サイファの街
午後も歩き続けた。
アクセルの足は遅い。休みながら進んでいるとはいえ、脇腹の傷が消えたわけではない。
時々、わずかに顔をしかめる。そのたびに休ませようとするんだけど。
「問題ない」
その一言で進もうとする。
「それ、本当に便利な言葉だな」
「事実だ」
「そうか」
もう何度目か分からない。
俺はここちゃんを抱き直した。むぎはコートの胸ポケットから顔だけ出している。
森に来てからずっと木と草ばかり見ていたけど、しばらくすると少しずつ景色が変わり始めた。
木々の間隔が広くなる。地面にも、人が通ったらしい跡が見え始めた。
「……もしかして」
「ああ」
アクセルが前を見る。
「もうすぐ森を抜ける」
その言葉だけで、肩の力が少し抜けた。
⸻
木々が途切れた。
「……おお」
思わず声が出た。
遠くに石の壁が見える。その向こうには屋根が並び、煙が上がっている。壁の上には見張り台らしいものまであった。
人が造ったものだ。
間違いない。
(文明だ)
たった二日。それだけなのに。
森の中で水を探して、食べられるものを探して、火を起こして。魚を捕って、魔物まで見た。
そのせいか、石壁を見ただけで妙に感動する。
「人、いるんだよな?」
「街だからな」
「そうだよな」
分かってる。でも、確認したかった。
ここちゃんの頭を撫でる。
「やっと着いたな」
きゅる。
むぎも胸元から顔を出している。
ここが、この世界で初めて見る街だった。
⸻
街へ近づくにつれて、人の姿が増えていく。
荷物を積んだ荷車。大きな袋を背負った男。旅の途中らしい格好をした人。
見た目は俺と変わらない人が多い。
その中に時々、獣の耳や尻尾を持つ人が混じっていた。
垂れた犬みたいな耳。猫みたいに尖った耳。長い尻尾。
数は多くない。
(アクセルみたいなのも、いるにはいるんだな)
森ではアクセルしか見ていなかった。
こうして大勢の人が行き交う光景を見ると、改めて本当に異世界へ来たんだと実感する。
やがて、大きな門まで辿り着いた。
門の両脇には、槍を持った男が立っている。
その一人がこちらを見て、目を見開いた。
「……おい」
隣の門番も顔を上げる。
二人の視線が、アクセルへ向いた。
「瞬狼……?」
「本物か……?」
小声が漏れる。
(何それ)
俺は横を見る。
アクセルは気にした様子もない。
すると、門の内側から一人の男が歩いてきた。
他の二人より少し年上に見える。装備には使い込まれた跡があり、若い二人よりずっと落ち着いていた。
「お前たち、騒ぐな」
「す、すみません」
若い門番たちが姿勢を正す。
男はそのままアクセルを見る。
「……アクセルか」
「ああ」
視線が、裂けた服と脇腹の傷へ移った。
「また無茶したな」
「問題ない」
「その格好で言うか」
男が呆れたように息を吐く。
「何とやった?」
「ワイバーンだ」
男の眉が寄った。
「……一人でか?」
「ああ」
少しの沈黙。
「また無茶したな」
「仕留めた」
「そういう話をしてるんじゃない」
男の反応を見る。
(やっぱり、一人でワイバーンと戦うのは普通じゃないんだな)
そして、また、と言った。
横を見る。アクセルはまったく気にしていない。
ワイバーンを一人で倒して、自分も倒れかけて。それでも昨日からずっと「問題ない」で押し通している。
(無頓着……なのか?)
強いのは分かる。たぶん、かなり。
でも。
(なんか……大丈夫なのか、この人)
少し不安になってきた。
「……有名なのか?」
小声で聞く。
「それなりに」
アクセルはそれだけ答えた。
若い門番を見る。さっきから明らかに有名人を見る顔だ。
(本当にそれなりか?)
また一つ、よく分からないことが増えた。
今度は門番の視線が俺へ移った。
正確には、頭から足元まで。ゆっくり。
「……」
「……」
何だ、その顔。
自分を見る。
コート。その下はスーツ。革靴。
森を歩いたせいで多少汚れてはいるけど、服としては元のままだ。
門番を見る。
革。布。金属。
周囲を通る人たちも似たような格好をしている。
(……かなり浮いてるな、俺)
今さら気づいた。
アクセルの視線が俺へ向く。
「どうした」
「いや。何でもない」
最初に会った時、妙な格好だと言われた理由がようやく分かった。
門番の視線が下がる。
俺の腕の中。
「……兎か」
「はい」
もう一人の門番までここちゃんを見る。
「抱いて歩いてるのか」
「そうですけど」
「逃げないんだな」
「逃げないですね」
ここちゃんは俺の腕の中で鼻を動かしている。
門番が少し笑った。
「ずいぶん懐いてるな」
「まあ、家族なんで」
「家族?」
「ああ、いや」
説明すると長くなる。
門番は首を傾げたけど、それ以上は聞かなかった。
その時、胸元からむぎがひょこっと顔を出した。
「お、ハムスターか」
「はい」
「そこに入ってたのか。大人しいな」
むぎは少しだけ周囲を見て、また胸元へ引っ込んだ。
(……ハムスター、普通に通じるんだな)
ふと、アクセルを見る。
この人、昨日ネズミって言ってたよな。
(……何なんだろうな)
また少しだけ疑問が増えた。
年上の門番が俺を見る。
「こいつは?」
「レインだ。俺の連れだ」
「……そうか」
それだけで、門番は道を開けた。
「通っていい」
(いいんだ)
もっと何か聞かれると思っていた。でも、今は助かる。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げる。
俺は初めて、異世界の街へ足を踏み入れた。
⸻
門を抜けた瞬間、音が変わった。
人の声。荷車の車輪。金属を叩く音。どこかから漂ってくる食べ物の匂い。
それだけで、肩の力が少し抜けた。
(やっと森を抜けたんだな)
石畳の道。左右に並ぶ建物。店先に積まれた品物。行き交う人。
どれも知らないものばかりなのに、人が暮らしているというだけで安心する。
「……すごいな」
森とはまるで違う。
水を探さなくてもいい。食べ物も売っている。寝る場所だって、きっとある。
まだ何も分からない街なのに、それだけでありがたかった。
通りを行く人を見ると、俺と変わらない見た目の人が多い。
その中に時々、獣の耳や尻尾を持つ人が混じっている。
垂れた耳。猫みたいな耳。長い尻尾。
珍しすぎるわけではない。でも、数は多くなかった。
歩いていると、視線を感じる。
(アクセルか)
門番の反応を見る限り、この人はかなり知られているらしい。
「瞬狼だ」
「戻ってきたのか」
「あの傷……」
小声が聞こえる。
やっぱりアクセルを見ている。
そう思っていた。
けど。
「……あの隣の奴、何着てるんだ?」
「見たことないな」
「変わった服だな」
ん?
今、俺だったよな?
別の人と目が合う。逸らされた。
(俺もか)
もう一度、自分を見る。
スーツ。コート。革靴。
周囲を見る。
誰一人として似た格好をしていない。
(思ってた以上に浮いてるな……)
服。
これは早めに何とかした方がよさそうだ。
そして。
「あ、兎」
「白いな」
「抱かれてる」
「可愛い」
「兎ってあんなに懐くのか?」
今度はここちゃん。
ここちゃんが腕の中で鼻をひくひくさせる。
(そこは普通に可愛いんだな)
まあ、当然か。
ここちゃんは可愛い。
異世界でもそこは変わらないらしい。
さらに。
「あれ、ハムスターか?」
「胸元から顔出してる」
「可愛いな」
むぎがまた少しだけ顔を出した。
(やっぱり、みんな普通に知ってるな)
ちらっとアクセルを見る。
何も気にしていない。
昨日の「ネズミ」が、ますますよく分からなくなった。
視線の流れを追う。
アクセル。
俺。
ここちゃん。
むぎ。
そしてまたアクセル。
(何だ、この一行)
たぶん、かなり目立っている。
「あまり目立ちたくないんだけどな」
「無理だろう」
「それ、アクセルが言うのか」
「俺はいつも通りだ」
「俺だって昨日まではこれが普通だったんだよ」
アクセルが俺の服を見る。
「妙だ」
「もう分かったよ」
やっぱり服は何とかしよう。
⸻
「ここがサイファだ」
アクセルが言った。
「サイファ」
街の名前。
忘れないように頭の中で繰り返す。
ようやく、この世界で最初の街に辿り着いた。
人のいる場所へ行く。
そこまでは考えていた。
でも、その先を何も考えていなかった。
店先を見る。
食べ物。服。宿らしい建物。
そこで、ようやく気づく。
(……俺、金持ってないな)
この世界の金なんて、一枚もない。
森にいる間は、とにかく人里へ出ることしか考えていなかった。
水。食べ物。寝る場所。
森を抜ければ何とかなる。
なんとなく、そこで思考が止まっていた。
(何も考えてなかったな……)
少し気まずい。
「どうした」
アクセルが振り返る。
「いや……」
言いづらい。
「俺、金持ってない」
「ああ」
「ああ、じゃなくて」
普通に返された。
「泊まる場所もいるし、服も欲しい。ここちゃんとむぎの食べ物も買いたい」
「なら仕事をすればいい」
「仕事?」
「冒険者ギルドへ行く」
「ギルドか」
「ああ。仕事がある」
仕事。
それなら話は分かる。
ただ、さっきの魔物を思い出す。
俺なら普通に死ぬと思ったやつを、アクセルは一撃で倒した。
「……俺にできる仕事、あるのか?」
「あるだろう」
「その自信はどこから来るんだ」
アクセルは気にせず歩き出した。
とりあえず、今度は仕事を探すことになった。
冒険者ギルドへ。




