拠点、最初の夜
夕暮れ。
昼間まで人の声でいっぱいだった庭が、嘘みたいに静かになっていた。
長く伸びた影の中。
ここちゃんは白い丸クッションの上で丸くなっている。
物置を覗けば。
むぎは古い木桶の中。
キュ。
「……今日は、もう宿に戻らないんだな」
何となく口に出た。
アクセルが母屋を見る。
「ここで寝る」
「そうなんだけどさ」
分かってる。
でも。
昨日まで宿へ帰るのが当たり前だった。
今日からは違う。
「まあ、その前に飯だな」
「ああ」
そこはアクセルも早い。
ノアも庭からこちらを見る。
「腹は減った」
「よし。作るか」
⸻
夕食の前に、二匹も中へ移す。
「ここちゃん、入るぞ」
白い丸クッションの上から抱き上げる。
きゅる。
薄い敷物も一緒に持つ。
クッションは居間へ運んで、邪魔にならないところへ。
薄い敷物は床へ広げた。
ここちゃんを下ろす。
鼻を動かしてから。
その上へ座る。
「もう分かってるな」
きゅる。
次はむぎ。
物置へ行く。
「お前も飯」
木桶へ手を入れると。
むぎが手の上へ乗った。
キュ。
居間へ戻って。
小さい敷物を床へ置く。
その近くに柔らかい布。
むぎを敷物へ下ろすと、すぐ布へ鼻を寄せた。
「それは食ったあとでも使えるから」
キュ。
「じゃあ、飯にするか」
⸻
台所へ入る。
昨日見た時も広いと思ったけど。
実際に料理をするつもりで立つと、また印象が違う。
棚。
流し台。
魔石コンロ。
「これを家で使うの、初めてだな」
魔石コンロに火をつける。
「おお」
宿の厨房を借りる必要がない。
自分たちの台所で。
自分たちの飯を作れる。
流し台の蛇口をひねる。
水が出る。
「……便利だな、やっぱり」
深鍋へ水を入れる。
手持ちの肉と野菜を使って。
煮込んでいく。
塩。
それから。
王都で買った香草を少し。
蓋を開けると、もう覚えた匂いがした。
「これも普通に使うようになったな」
鍋へ入れる。
しばらくすると。
肉と野菜の匂いに、香草の香りが混ざってきた。
「悪くない」
味を見る。
もう少しだけ塩。
それで十分だった。
⸻
鍋を煮ている間に。
二匹の夕食も用意する。
ここちゃんには食べられる葉を。
むぎには種と木の実。
それぞれ水も用意する。
居間へ持っていくと。
ここちゃんが薄い敷物の上で鼻を動かした。
「はい、ここちゃん」
きゅる。
すぐに葉を齧り始める。
むぎの前にも置く。
キュ。
小さな手で種を持ち上げた。
「よし」
二匹はこれでいい。
俺たちの方も仕上げるか。
⸻
「できたぞ」
深鍋から三人分を取り分ける。
食卓へ運ぶ。
今日入ったばかりの食卓。
椅子は四脚。
俺。
アクセル。
ノア。
三人が座って。
一脚だけ余った。
別に。
今はそれだけだ。
「いただきます」
椅子へ腰を下ろす。
「……ん」
硬い。
座れないほどじゃない。
でも。
しばらく座っていたら気になりそうだ。
「ちょっと硬いな、この椅子」
アクセルも座ったまま答える。
「硬い」
「寝台はあんなに柔らかいの選んでたのに」
「寝台は寝る」
「椅子は?」
「座る」
「知ってるよ」
真顔だった。
ノアも椅子へ座る。
「普通」
「ノアは平気?」
「ああ」
「じゃあ俺が気にしすぎか」
まあいい。
使えないわけじゃない。
今は飯だ。
煮込みを一口。
「うん」
香草の香りが抜ける。
王都で試した時より。
もう珍しい感じはしない。
普通に料理の一つになっている。
アクセルも食べる。
「悪くない」
「よし」
ノアも一口。
「落ち着く」
「そう?」
「ああ」
それだけ言って、また食べる。
向こうでは。
ここちゃんが葉を食べている。
むぎも小さな敷物の上で、種を両手に持っている。
宿でも一緒に飯を食っていた。
旅の途中でも。
でも。
今日は。
自分たちの食卓だ。
妙な感じがする。
悪い意味じゃなく。
「……静かだな」
「昼がうるさかった」
アクセルが言う。
「それはそう」
引っ越しに何人来てたんだよ。
思い出すと。
静かな今の方が不思議なくらいだった。
⸻
食べ終える。
使ったものを台所へ運ぶ。
蛇口から水を出して。
順番に洗っていく。
宿の厨房なら。
借りたものを洗って返していた。
今は。
使って。
洗って。
またここへ置く。
「……ほんとに自分たちの台所なんだな」
小さく呟く。
「何か言ったか」
「いや、何でもない」
アクセルはもう居間へ戻っていた。
俺も最後の器を洗って。
片づける。
⸻
外へ出る頃には。
空はもう暗くなっていた。
ここちゃんを抱き上げる。
むぎも小さい敷物から手へ乗せて、胸元へ戻す。
そのまま外へ出る。
夜風が庭を抜ける。
ここちゃんを庭へ下ろすと。
少し草の匂いを嗅いでから、ゆっくり歩き始めた。
むぎは胸元。
キュ。
定位置だ。
アクセルが母屋を見上げる。
「屋根がある」
「あるな」
「雨でも濡れない」
「そこ重要なんだな」
「ああ」
迷いがない。
前の家の話を聞いた時から。
こいつにとっては、本当に大事なんだろう。
「寝台も柔らかいしな」
「ああ」
「かなり満足してるだろ」
「問題ない」
それは満足してるやつだ。
ノアが庭の草へ目を向ける。
夜の空気に。
夕食で使った香草の匂いが、まだ少しだけ残っている気がした。
「そういえば」
ノアを見る。
「精霊大陸にも、こういう香草ってあるの?」
「ああ」
「やっぱりあるんだ」
「珍しいものもある」
「珍しい?」
ノアが少しだけ考える。
「幻の香草があるらしい」
「幻?」
名前からして気になる。
「滅多に見つからない」
「どんなの?」
「森と、雨と、少し甘い香りが混ざったような香りだと聞く」
「……それ、かなり気になるな」
想像する。
森。
雨。
そこに甘い匂い。
全然分からないのに。
嗅いでみたくなる。
アクセルが聞いた。
「食えるのか」
「食用だ」
「へえ」
それなら。
さらに興味が出る。
「料理にも使える?」
「そこまでは知らない」
「なるほど」
分からないことは分からない。
ノアらしい。
「香りだけで、感覚が冴えるとも言われてる」
「香りだけで?」
「ああ」
断言はしない。
伝わっている話。
その程度らしい。
「幻って呼ばれてるくらいなら、簡単には見つからないんだろうな」
「ああ」
風が抜ける。
ここちゃんの耳が揺れた。
胸元から。
キュ。
「精霊大陸か……」
海の向こう。
ノアが来た場所。
今の俺には。
まだそれくらいの距離だ。
「いつか見てみたいな」
ノアがこちらを見る。
「香草を?」
「それも」
少し笑う。
「海の向こうっていうのも気になる」
「遠い」
「だろうな」
今すぐ行く話じゃない。
ただ。
そういうものがあると知った。
それだけで。
前より少しだけ、海の向こうが気になった。
⸻
しばらく庭で過ごしてから。
「そろそろ入るぞ」
ここちゃんを抱き上げる。
母屋へ戻る。
「寝るか」
アクセルが言った。
「ああ」
アクセルは自分が使う部屋へ向かう。
「じゃあ、おやすみ」
「ああ」
ノアも滞在中使っている部屋の前で止まる。
「おやすみ」
「おやすみ、ノア」
扉が閉まる。
残ったのは。
俺と二匹。
「俺たちも寝るか」
きゅる。
キュ。
⸻
自分の部屋へ入る。
寝台が一つ。
昨日まで空だった部屋。
今日は。
ここで寝る。
床へ、ここちゃんの薄い敷物を広げる。
「ここな」
腕から下ろす。
ここちゃんは鼻を動かして。
敷物の上で身体を丸くした。
きゅる。
次。
むぎの小さい敷物を近くへ置く。
柔らかい布もその上へ。
胸元からむぎを手へ移して。
敷物へ下ろす。
キュ。
すぐに布へ頭を入れる。
もぞ。
少しして。
布の中から顔だけ出た。
「やっぱりそれ好きだな」
キュ。
「おやすみ」
顔が引っ込む。
俺も寝台へ横になる。
「……柔らかい」
アクセルが選んでた理由。
ちょっと分かったかもしれない。
天井を見る。
宿じゃない。
庭のある。
白兎の庭の拠点。
床にはここちゃん。
その近くには、布に潜ったむぎ。
「今日から、ここか」
目を閉じる。
初めての夜。
今日から。
ここが帰る場所だ。




