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帰る場所の匂い


 丘を下りるにつれて、匂いが変わった。


 乾いた土に、焼きたてのパンと油の匂いが混ざる。


 金槌の音が、空気を震わせる。


 サイファだ。


 門の前に立つと、見慣れた石の角が目に入る。


 ここちゃんが腕の中で耳を立てた。


 きゅる。


 むぎが胸ポケットの中で小さく動く。


 キュ。


 門番が目を凝らす。


 次の瞬間、顔を上げた。


「おい、戻ったぞ!」


 声が飛ぶ。


「白兎の庭だ!」


「長かったな!」


 重なった声に、俺は自然に笑った。


「ああ、ただいま」


 門をくぐる。


 石畳の感触が足裏に戻る。


 それだけで、肩の力が抜けた。


 すぐに通りの方から靴音が重なる。


「レインだ!」


「ほんとに戻ってきた!」


 子どもが駆け寄る。


「うさぎー!」


 ここちゃんがぴくりと耳を動かす。


 鍛冶屋の親父が店先から腕を振った。


「よう! 長かったな!」


「精霊大陸どうだった!?」


 パン屋の娘が身を乗り出す。


「海ってどんな匂いするの!?」


 質問が一気に飛んでくる。


 俺は思わず笑った。


「順番な」


 近い。


 声も、距離も、いつも通りだ。


 そのとき。


 親父が俺の後ろを指さした。


「ん? 後ろの兄ちゃんは?」


 俺は振り返る。


 カインが少しだけ引いた位置に立っていた。


 荷車の手綱を持ったまま、騒ぎを静かに見ている。


「旅商人だ。今は一緒に来てる」


 さらっと言う。


 カインが前へ出る。


「カインと申します」


 軽い会釈。


 落ち着いた声。


 干した布が風に揺れる。


 親父が鼻を鳴らした。


「商人か。うちの街、悪くねぇぞ」


「ええ。活気がありますね」


 やわらかい返しだ。


 パン屋の娘はすぐに話題を戻す。


「で、精霊大陸は!?」


 早い。


 俺は少しだけ目を細める。


 潮の匂い。


 白い浜。


 森の湿った空気。


「……広かった」


 短く言う。


「森も、海も」


 ノアが静かに続ける。


「空気が澄んでいる」


 アクセルが腕を組む。


「魚が食える」


 そこか。


 笑いが起きる。


「土産は!?」


 子どもが目を輝かせる。


 俺は袋を軽く持ち上げた。


「あとでな」


「やった!」


 声が重なる。


 ここちゃんが俺の腕の中で小さく体勢を変える。


 むぎが胸ポケットの中で、かさりと動いた。


 カインはその様子を見ていた。


 笑い声の中心には入らない。


 だが、距離は遠くない。


 視線がやわらかい。


 焼きたてのパンの匂い。


 油の匂い。


 金槌の音。


 朝の喧騒。


 全部、覚えていた。


 胸の奥がじわりと温かくなる。


 思っていたより、不在は長かったらしい。


 でも。


 ちゃんと、戻ってきた。



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