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幻の香草


王都を離れて半日。


森沿いの街道は、陽を受けて柔らかく光っている。


昨日まで命を賭けた森と、同じ場所とは思えないほど穏やかだ。


俺は足を止める。


「この辺だって言ってたよな」


テラが振り返る。


「何がだ」


「幻の香草」


ノアの目が、ほんのわずかに細まる。


夜の月明かりの下で話したことを思い出している顔だ。


「沿岸部の森に自生する、と」


静かな声。


俺はしゃがみ込む。


「あの時言ってたやつだろ。香りが強くて」


ノアが続ける。


「感覚が研ぎ澄まされる、と聞く」


アクセルが聞く。


「食えるのか」


そこ、ぶれない。


ノアはうなずく。


「食用だ。ただし神経刺激性がある可能性がある」


理論は崩れない。


俺は葉をかき分ける。


「森と、雨と、少し甘い匂い、だったか」


ノアの視線がわずかに揺れる。


「……覚えていたのか」


「気になってたからな」


正直に言う。


風が抜ける。


その瞬間。


ほんのかすかに匂いが変わる。


湿った森の匂いの奥に、柔らかい甘さ。


俺とノアの視線が同時に動く。


紫の小さな花。


葉の裏に銀色の産毛。


ノアがしゃがみ、指先で裏を確かめる。


「一致する」


匂いを吸い込む。


ほんの一瞬、まぶたが下がる。


「……森と、雨だ」


声が少しだけ柔らぐ。


俺も嗅ぐ。


確かに。


強くはない。


だが、澄んだ匂いだ。


《微弱な神経刺激反応を検出》


くさえもんが言う。


(やっぱりか)


「大量摂取は避けるべきだ」


ノアが理論を添える。


だが、その声にわずかな楽しさが混じる。


研究対象を前にした学者の顔。


俺は数本だけ摘む。


「干してから試す」


「試すのか」


テラが呆れたように言う。


「中央大陸でな」


ここちゃんが腕の中でもぞりと動く。


きゅる。


地面の草を見つめる。


俺は慌てて別の柔らかい草をちぎる。


「これは普通のやつだ」


差し出す。


もぐ。


ここちゃんは満足そうに咀嚼する。


その音が、小さく、穏やかに響く。


アクセルが草地に腰を下ろす。


珍しい。


警戒はしているが、力は抜けている。


テラも周囲を見ながら、ほんの少しだけ表情が緩む。


森は静かだ。


靄はない。


緊張もない。


ただ、風が吹いている。


ノアは立ち上がる。


森を見る。


同じ森だ。


数刻前までは命の気配が張り詰めていた。


今は、草の匂いと、咀嚼の音と、くだらない会話。


レインは香草を丁寧に包む。


命を削って空間を固定した男が、今は真面目に草を選んでいる。


この切り替え。


ノアは気づく。


王都では、こうはいかない。


任務が終わっても、次の理が来る。


均衡。


報告。


責任。


ここでは違う。


終われば、草を探す。


笑う。


匂いを楽しむ。


「……平和だな」


思わず口に出る。


レインが肩をすくめる。


「今はな」


その軽さが、逆に重い。


アクセルが言う。


「幻というほどではないな」


ノアは小さく笑う。


「見つけるのが面倒なだけだ」


風が抜ける。


甘い匂いが、もう一度漂う。


ノアは胸の奥を確かめる。


ざわつきはない。


焦燥もない。


ただ、静かな充足。


任務を終えた安堵とは少し違う。


これは――


この空気の中に、自分がいることへの感覚だ。


違和感はない。


むしろ、自然だ。


まだ言葉にしない。


だが、はっきりしている。


この旅路に立つのは、間違いではなかった。


ここちゃんが草を食べ終わり、満足そうに目を細める。


むぎが胸元で小さく鳴く。


キュ。


森と、雨と、少し甘い香り。


道は続く。


リノアはまだ先。


だが、急ぐ理由はない。


今は、ただ歩けばいい。



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