夜の海
出航してから、何時間か経った。
午後。
一度、船室へ入る。
ここちゃん用の薄い敷物と、むぎの小さな敷物を俺のそばへ敷く。
ここちゃんを腕から下ろすと、その上で身体を丸めた。
むぎも胸元から出してやる。
キュ。
小さな敷物へ下りると、そのまま落ち着いた。
「……俺もちょっと休むか」
横になる。
船は少し揺れている。
でも。
もっとぐらぐらするものだと思っていた。
水の上なのに、意外と落ち着いている。
水の精霊が抵抗を抑えるらしい。
そのおかげなのかもしれない。
目を閉じる。
「……重いな」
身体が。
十日間。
朝から歩いて。
休んで。
また歩いて。
夜になれば寝て。
次の日には、また歩いた。
歩いている間は、そこまで気にしていなかった。
でも。
横になった途端、思っていたより身体が重い。
止まったからこそ、まとめて出てきた感じだ。
しかも今は。
俺が何もしなくても、船が勝手に進んでいる。
歩かなくていい。
道を進む必要もない。
横になっていても、精霊大陸へ近づいていく。
「これは楽だな……」
きゅる。
すぐそばから声がする。
見ると、ここちゃんが敷物の上で丸くなっていた。
むぎも小さな敷物の上でじっとしている。
「お前らもゆっくりしとけ」
そう言った俺の方が。
そのまま少し眠ってしまった。
⸻
目を覚ました時には、夕方だった。
船室で食事にする。
二匹にも食事を用意して、水も出してやる。
初めての船だから。
食欲が落ちたり、落ち着かなくなったりしないか、少し気にしていた。
でも。
ここちゃんは普通に食べている。
むぎも食欲はあるみたいだ。
水もちゃんと飲んでいた。
「大丈夫そうだな」
きゅる。
キュ。
今のところは、二匹とも落ち着いている。
それだけで少し安心した。
俺も食事を済ませる。
少し休んだせいか。
身体はさっきより楽になっていた。
ただ。
今度はずっと船室にいるのも落ち着かない。
十日も歩き続けていたせいだろうか。
何もしなくていいと言われても、急には慣れないらしい。
「外、行くか」
ここちゃんを抱き上げる。
むぎも胸元へ戻して、船上へ出た。
空が赤く染まっていた。
昼間は青かった海にも、赤い光が広がっている。
しばらく見ているうちに。
太陽が沈んだ。
赤が薄れて。
海の色も消えていく。
船上に灯りがともる頃には、振り返っても陸の灯りは見えなかった。
本当に中央大陸を離れたんだな。
風が頬に当たる。
昼より冷たい。
水を切る音だけは、変わらず足元から続いている。
少し先に、アクセルがいた。
海を見ている。
「アクセル」
「ああ」
隣まで行く。
しばらくして。
アクセルがぽつりと言った。
「……暗いな」
「夜だからな」
「森とは違う」
アクセルは海から目を離さない。
「森は、輪郭がある」
「輪郭?」
「ああ」
少し間を置いて。
「木がある。地面がある。気配もある」
そして。
黒い海を見る。
「ここは、何もない」
「確かにな」
俺も前を見る。
昼間なら、水面があって。
波があって。
遠くまで続く海が見えた。
今は違う。
船上の灯りが届かなくなった先は、ほとんど何も見えない。
水を切る音がするから。
そこに海があると分かるだけだ。
昼に見た海とは、まるで別物に見える。
腕の中で、ここちゃんが少し身じろぎした。
きゅる。
「寒いか?」
抱き直してやる。
胸元からも、むぎが少しだけ顔を出した。
キュ。
「お前はそこにいろ」
頭を軽く撫でると、顔が少し引っ込んだ。
アクセルはまだ海を見ている。
怖がっているわけでもない。
はしゃいでいるわけでもない。
ただ。
自分の知っている夜とは違う暗さを、じっと見ていた。
俺もしばらく隣で海を見る。
何もない。
それなのに。
見ていて飽きなかった。
⸻
夜が深くなる前に、船室へ戻った。
二匹はまた、それぞれの敷物へ。
俺も横になる。
外からは水を切る音が聞こえている。
さっきまで十日も歩いていたのに。
今は寝ていても進んでいる。
妙な感じだ。
でも。
悪くない。
その夜は、身体を休めることだけを考えて眠った。
⸻
翌朝。
目を覚まして。
身体を起こす。
「……軽いな」
十日分が全部消えたわけじゃない。
それでも。
昨日より、身体がずっと楽だった。
ここちゃんは近くの敷物で落ち着いている。
むぎもそのそばで静かにしていた。
船は変わらず進んでいる。
俺たちが寝ている間も。
ずっと。
食事を済ませてからも、しばらく船室でゆっくりしていた。
歩かなくていい。
急いで支度する必要もない。
次の休憩場所を探す必要もない。
十日歩いた後だからこそ。
この何もしなくていい時間が、ありがたかった。
ただ。
昼が近づく頃には。
「……暇だな」
結局、そうなった。
贅沢な話だ。
ここちゃんを抱き、むぎを胸元へ。
外の空気でも吸おうと船上へ出る。
海。
右を見ても。
左を見ても。
海。
「……まだ海だな」
「ああ」
声の方を見る。
アクセルがいた。
「お前も来てたのか」
「ああ」
昨日ほど足元を気にする様子はない。
船が少し揺れても、もういちいち視線を落とさない。
それでも。
時々、遠くの海へ目を向けている。
「飽きない?」
「まだな」
「そっか」
それならいい。
俺も海を見る。
歩いている時は。
一日進めば、見えるものが少しずつ変わった。
道が変わって。
周りの景色が変わって。
街が近づいてくる。
船は違う。
進んでいるはずなのに。
見えるものは、ずっと海だ。
それでも。
船室へ戻れば横になれる。
疲れた足を休めている間にも、船は先へ進む。
十日歩いた旅の続きを。
今度は船が代わりに進んでくれているみたいだった。
⸻
その日も、大きなことは何も起きなかった。
休んで。
時々、船上へ出て。
海を見る。
そうしているうちに。
また空が暗くなった。
二度目の夜。
夕食を済ませてから船上へ出ると、昨日と同じ黒い海が広がっていた。
でも。
昨日とは少し違う。
船の揺れにも。
足元から続く水音にも。
身体がいちいち構えなくなっている。
アクセルも、今日は海だけを見ていた。
足元を確かめることもない。
少し離れたところにノアがいる。
テラも乗員と短く言葉を交わしてから、こちらへ来た。
アクセルが前を見たまま聞く。
「明日は見えるか」
「順調ならな」
テラが答える。
「そうか」
短いやり取り。
でも。
その一言で。
のんびりしていた気分が、少しだけ戻ってくる。
明日。
精霊大陸が見えるかもしれない。
「向こうの異常、収まってるといいんですけどね」
俺が言う。
テラは海の先を見る。
「少なくとも、俺が出た時点では続いていた」
「ですよね」
「王都で状況を確認する」
「ああ」
それだけだった。
原因はまだ分からない。
向こうで何が待っているのかも。
今はまだ見えない。
ここちゃんを抱く腕へ少し力を入れる。
胸元では、むぎが静かにしている。
十日歩いた疲れは。
昨日よりずっと軽くなった。
何もしなくていい時間も、十分にあった。
でも。
この休息も、そろそろ終わる。
前を見る。
まだ見えるのは、夜の海だけ。
明日には。
その向こうに、精霊大陸が見えるかもしれない。
船は静かに水を切りながら。
暗い海の先へ進んでいった。




