帰る前の夜
サイファまで、あと一日。
朝から街道を進んで。
昼に休んで。
また歩く。
夕方。
空が少しずつ赤くなり始めたところで、今日はそこで止まることにした。
「ここでいいか」
「ああ」
アクセルが周囲を見る。
ノアも特に異論はないらしい。
カインが荷車を止める。
今日が、この旅で最後の野営になる。
明日にはサイファだ。
俺はここちゃんを片腕に抱いたまま、空いた手で薄い敷物を出した。
「ここちゃん、今日はここな」
きゅる。
敷物へ下ろす。
両手が空いたところで、むぎ用の小さい敷物も出す。
胸元からむぎを移した。
「むぎも」
キュ。
小さい敷物の上へ降りると、鼻を動かしてからその場で落ち着いた。
二匹の水と食事を先に用意する。
ここちゃんが食べ始める。
むぎも小さい身体で食事へ寄っていった。
その間に、俺たちも野営の準備を進める。
もう何度目か分からない。
火がついて。
鍋をかけて。
日が沈む。
ぱち、と焚き火が鳴った。
アクセルが地面へ腰を下ろす。
少しして。
「……固い」
「あと一晩だ。諦めろ」
「ああ」
素直だな。
ここ数日で、もう言うだけ言えば満足するようになったらしい。
ノアが火の向こうでアクセルを見る。
「明日は寝台だ」
「ああ」
返事がちょっと早い。
「本当に寝台好きになったな」
「柔らかい」
「知ってるよ」
カインが小さく笑った。
俺は鍋へ視線を戻す。
今日も試したいものがある。
「あのスパイス、もう一回やるか」
小袋を取り出す。
乾燥葉。
砕いた実。
少量の塩。
まだ配合は決まっていない。
何度か試してるけど、毎回少しずつ違う。
それが面白いんだけど。
「またやるのか」
アクセルが言う。
「やる」
「そうか」
「嫌なら入れる前に言えよ」
「食う」
「じゃあ文句言うな」
「感想は言う」
「それは言ってくれ」
そこは必要だ。
ノアも鍋を見る。
カインも、もうスパイスの小袋を見ても特に驚かなくなった。
「今日はどのくらい入れるんですか?」
「この前より少しだけ変える」
「そうなんですね」
カインはそれ以上口を出さない。
俺も細かく説明できるほど分かってない。
結局。
試すしかない。
ほんの少し。
指先で取って、鍋へ落とす。
混ぜる。
湯気が上がった。
「……ん?」
香りが立つ。
悪くない。
むしろ好きな匂いだ。
でも。
「ちょっと強いか?」
鼻へ残る感じが、思ったよりはっきりしている。
アクセルが鍋を見る。
「食えば分かる」
「それはそう」
匂いだけで決めても仕方ない。
椀へ分ける。
まず俺が一口。
「……あ」
熱い。
それから香りが抜ける。
やっぱり。
少し強い。
「入れすぎたかも」
ノアも一口飲んだ。
少し間があって。
「……温まる」
「味は?」
ノアがもう一口。
「強い」
「やっぱり?」
「ああ」
短い。
でも分かりやすい。
カインも椀へ口をつける。
ゆっくり飲んで。
「香りが残りますね」
「強すぎる?」
「少し強いとは思います」
言いながら、もう一口飲む。
「ただ、嫌な感じではないです」
「そっか」
じゃあ方向は間違ってないのかもしれない。
たぶん。
アクセルが飲む。
一口。
すぐに言った。
「少し多い」
「早いな」
「分かる」
「まあ、俺もそう思う」
今日は全員ほぼ同じらしい。
「次は減らすか」
「ああ」
アクセルが頷く。
ノアも特に反対しない。
カインは椀を見ながら言った。
「サイファでも続けるんですよね」
「ああ」
即答した。
「帰ったらまたやる」
「そうですか」
カインが少し笑う。
「では、まだしばらく試せそうですね」
「完成するまでな」
「いつ完成する」
アクセルが聞く。
「知らん」
「終わらないな」
「決めつけるなよ」
ノアが静かに言う。
「終わらなそうだ」
「お前まで言うのか」
カインが笑った。
昨日も。
今日も。
短剣の話じゃなくて。
結局、香りの話をしている。
まあ。
その方が俺には分かりやすい。
その時。
《塩分比率、再計算可能》
(いらん)
《味覚安定化補助、可能》
(それもいらん)
一拍。
《改善案提示可能》
(自分でやる)
黙った。
いや、頭の中だから最初から静かなんだけど。
こういう時だけ妙に仕事熱心だな。
正解が出るなら楽なんだろう。
でも。
料理くらい、自分で試したい。
入れて。
食って。
多かったら減らす。
それでいい。
「どうした?」
アクセルがこっちを見る。
「いや。次どうするか考えてただけ」
「減らすんだろ」
「それは決まった」
「なら終わったな」
「終わってない」
「面倒だな」
「お前も食ってるだろ」
「ああ」
「じゃあ付き合え」
「分かった」
そこは素直なのかよ。
焚き火が揺れる。
ここちゃんは少し離れた薄い敷物の上で丸くなっている。
むぎも小さい敷物の上で身体を縮めていた。
二匹の食事はもう終わっている。
人間用の鍋には興味もないらしい。
「明日帰れるぞ」
ここちゃんの耳が動く。
きゅる。
むぎも小さく顔を上げた。
キュ。
「あと一日な」
返事の意味は分からない。
でも。
二匹とも元気そうだ。
それで十分。
俺も残っていたスープを飲む。
やっぱり少し強い。
完成にはまだ遠い。
明日にはサイファへ帰る。
帰ったら。
また試せる。
火がぱち、と弾けた。
最後の野営の夜。
スパイスは、まだ途中だった。




