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夜の海


 日が落ちると、海は色を失った。


 橙に染まっていた波が、ゆっくりと黒へ沈む。


 空には細い月。


 甲板の灯りがともる。


 帆が夜風をはらみ、低く鳴った。


 船首に立つアクセルが、手すりを握ったまま言う。


「……暗いな」


 視線は海から動かない。


 俺は少し後ろに立ち、同じ方向を見る。


「夜だからな」


 アクセルは首を振る。


「森とは違う」


 少し間を置く。


「森は、輪郭がある」


 黒い海を見下ろす。


「ここは、何もない」


 波が船体を打つ。


 どん、と低い音。


 底の見えない水。


 境界のない闇。


 どこまで続いているのか分からない。


 目で追っても、終わりが見えない。


 ここちゃんが腕の中でもぞりと動く。


 きゅる。


 むぎが胸ポケットから顔を出し、キュと鳴いた。


《夜間視界低下》


(知ってる)


 アクセルが不意に言う。


「落ちたらどうなる」


 視線は海のまま。


 俺は肩をすくめる。


「溺れる」


 アクセルがちらりと横を見る。


「助けるか」


「距離次第だな」


 少しだけ笑う。


 アクセルは鼻を鳴らす。


「落ちない」


 短い。


 揺るがない言い方だった。


 風が頬をなぞる。


 冷たい。


 昼よりもはっきりと、海の匂いだけが残っている。


 後ろを振り返る。


 陸の灯りは、もうどこにもない。


 後方で、テラが乗員と低い声で話している。


 灯りに照らされる横顔。


 短い言葉で指示を出し、すぐに次へ移る。


 迷いがない。


 副団長としての顔だ。


 ノアは甲板中央に立ち、沖を見ている。


 風に長い髪が揺れる。


 やがてこちらへ歩いてきた。


「外洋は順調だ」


 海面を見ながら言う。


「明日の夜明けには河口が見える」


 テラが続ける。


「そこから王都までは半日ほどだ」


 アクセルが振り向く。


「もうか」


 ノアは頷く。


「風の流れが安定している。精霊船は強い」


 テラが歩み寄る。


 月明かりの先を指した。


「川幅は広い。流れは精霊が抑える」


 言葉は短いが、迷いはない。


 見えているものをそのまま伝えているだけだ。


 俺は軽く顎を上げる。


「港町は通らないんだな」


「通過するだけだ」


 テラは答える。


「王族航路だ」


 風が一段強くなる。


 帆が鳴る。


 海面が月を映す。


 揺れは小さい。


 だが、足元のわずかな浮きは消えない。


 地面じゃない。


 それだけで、体のどこかが構えたままだ。


 アクセルがぽつりと呟く。


「走れないのは惜しいな」


 俺は笑う。


「泳ぐなよ」


 アクセルの耳がぴくりと動く。


「落ちない」


 二度目だ。


 しばらく、誰も話さない。


 波の音だけが続く。


 規則的で、途切れない。


 静かだが、完全な無音にはならない。


 その音が、ずっと足元にある。


 やがてノアが海の奥を見つめたまま言う。


「向こうは、静かではない」


 声は低い。


 俺は横顔を見る。


「靄か」


 ノアは頷く。


「拡大している」


 短い。


 それ以上は言わない。


 テラが続ける。


「王都で詳細を聞く」


 感情は出さない。


 だが、急いでいることは伝わる。


 船は夜の海を進む。


 黒い水面を切り分けるように。


 振り返っても、何もない。


 進む先も、まだ見えない。


 それでも、止まっていないことだけは分かる。


 手すりに手を置く。


 冷たい。


 指先に、わずかな振動が伝わる。


 波を越えるたびに、微かに揺れる。


 このまま進めば、朝が来る。


 その先に川があって、森があって、王都がある。


 ノアの場所だ。


 俺たちが向かう場所だ。


 波が静かに割れる。


 夜は深いまま、船は進み続ける。


 精霊大陸は、もう遠くない。



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