狼と、白い光
森の奥から、重い音がした。
――ドサッ。
獣の鳴き声じゃない。
何か大きなものが倒れたような音だった。
ここちゃんの耳がぴんと立つ。
コートの上にいたむぎも、小さな顔を上げた。
「……何かいる?」
《生体反応を確認》
「近い?」
《比較的近距離です》
一拍。
《人型反応》
「人?」
思わず立ち上がった。
今日一日、人里を探して歩き回った。それでも一人も見つからなかったのに。
《生命活動低下》
「……死にかけてる?」
《可能性:高》
喜んでいる場合じゃなかった。
「周りに他の反応は?」
《近距離に大型生体反応なし》
暗い森を見る。
知らない世界だ。
罠かもしれない。
助けた相手がまともとも限らない。
でも。
「……放っとけないよな」
ここちゃんを抱き上げる。
むぎは胸元へ。
「場所、分かる?」
《案内可能》
「頼む」
⸻
焚き火から離れるにつれて、森は暗くなった。
少し進んだところで、血の匂いが強くなる。
「……これは」
大きな木の根元。
そこに男が倒れていた。
黒い髪。
浅黒い肌。
そして。
「……狼?」
頭の上に、銀色の耳。
人間のものじゃない。
身体も大きい。
俺より一回りはありそうだ。
服のあちこちが裂け、肩や腕、脇腹から血が滲んでいる。
特に脇腹の傷が深い。
「おい」
近づくと。
男の目が開いた。
鋭い。
死にかけている人の目じゃない。
「……来るな」
低い声は掠れていた。
「いや、でも……その傷」
「構うな」
「それは無理だろ」
怖くないわけじゃない。
狼みたいな耳。
牙。
腰には剣。
どう見ても俺より強そうだ。
それでも。
目の前で死なれる方が嫌だった。
「とりあえず傷だけ――」
その時。
腕の中から、ここちゃんがするりと降りた。
「ここちゃん?」
白い毛玉が、何の迷いもなく男へ近づいていく。
「待て、危ないって」
止めるより早かった。
ここちゃんが男の腕へ鼻先を寄せる。
きゅる。
次の瞬間。
淡い白い光が広がった。
「……え?」
柔らかな光が、男の身体を包む。
荒かった呼吸が少しずつ落ち着いていく。
流れ続けていた血も弱くなった。
でも。
傷が消えたわけじゃない。
深い傷は、そのまま残っている。
《白色個体より未知の波動を検出》
「ここちゃん、何したの?」
《解析不能》
「お前でも分からない?」
《現時点では情報不足》
男も自分の傷を見ていた。
それから、ここちゃんを見る。
「……何だ、この兎」
「俺が聞きたい」
ここちゃんは何事もなかったように、俺の足元へ戻ってきた。
「お前なぁ……」
いつものここちゃんだ。
少なくとも見た目は。
「まあ、あとで考えるか」
きゅる。
返事だけは軽い。
⸻
「傷、見るぞ」
「……好きにしろ」
さっきより声に力が戻っている。
男の横へ膝をついて、傷を見る。
血はかなり弱まった。
でも脇腹は深い。
破れた服の上から、出血しているところを押さえる。
応急処置なんて、大した知識はない。
とにかく。
今できるのは、これくらいだ。
(この傷、何か分かるか?)
《詳細判定不能》
「……」
返事が来た。
(頭の中だけでも通じるのか)
《はい》
(それ、最初に教えてくれないか)
《音声による意思疎通に支障がなかったため、報告優先度を低と判断しました》
(……そういうところなんだよな)
でも、これは助かる。
他人がいるところで、一人で喋らなくて済む。
男の脇腹へ視線を戻す。
「何にやられたんだ?」
男が少し黙った。
「ワイバーンだ」
「……ワイバーン?」
どこかで聞いたことがある。
翼のある、でかい竜みたいなやつだった気がする。
「それ、結構危ないやつじゃなかったか?」
「普通は単独で相手にするものじゃない」
「やっぱり危ないやつじゃないか」
男は何でもないことみたいに続けた。
「森の奥で仕留めた」
「……仕留めた?」
「ああ」
「一人で?」
「ああ」
「それ、一人で倒したのか?」
「そうだ」
思わず男を見る。
「……何者なんだ?」
「冒険者だ」
「いや、そうじゃなくて」
男の眉が少し寄った。
「最後に一発もらった。戻る途中で傷が開いた。それだけだ」
「それだけって状態じゃないだろ」
「倒した」
「お前も倒れてた」
「勝ってる」
「引き分けじゃないか?」
「勝ってる」
そこだけは譲らないらしい。
(妙に頑固だな、この人)
⸻
「近くに火がある。そこで休んだ方がいい」
男が俺を見る。
次に、俺の服を上から下まで見た。
「……妙な格好だな」
「今それ言うか?」
「見たことがない」
そういえば。
スーツにコート。
この世界では相当浮いてるのかもしれない。
「その格好で、この森にいるのか?」
「ああ」
「何をしている」
「人里を探してた」
男の眉が寄る。
「この辺りで?」
「そう」
「どこから来た」
「……色々あって」
「答えになってない」
「説明しづらいんだよ」
また怪訝な顔。
でも。
それ以上は聞かなかった。
「昨日からここにいる」
「昨日?」
「ああ」
「一人で?」
「一人と二匹」
ここちゃんを見る。
胸元のむぎも見る。
男の視線が、むぎへ移った。
「……ネズミか」
「ハムスター」
「そうか」
それで終わった。
そこは普通に受け入れるんだな。
「歩けそうか?」
男は木へ手をついて立とうとした。
顔が歪む。
「……問題ない」
「いや、無理だろ」
「歩ける」
「今、立つだけで痛そうだったけど」
「問題ない」
「……その台詞、信用していいのか分からないな」
しばらく睨まれた。
結局。
俺が肩を貸すことになった。
「……分かった。肩貸すから、無理するなよ」
胸元のむぎを身体の反対側へ移す。
「ちょっとこっちな」
キュ。
これなら、むぎを潰す心配もない。
男の腕を肩へ回す。
「重いな」
「失礼な奴だな」
「身体がでかいんだよ」
かなりゆっくり。
一歩ずつ。
ここちゃんも、すぐそばをついてくる。
焚き火へ戻った。
⸻
男を火のそばへ座らせる。
「腹減ってる?」
「……少し」
「食えるなら食っとけ」
一匹残しておいた魚を思い浮かべる。
手元に出す。
男の眉が、ほんの少し動いた。
魚を見る。
俺を見る。
もう一度、魚を見る。
「……」
「何?」
「いや」
それだけだった。
聞かれなくて助かった。
俺だって、これをどう説明すればいいのか分からない。
魚を串に刺して温め直し、岩塩を少し振る。
「ほら」
男が受け取った。
一口。
「……うまいな」
「塩あると違うだろ」
「ああ」
黙って食べ始める。
その間に。
「そういえば、名前聞いてなかった」
「アクセル」
「アクセル……」
名前。
俺も名乗らないといけない。
(どうするかな……)
雨川翔。
そのまま名乗るのは、なんとなく違う気がした。
雨川。
川。
それは嫌だ。
昨日、そこで死んだばかりだ。
(じゃあ……雨でいいか)
レイン。
それなら名前っぽい。
「俺はレイン」
「レイン」
「ああ」
アクセルは一度頷いた。
それ以上は聞かなかった。
「狼獣人だ。冒険者をしている」
「やっぱ狼なんだ」
「見れば分かるだろ」
「この世界で何が普通か、まだ分からないんだよ」
また怪訝な顔をされた。
「……本当によく分からない奴だな」
「俺もそう思う」
昨日死んで。
異世界に来て。
頭の中には変な管理補助。
ここちゃんは光った。
魚は何もないところから出てくる。
そりゃ。
この人から見ても怪しいと思う。
⸻
魚を食べ終えたアクセルが、串を置いた。
「借りができた」
「別にいいよ」
「俺がよくない」
即答だった。
「傷の手当てと、食事」
視線がここちゃんへ移る。
「それに、あの兎にも助けられた」
「ここちゃん」
「……ここちゃん」
少し言いづらそうに繰り返す。
「借りは返す」
「じゃあ」
こっちも即答する。
「人のいるところまで案内して」
アクセルが止まった。
「……それでいいのか?」
「今それが一番必要」
「本当にこの森で何をしていたんだ」
「だから人探してたんだって」
少しの沈黙。
「分かった」
「明日、動けそうか?」
「動く」
「無理するなよ」
「問題ない」
「……やっぱり、その台詞は信用できないな」
アクセルの耳が、僅かに後ろへ倒れた。
焚き火が揺れる。
今日一日探しても見つからなかった人が。
夜になって。
向こうから倒れてきた。
狼獣人。
冒険者。
名前はアクセル。
ワイバーンとかいう危ないやつを一人で倒し、その帰りに力尽きたらしい。
(この世界、思ってたより危ないな……)
ここちゃんは足元で丸くなる。
むぎも胸元へ戻す。
アクセルは木にもたれ、目を閉じる。
とりあえず。
明日になれば、人のいる場所へ行ける。
それだけで十分だ。
問題は。
その案内役が。
まともに歩ける状態じゃないことだった。




