ヴァン、出航
森を抜けた瞬間、景色が変わった。
白い石壁。
林立する帆柱。
大小さまざまな船が、港を埋めている。
潮の匂いが濃い。
魚と塩と、濡れた木の匂い。
ヴァンは、想像よりずっと大きかった。
町の手前で、アクセルが足を止める。
海から町へ視線を移し、低く言う。
「……騒がしいな」
魚をさばく音。
樽を転がす音。
縄の軋む音。
怒鳴り声と笑い声。
頭上では海鳥が旋回している。
音が重なり続けて、途切れない。
俺は横に並ぶ。
「港町だからな。静かな方が不安だ」
アクセルは鼻を鳴らす。
だが視線は、船の列へ向いている。
帆を張った商船。
黒塗りの大型船。
小さな漁船。
目が動いている。
ひとつひとつを確かめるように。
テラが振り返る。
「急ぐ」
短い。
時間の無駄を切る声だった。
俺たちは露店も宿も素通りする。
焼いた魚の匂いが流れる。
干した網が揺れる。
足は止めない。
アクセルが一瞬だけ町を振り返った。
俺は歩調を合わせる。
「帰りはゆっくり見よう」
アクセルは小さく頷いた。
港の奥へ進む。
喧騒が、少しだけ遠のく。
一隻だけ、空気の違う船が停泊していた。
白い帆。
無駄のない船体。
装飾は控えめだが、木肌が滑らかに整っている。
甲板の乗員は静かに整列している。
周囲の音に混ざらない。
そこだけ、別の場所みたいに整っている。
テラが足を止める。
「あれが王族専用船だ」
はっきりと言う。
アクセルが桟橋の手前で立ち止まる。
顎を上げ、船を見上げた。
「……浮いている」
俺は肩をすくめる。
「船だからな」
アクセルが船体に手を触れる。
わずかに揺れる。
耳がぴくりと動いた。
「動いた」
ノアが横から言う。
「水の上だ」
アクセルはその場で揺れを確かめる。
足裏で、感触を拾っている。
やがて腕を組んだ。
「悪くない」
低い声。
だが、興味は隠れていない。
《材質:強化樫材。風属性付与確認》
(いちいち報告するな)
テラが桟橋を渡る。
乗員が一斉に敬礼する。
静かな動きで揃う。
無駄がない。
「乗ろう」
俺たちも続く。
甲板に足を踏み入れる。
わずかに沈み、すぐ戻る。
揺れが足元に伝わる。
アクセルが足裏で確かめる。
「……揺れる」
テラが振り返る。
「外海に出れば落ち着く。風と水の精霊が支える」
淡々とした説明だった。
当たり前のことのように言う。
帆が上がる。
白布が風を孕む。
次の瞬間、船が滑るように動き出した。
波を切る音。
桟橋が離れる。
ヴァンの町並みが、ゆっくり遠ざかっていく。
石壁が小さくなる。
帆柱の列が重なっていく。
アクセルが船首へ歩く。
手すりを握り、海を見下ろす。
「速いな」
声が少しだけ軽い。
ノアが隣に立つ。
「精霊船だ。外洋でも速度が落ちない」
簡潔な補足。
船は波を越えながら進む。
揺れは思ったほど強くない。
ここちゃんが腕の中で耳を揺らす。
きゅる。
むぎが胸ポケットから顔を出す。
キュ。
《航行安定》
(黙ってろ)
風が変わる。
陸の匂いが、少しずつ薄れる。
代わりに、潮の匂いだけが残る。
後ろを振り返る。
ヴァンはもう、細い線みたいになっている。
テラが後方を確認しながら言う。
「順調なら三日で精霊王都だ」
アクセルが振り返る。
「沿岸で降りるんじゃないのか」
「いや」
テラは前を見たまま続ける。
「精霊王都へ続く大河がある」
まだ見えない先を示すように、わずかに顎を上げた。
「この船は、そのまま川を遡る」
アクセルの耳が動く。
「遡れるのか」
海とは違う。
流れがある。
テラは淡々と答える。
「精霊王都まで続く川は深い。幅もある」
それだけでは足りないと分かっている声音。
「そして――精霊が流れを整える」
ノアが横で補足する。
「王族航路だ。許可された船のみが入れる」
港で見た船は入れない。
商船は沿岸で荷を降ろす。
そこから先は陸路。
この船は違う。
アクセルが小さく息を吐く。
「なるほど」
視線が遠くへ向く。
「便利だな」
テラの口元がわずかに動く。
「急ぎだからな」
誇るでもなく、ただ必要だから使うだけの声音だった。
海を見つめる。
波が規則的に砕ける。
同じようで、同じ形はひとつもない。
進んでいる。
はっきり分かる。
後ろは離れていく。
前はまだ見えない。
それでも、道は続いている。
ここちゃんが腕の中で静かに丸くなる。
むぎが胸元で動く。
この距離のまま、進んでいく。
船は迷いなく、波を切る。
海の先へ。
やがて細くなり、川へと変わる場所へ。
そのさらに先へ。
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