街道でも。


 昨日の焚き火の前でも。


 でも。


 今は少し違った。


 もう、あと何日とも数えなくていい。


 カインの荷車が、がらりと音を立てる。


 横を見ると、カインも街の方へ視線を向けていた。


 カインにとっては、初めて見るサイファだ。


 俺たちとは違う。


 何も言わず、いつものように荷車を引いている。


 門へ近づくにつれて、人の姿も増えてきた。


 街へ入っていく荷車。


 外へ向かう人。


 門の脇で話している人たち。


 誰かとすれ違うたび、街の匂いが濃くなる。


 門の石も、もうはっきり見えた。


 見慣れた門だ。


 門番の一人がこっちを見た。


 最初は普通に通りへ目を向けただけだった。


 それが。


「……ん?」


 こっちを見直す。


 目を細めた。


 次の瞬間。


「おい、戻ったぞ!」


 声が飛んだ。


 隣にいた門番が振り向く。


「白兎の庭だ!」


「長かったな!」


 一気に声が重なる。


 思わず笑った。


「ああ」


 それから。


「ただいま」


 口にしてみる。


 門番が笑った。


「無事なら何よりだ」


「そっちも変わってなさそうだな」


「見ての通りだ」


「ならよかった」


「ほら、入んな」


「ああ」


 門をくぐる。


 靴の下が街道の土から石畳へ変わった。


 こつ、と音がする。


 その感触だけで、肩の力が少し抜けた。


 街の中は、外から聞いていたよりずっと賑やかだった。


 人が行き交う。


 店先から声が飛ぶ。


 どこかで荷物を下ろしている音がして、その向こうからまた金槌の音が重なる。


 焼きたてのパンの匂いも、さっきより近い。


 油の匂い。


 火の匂い。


 いくつもの匂いが混ざっている。


 久しぶりなのに。


 妙に落ち着く。


「あっ!」


 甲高い声がした。


 振り向く。


 通りの先にいた子どもが、こっちを指さしている。


「レインだ!」


「ほんとだ!」


 二人が駆けてきた。


 その途中で。


「ここちゃん!」


 やっぱりそっちか。


「うさぎー!」


 ここちゃんの耳がぴくりと動く。


「久しぶり!」


「おう、久しぶり」


 俺の前まで来ると、二人ともここちゃんを見る。


「元気だった?」


「元気だよ」


 腕の中を見る。


 ここちゃんが鼻を動かした。


 きゅる。


「ほら」


「元気だ!」


 何をもって判断した。


 まあ、合ってるからいいけど。


 もう一人が俺の胸元を見る。


「あ、むぎもいる!」


 むぎが顔を出す。


 キュ。


「むぎー!」


「こっちも元気だからな」


「見せて!」


「見るだけな。人多いから」


「はーい」


 素直で助かる。


 むぎは胸元に入れたまま。


 ここちゃんも腕の中だ。


 二人が横から覗き込んでいると、今度は少し離れたところから太い声が飛んできた。


「よう!」


 顔を上げる。


 鍛冶屋の親父が店先から手を上げていた。


 後ろでは、また金槌の音が鳴っている。


「長かったな!」


「そっちの音は相変わらずだな」


「仕事してんだから当たり前だ!」


「元気そうで何より」


「お前らもな」


 親父が笑う。


 その視線がアクセルへ移った。


「アクセル、久しぶりだな」


「ああ。変わりないか」


「こっちは見りゃ分かるだろ」


「そうだな」


 アクセルが少し笑った。


 親父も笑って、また手を上げる。


「あとで話聞かせろよ!」


「ああ」


 数歩進む。


 パンの匂いが強くなった。


 見れば、店先からパン屋の娘が顔を出している。


「おかえり!」


「ただいま」


「ほんとに長かったね」


「俺もそう思う」


 娘が俺たちを順番に見て。


「みんな無事でよかった」


 ノアが小さく頷いた。


「ああ。ただいま」


「ノアも元気そう」


「ああ」


 その返事に、娘が笑う。


 また歩き出す。


 数歩。


 十歩。


 それだけ進む間にも、何度か名前を呼ばれた。


「おかえり!」


「久しぶり!」


 通りすがりに手を上げる人。


 店先から顔だけ出す人。


 こっちも立ち止まらず、手を上げて返す。


「ただいま」


 また言った。


 さっきより自然に出た。


 ここちゃんの名前も飛んでくる。


 むぎの名前も。


 ここちゃんは声がするたびに耳を向けている。


 むぎも時々、胸元から顔を出す。


 カインは荷車を引いたまま、少し後ろを歩いていた。


 騒ぎの中心へ入ってくるわけじゃない。


 でも、離れてもいない。


 俺たちが声をかけられるたび、そちらへ目を向けている。


「精霊大陸、どうだった?」


 また声が飛んできた。


 今度はパン屋の娘だ。


 まだこっちを見ていたらしい。


「話すと長いぞ」


「じゃあ少しだけ」


「少しだけって言われてもな」


「海見た?」


「見たよ」


「どんなだった?」


 思い出す。


 潮の匂い。


 白い浜。


 森。


 あの湿った空気。


「……広かった」


「それだけ?」


「少しだけって言っただろ」


「少なすぎるよ」


 笑われた。


 ノアが横から言う。


「森も広い」


「おお」


「海も広い」


「ノアまでそれだけ?」


「事実だ」


 娘がまた笑う。


 俺も笑った。


 アクセルが横で言う。


「魚もうまい」


「結局それかよ」


「重要だ」


「まあ、うまかったけど」


 また笑い声が起きた。


 さっきまで子どもたちと話していたせいか、気づけば何人か足を止めている。


 誰かが聞いた。


「土産は?」


 すると。


「あるの!?」


 子どもがすぐ食いついた。


「そこだけ反応早いな」


「ある?」


「あとでな」


「やった!」


「まだ何も言ってないだろ」


 勝手に喜んでる。


 まあ。


 持って帰ってきたんだけど。


 ここちゃんが腕の中で少し体勢を変えた。


 抱き直す。


 むぎも胸元で、かさりと動いた。


 そろそろ立ち止まりすぎたか。


「ほら、通り塞ぐなよ」


「レインたちが止まってるんじゃん」


「……それもそうか」


 子どもに正論を言われた。


 少し横へ寄る。


 その時。


 鍛冶屋の親父が、俺の後ろへ目を向けた。


「そういや、そっちの兄ちゃんは?」


「ああ」


 振り返る。


 カインが荷車のそばに立っている。


 何度も声をかけられて足を止めている間も、特に急かすことなく待っていた。


「旅商人だ。今は一緒に来てる」


 カインが軽く頭を下げた。


「カインと申します。よろしくお願いします」


「商人か」


「はい」


「初めて見る顔だな」


「サイファへ来るのは初めてです」


「そうか。まあ、ゆっくりしてけ」


「ありがとうございます」


 それだけ言うと、親父はまた店の方へ顔を向けた。


 奥から声をかけられたらしい。


「悪い、戻るわ。またな!」


「ああ、また」


 金槌の音が、すぐに戻ってきた。


 かん。


 かん、と。


 その音を聞きながら、俺たちもまた歩き出す。


 荷車の車輪が石畳を転がる。


 さっきの子どもたちが後ろから手を振っていた。


 こっちも片手を上げる。


 ここちゃんを抱いてるから、高くは上がらない。


「またねー!」


「おう」


 通りを進む。


 さっきまでより人はばらけたけど、それでも時々声が飛んでくる。


 名前を呼ばれて。


 手を上げて。


 また歩く。


 カインが隣まで来た。


「ずいぶん声をかけられるんですね」


「そうだな」


 改めて言われると、確かに多い。


「長く留守にしてたからじゃない?」


「それもありそうですね」


 少し進む。


 向こうから来た男がアクセルへ手を上げる。


「おかえり!」


「ただいま」


 アクセルも普通に返した。


 そのまますれ違う。


 今度はノアが声をかけられて、短く返す。


 誰も長く引き止めるわけじゃない。


 でも、通りを進むたびに誰かが俺たちを見つける。


 カインはそれを見ながら、街へ視線を移した。


 店先。


 行き交う人。


 荷車。


 通りの向こう。


「活気がありますね」


「ああ」


 俺も周りを見る。


 さっきからずっと聞こえている人の声。


 石畳を踏む足音。


 荷車の車輪。


 パンの匂い。


 油の匂い。


 金槌の音。


 どれも特別なものじゃない。


 旅に出る前から、普通にあったものだ。


 だから。


 こんなに懐かしく感じるとは思ってなかった。


 王都を出て。


 海を渡って。


 森を歩いて。


 また海を渡って。


 何日も街道を進んだ。


 その最後に戻ってきたのが、この音だった。


 この匂いだった。


 ここちゃんが腕の中で鼻を動かす。


 きゅる。


 むぎも胸元から顔を出している。


 その時。


 通りの向こうから、また声が飛んできた。


「白兎の庭、おかえり!」


 誰の声かまでは分からなかった。


 でも。


 自然に返していた。


「ただいま!」


 声が街の喧騒に混ざる。


 パンの匂いが風に乗る。


 また金槌が鳴った。


 帰ってきた。


 ちゃんと。


 サイファに。

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