↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
47/250

拠点、最初の夜


 夕暮れ。


 昼間まで人の声でいっぱいだった庭が、嘘みたいに静かになっていた。


 長く伸びた影の中。


 ここちゃんは白い丸クッションの上で丸くなっている。


 物置を覗けば。


 むぎは古い木桶の中。


 キュ。


「……今日は、もう宿に戻らないんだな」


 何となく口に出た。


 アクセルが母屋を見る。


「ここで寝る」


「そうなんだけどさ」


 分かってる。


 でも。


 昨日まで宿へ帰るのが当たり前だった。


 今日からは違う。


「まあ、その前に飯だな」


「ああ」


 そこはアクセルも早い。


 ノアも庭からこちらを見る。


「腹は減った」


「よし。作るか」


⸻


 夕食の前に、二匹も中へ移す。


「ここちゃん、入るぞ」


 白い丸クッションの上から抱き上げる。


 きゅる。


 薄い敷物も一緒に持つ。


 クッションは居間へ運んで、邪魔にならないところへ。


 薄い敷物は床へ広げた。


 ここちゃんを下ろす。


 鼻を動かしてから。


 その上へ座る。


「もう分かってるな」


 きゅる。


 次はむぎ。


 物置へ行く。


「お前も飯」


 木桶へ手を入れると。


 むぎが手の上へ乗った。


 キュ。


 居間へ戻って。


 小さい敷物を床へ置く。


 その近くに柔らかい布。


 むぎを敷物へ下ろすと、すぐ布へ鼻を寄せた。


「それは食ったあとでも使えるから」


 キュ。


「じゃあ、飯にするか」


⸻


 台所へ入る。


 昨日見た時も広いと思ったけど。


 実際に料理をするつもりで立つと、また印象が違う。


 棚。


 流し台。


 魔石コンロ。


「これを家で使うの、初めてだな」


 魔石コンロに火をつける。


「おお」


 宿の厨房を借りる必要がない。


 自分たちの台所で。


 自分たちの飯を作れる。


 流し台の蛇口をひねる。


 水が出る。


「……便利だな、やっぱり」


 深鍋へ水を入れる。


 手持ちの肉と野菜を使って。


 煮込んでいく。


 塩。


 それから。


 王都で買った香草を少し。


 蓋を開けると、もう覚えた匂いがした。


「これも普通に使うようになったな」


 鍋へ入れる。


 しばらくすると。


 肉と野菜の匂いに、香草の香りが混ざってきた。


「悪くない」


 味を見る。


 もう少しだけ塩。


 それで十分だった。


⸻


 鍋を煮ている間に。


 二匹の夕食も用意する。


 ここちゃんには食べられる葉を。


 むぎには種と木の実。


 それぞれ水も用意する。


 居間へ持っていくと。


 ここちゃんが薄い敷物の上で鼻を動かした。


「はい、ここちゃん」


 きゅる。


 すぐに葉を齧り始める。


 むぎの前にも置く。


 キュ。


 小さな手で種を持ち上げた。


「よし」


 二匹はこれでいい。


 俺たちの方も仕上げるか。


⸻


「できたぞ」


 深鍋から三人分を取り分ける。


 食卓へ運ぶ。


 今日入ったばかりの食卓。


 椅子は四脚。


 俺。


 アクセル。


 ノア。


 三人が座って。


 一脚だけ余った。


 別に。


 今はそれだけだ。


「いただきます」


 椅子へ腰を下ろす。


「……ん」


 硬い。


 座れないほどじゃない。


 でも。


 しばらく座っていたら気になりそうだ。


「ちょっと硬いな、この椅子」


 アクセルも座ったまま答える。


「硬い」


「寝台はあんなに柔らかいの選んでたのに」


「寝台は寝る」


「椅子は?」


「座る」


「知ってるよ」


 真顔だった。


 ノアも椅子へ座る。


「普通」


「ノアは平気?」


「ああ」


「じゃあ俺が気にしすぎか」


 まあいい。


 使えないわけじゃない。


 今は飯だ。


 煮込みを一口。


「うん」


 香草の香りが抜ける。


 王都で試した時より。


 もう珍しい感じはしない。


 普通に料理の一つになっている。


 アクセルも食べる。


「悪くない」


「よし」


 ノアも一口。


「落ち着く」


「そう?」


「ああ」


 それだけ言って、また食べる。


 向こうでは。


 ここちゃんが葉を食べている。


 むぎも小さな敷物の上で、種を両手に持っている。


 宿でも一緒に飯を食っていた。


 旅の途中でも。


 でも。


 今日は。


 自分たちの食卓だ。


 妙な感じがする。


 悪い意味じゃなく。


「……静かだな」


「昼がうるさかった」


 アクセルが言う。


「それはそう」


 引っ越しに何人来てたんだよ。


 思い出すと。


 静かな今の方が不思議なくらいだった。


⸻


 食べ終える。


 使ったものを台所へ運ぶ。


 蛇口から水を出して。


 順番に洗っていく。


 宿の厨房なら。


 借りたものを洗って返していた。


 今は。


 使って。


 洗って。


 またここへ置く。


「……ほんとに自分たちの台所なんだな」


 小さく呟く。


「何か言ったか」


「いや、何でもない」


 アクセルはもう居間へ戻っていた。


 俺も最後の器を洗って。


 片づける。


⸻


 外へ出る頃には。


 空はもう暗くなっていた。


 ここちゃんを抱き上げる。


 むぎも小さい敷物から手へ乗せて、胸元へ戻す。


 そのまま外へ出る。


 夜風が庭を抜ける。


 ここちゃんを庭へ下ろすと。


 少し草の匂いを嗅いでから、ゆっくり歩き始めた。


 むぎは胸元。


 キュ。


 定位置だ。


 アクセルが母屋を見上げる。


「屋根がある」


「あるな」


「雨でも濡れない」


「そこ重要なんだな」


「ああ」


 迷いがない。


 前の家の話を聞いた時から。


 こいつにとっては、本当に大事なんだろう。


「寝台も柔らかいしな」


「ああ」


「かなり満足してるだろ」


「問題ない」


 それは満足してるやつだ。


 ノアが庭の草へ目を向ける。


 夜の空気に。


 夕食で使った香草の匂いが、まだ少しだけ残っている気がした。


「そういえば」


 ノアを見る。


「精霊大陸にも、こういう香草ってあるの?」


「ああ」


「やっぱりあるんだ」


「珍しいものもある」


「珍しい?」


 ノアが少しだけ考える。


「幻の香草があるらしい」


「幻?」


 名前からして気になる。


「滅多に見つからない」


「どんなの?」


「森と、雨と、少し甘い香りが混ざったような香りだと聞く」


「……それ、かなり気になるな」


 想像する。


 森。


 雨。


 そこに甘い匂い。


 全然分からないのに。


 嗅いでみたくなる。


 アクセルが聞いた。


「食えるのか」


「食用だ」


「へえ」


 それなら。


 さらに興味が出る。


「料理にも使える?」


「そこまでは知らない」


「なるほど」


 分からないことは分からない。


 ノアらしい。


「香りだけで、感覚が冴えるとも言われてる」


「香りだけで?」


「ああ」


 断言はしない。


 伝わっている話。


 その程度らしい。


「幻って呼ばれてるくらいなら、簡単には見つからないんだろうな」


「ああ」


 風が抜ける。


 ここちゃんの耳が揺れた。


 胸元から。


 キュ。


「精霊大陸か……」


 海の向こう。


 ノアが来た場所。


 今の俺には。


 まだそれくらいの距離だ。


「いつか見てみたいな」


 ノアがこちらを見る。


「香草を?」


「それも」


 少し笑う。


「海の向こうっていうのも気になる」


「遠い」


「だろうな」


 今すぐ行く話じゃない。


 ただ。


 そういうものがあると知った。


 それだけで。


 前より少しだけ、海の向こうが気になった。


⸻


 しばらく庭で過ごしてから。


「そろそろ入るぞ」


 ここちゃんを抱き上げる。


 母屋へ戻る。


「寝るか」


 アクセルが言った。


「ああ」


 アクセルは自分が使う部屋へ向かう。


「じゃあ、おやすみ」


「ああ」


 ノアも滞在中使っている部屋の前で止まる。


「おやすみ」


「おやすみ、ノア」


 扉が閉まる。


 残ったのは。


 俺と二匹。


「俺たちも寝るか」


 きゅる。


 キュ。


⸻


 自分の部屋へ入る。


 寝台が一つ。


 昨日まで空だった部屋。


 今日は。


 ここで寝る。


 床へ、ここちゃんの薄い敷物を広げる。


「ここな」


 腕から下ろす。


 ここちゃんは鼻を動かして。


 敷物の上で身体を丸くした。


 きゅる。


 次。


 むぎの小さい敷物を近くへ置く。


 柔らかい布もその上へ。


 胸元からむぎを手へ移して。


 敷物へ下ろす。


 キュ。


 すぐに布へ頭を入れる。


 もぞ。


 少しして。


 布の中から顔だけ出た。


「やっぱりそれ好きだな」


 キュ。


「おやすみ」


 顔が引っ込む。


 俺も寝台へ横になる。


「……柔らかい」


 アクセルが選んでた理由。


 ちょっと分かったかもしれない。


 天井を見る。


 宿じゃない。


 庭のある。


 白兎の庭の拠点。


 床にはここちゃん。


 その近くには、布に潜ったむぎ。


「今日から、ここか」


 目を閉じる。


 初めての夜。


 今日から。


 ここが帰る場所だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。