ヴァン、出航
ヴァンは、本当にすぐそこだった。
歩くほど潮の香りが濃くなる。やがて道の先に建物が増えて、その向こうには何本もの帆柱が見えた。
「……着いたな」
「ああ」
テラが短く答える。
ヴァンへ入る。
サイファとも、王都とも違う。
人の声。濡れた木の匂い。縄や樽。少し先では、魚を扱う音が聞こえる。
頭の上を海鳥が飛んでいった。
きゅる。
腕の中で、ここちゃんの耳が動く。
胸元からも。
キュ。
むぎが顔を出した。
「賑やかだな」
俺が言う。
アクセルは答えない。
その代わり、海ではなく、今度は港に並ぶ船へ何度も視線を向けていた。
小さい船。大きい船。帆を持つ船。
いくつも並んでいる。
「……船も初めて?」
「ああ」
「やっぱりか」
海の次は船らしい。
でも、はしゃぐわけでもなく。
アクセルはただ、一隻ずつ見るように目を動かしている。
テラはそのまま港の方へ進む。
「こっちだ」
俺たちも続いた。
⸻
港へ着く。
近くで見ると、船は思っていたより大きい。
水の上で、本当に浮いている。
隣でアクセルが低く言った。
「……浮いている」
「船だからな」
「ああ」
分かってるらしい。
でも、ちょっと気になるのも分かる。
「それで」
俺は並んだ船を見る。
「どれに乗るんです?」
「あれだ」
テラが示した先。
一隻の船が停まっている。
白い帆。周りの船と比べると、船体もきれいに整っている。
派手ではない。
でも、何となく目についた。
「あれ?」
「ああ」
テラが答える。
「王専用の船だ」
「……王専用?」
思わず聞き返した。
「ああ」
「王様、乗ってないですよね?」
「乗っていない」
「じゃあ何で王専用船が?」
「今回は任務に使う」
テラはそれだけ言う。
「このためにヴァンで待機させていた船だ」
「なるほど」
定期的に出ている船へ乗るわけじゃない。
俺たちを精霊大陸へ運ぶために、ここで待っていたらしい。
船へ近づく。
木の船体を見る。
(くさえもん)
《材質:強化樫材。風属性付与確認》
(風属性?)
《確認済み》
(いや、そこじゃなくて)
細かいことは分からない。
分かるのは、普通の木そのままではない、ということくらいだ。
それを口に出すことはせず、テラの後を追う。
船にいた乗員たちが、テラを見る。
揃って敬礼した。
テラも足を止める。
「予定通り出る」
「はい」
返事が返る。
それだけ確認すると、テラがこちらを見る。
「乗るぞ」
「はい」
ここちゃんを抱き直す。
むぎは胸元のまま。
テラに続いて船へ上がった。
⸻
足を乗せた瞬間。
「……お」
少し揺れた。
地面とは違う。足元が、ほんの少し上下する。
ここちゃんを抱く腕に少し力を入れる。
「大丈夫だぞ」
きゅる。
胸元のむぎも。
キュ。
その横で、アクセルが足元を見る。
「……揺れる」
「船だからな」
さっきとほぼ同じ返事になった。
アクセルは何も言わない。
一度だけ足元を確かめるように体重を移して、それから前を向いた。
ノアは足元を一度見て、それから前を向いた。
船の上から港を見る。
出航予定は正午。まだ少し時間がある。
乗員たちは動いているけど、俺に分かることは何もない。
邪魔をしない方がいい。
白い帆を見上げていると、テラが言った。
「この船は、風と水の精霊を使う」
「二つ?」
「ああ」
ノアが短く補足した。
「風が押す」
続けて。
「水の抵抗も、精霊が抑える」
「なるほど」
全部理解したわけじゃない。
でも、風で進むのを助けて、水の邪魔も減らす。
そういうことらしい。
テラが言う。
「外洋でも速度が落ちにくい」
「普通の帆船とは、やっぱ違うんだな」
「ああ」
俺にはそれで十分だった。
⸻
やがて、正午が近づく。
乗員の動きが変わった。
テラも船の前方へ目を向ける。
「出るぞ」
「はい」
白い帆が上がる。
風を受けて、大きく膨らんだ。
少し間があって、船が動く。
「おお……」
ゆっくり、港から離れていく。
水を切る音。
さっきまで近くにあったヴァンの景色が、少しずつ遠ざかっていく。
アクセルが海を見る。
次に、船の進む先を見る。
また足元。
「……速いな」
「そうだな」
海の次は船か。
でも、俺もちょっと分かる。
地面もないのに、こんな大きなものが水の上を進んでいる。
しかも、思ったより速い。
ここちゃんは腕の中から風の方へ鼻を向けている。
むぎも胸元から顔を出したまま。
キュ。
「落ちるなよ」
むぎの頭を指先で軽く撫でる。
そのまま胸元にいてもらう。
港が少しずつ小さくなっていく。
⸻
「精霊王都まで、どのくらいなんです?」
俺が聞く。
「順調なら三日ほどだ」
テラが答える。
「三日か」
十日歩いたあとに、今度は三日の船旅。
まだ先は長い。
「向こうに着いたら、港で降りるんです?」
「いや」
テラが首を振る。
「そのまま大河へ入る」
「川?」
「ああ。精霊王都の方まで続いている」
「この船で?」
「ああ」
海を走る船のまま、川へ入るらしい。
「王族航路を使う」
「王族航路?」
「許可された船が使う航路だ」
テラの説明は短い。
それ以上のことは言わない。
「海からそのまま王都の方まで行けるってことか」
「ああ」
「便利だな」
アクセルが言う。
テラは前を向いたまま答えた。
「今回は急ぐ」
「そうか」
そこで会話は終わる。
精霊大陸では、原因の分からない異常が広がっている。
旅行じゃない。
早く着けるなら、その方がいい。
⸻
後ろを見る。
ヴァンが遠ざかっている。
アクセルはまだ時々、船の動きへ目を向けている。
ノアは進む先を見ていた。
テラは乗員と短く言葉を交わしている。
俺の腕には、ここちゃん。
胸元には、むぎ。
十日かけて、ようやく海まで来た。
そして今、中央大陸を離れていく。
ここから先は、本当に知らない場所だ。
白い帆が風を受ける。
船はそのまま、海の向こうへ進んでいった。




