狼と、白い光
森の夜は、深い。
焚き火の火が小さくなり、闇がじわじわと侵食してくる。
昼間は、なんとか“生活”を形にした。
水を見つけ、塩を掘り、火を起こし、肉を焼いた。
やることがあるうちは、怖さを忘れられる。
だが夜は違う。
静かすぎる。
どこかに何かがいる気がする。
異世界二日目。
家もない。
服も昨日のまま。
俺はまだ、この世界に順応できていない。
ここちゃんが足元にぴたりと寄り添う。
むぎちゃんは胸ポケットで丸くなっている。
その温もりだけが、俺を現実に繋いでいた。
(今日は、守れたよな……?)
そう思った瞬間。
――ドサッ。
重い音。
地面がわずかに震えた。
血の匂いが、風に乗る。
喉がひくりと鳴る。
「……くさえもん、反応は?」
《大型生体反応検知》
心臓が跳ねる。
「魔物か?」
《判定中……人型反応》
足が止まる。
「人……?」
《生命活動低下。単独。追跡反応なし》
単独。
追われていない。
つまり、今は倒れているだけ。
(罠かもしれない)
理性が警告する。
でも。
ここちゃんの耳が、ぴんと立った。
むぎちゃんが胸ポケットから顔を出す。
キュッ。
まるで「行け」と言われたみたいだ。
「……行く」
声が少し震える。
それでも、走った。
⸻
焚き火から少し離れた木の根元。
そこに倒れていた。
黒髪。
銀の耳。
浅黒い肌。
狼のような耳と牙を持つ、人型の男。
獣人――と俺は推測する。
この世界では、それが普通かもしれない。
俺の常識は、もう当てにならない。
全身に裂傷。
血で染まった地面。
荒い呼吸。
だが、目は死んでいない。
俺と目が合う。
敵意。
警戒。
「……くるな」
かすれた声。
正直、怖い。
体格は俺より一回り大きい。
筋肉質。
牙も鋭い。
今は傷だらけでも、本来は強いはずだ。
(逃げろ、と言ってるぞ俺の理性)
でも、足は止まらなかった。
「放っといたら死ぬだろ」
声が震えているのが、自分でも分かる。
怖い。
でも、目の前で死なれる方が嫌だ。
そのとき。
ここちゃんが俺の腕からするりと降りた。
「ここちゃん、待っ——」
止められない。
白い毛玉は、とことこと男の胸元へ。
ぴたり、と寄り添う。
次の瞬間。
淡い光。
やわらかく、温かな白い光。
森の闇が、わずかに後退する。
俺は息を呑む。
男の呼吸が整っていく。
出血が、目に見えて減る。
完全ではない。
だが、明らかに“持ち直している”。
《白色個体、回復波動検知》
くさえもんの声が、ほんの僅かに揺れる。
男がここちゃんを見つめる。
困惑。
理解不能。
そして、かすかな安堵。
「……なぜ」
「知らん。うちの子が勝手にやってる」
俺だって分からない。
でも、ここちゃんは迷わない。
俺よりずっと強い。
「応急処置する」
膝をつく。
血に触れる。
温かい。
生きている証だ。
布で圧迫。
傷を確認。
「骨は折れてない……筋肉の裂傷が深いな」
震えているのに、声は意外と冷静だった。
男はゆっくり息を吐いた。
「……感謝する」
低い声。
「俺の名はアクセル」
一拍。
「狼獣人の、冒険者だ」
やはり狼。
やはり戦う側の人間。
(森で倒れるレベルの冒険者と遭遇って、運悪くないか?)
俺は少し迷う。
本名を出すか。
この世界の常識も知らない。
日本人がいきなり横文字で名乗るのも変だ。
雨川翔。
だが。
“川”は死因に繋がる。
縁起が悪い。
正直、思い出したくもない。
(川は、前世に置いていく)
「……俺は人族だ」
まず種族を言う。
合わせておいたほうがいい。
「肩書きもない。ただの一般人だ」
嘘ではない。
アクセルは俺をじっと見つめる。
「名は?」
少し間が空く。
「レインだ」
雨川の“雨”。
それだけ持ってきた。
アクセルの目が細くなる。
「……嘘だな」
「何がだよ」
「一般人が、俺に近づくか?」
視線がここちゃんへ落ちる。
「一般人が、あの力を持つ兎を従えているか?」
さらに俺を見る。
「一般人が、重傷の狼獣人を前にして処置できるか?」
言い返せない。
俺は肩をすくめる。
「動じてないわけじゃない。普通に怖い」
本音だ。
「ただ……放っとく方が後味悪い」
アクセルは、わずかに口元を上げた。
「それを一般人とは言わん」
焚き火の前まで運ぶ。
重い。
筋肉の塊だ。
肉を焼く。
岩塩を振る。
「食えるか」
アクセルは受け取り、かじる。
咀嚼。
目が、僅かに見開く。
「……塩」
「文明の味だ」
「森で、か」
「生活力は高い」
強がりだ。
実際は必死。
アクセルは、ここちゃんを見つめる。
「……主」
「違う」
即答。
「主じゃない」
「命を救われた」
「それはここちゃんだ」
「だが、その兎はお前の隣にいる」
しばらく沈黙。
やがてアクセルが言う。
「……借りは、必ず返す」
その目は真剣だった。
誓いの目。
異世界二日目。
ようやく一息つけると思った矢先に、
狼獣人が増えた。
俺は焚き火を見つめる。
火が揺れる。
ここちゃんは眠る。
むぎちゃんは胸元で小さく動いた。
(平穏、どこ行った……)
森は答えない。
だがこの出会いが、
俺の異世界生活を一段階引き上げることになる。
まだ、俺は知らない。
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