船の上の二日目
船室へ戻る。
俺の腕の中では、ここちゃんが少し眠そうに目を細めていた。
向かいの部屋へ入る前、テラは胸元にいるむぎへ手を添える。
「こっちも休ませるか」
キュ。
「じゃあ、またあとでな」
俺たちはそれぞれの部屋へ戻った。
ここちゃんを床へ下ろすと、まっすぐ敷物へ向かう。
前足を伸ばして伏せると、そのまま動かなくなった。
「やっぱり疲れたか」
「港にいた時ほどではなさそうだ」
ノアが隣へ腰を下ろす。
ここちゃんの額へ手を置くと、逃げるどころか少しだけ頭を押しつけた。
「撫でるのか?」
「ああ」
「寝かせるんじゃなかったのか」
「これでも休めるだろう」
確かに。
ここちゃんはもう目を閉じている。
「好きにしてくれ」
俺も寝台へ腰を下ろした。
航海は始まったばかりだ。
この先、四日ほどは海の上。
今日はもう、無理に何かする必要もない。
⸻
その日の残りは、特に何事もなく過ぎた。
夕方には船から食事が出た。
食後はここちゃんとむぎへ水と餌を与え、少し話したあと、それぞれの船室へ戻る。
昼間は好きな場所へ行かせていたむぎも、夜は俺たちの部屋へ連れてきた。
テラの肩から掌へ移し、受け取る。
「むぎ、寝るぞ」
キュ。
俺の腕を少し登ったあと、床へ下ろす。
ここちゃんはすでに敷物の上で伏せていた。
むぎは部屋の中を少し歩き、最後にはその近くで体を丸める。
「夜はこっちなんだな」
ノアが二匹を見る。
「昼は好きにさせてても、寝る時くらいは一緒にいたい」
「ああ。その方がレインも安心するだろう」
「俺だけみたいに言うな」
ノアは小さく笑った。
最初の夜だから眠れないかと思ったが、揺れは一定だった。
目を閉じているうちに、いつの間にか眠っていた。
⸻
翌朝。
目を覚ますと、船室の中はすでに明るかった。
丸い窓の向こうに見えるのは、空と海だけ。
陸地はどこにもない。
「朝か」
「ああ」
ノアはもう起きていた。
寝台の脇では、ここちゃんが牧草を食べている。
「もう餌やったのか?」
「少しだけな。起きたら食べたそうにしていた」
「ありがと」
俺も起き上がり、水を用意する。
船は昨日と同じように揺れているが、水を飲ませている間くらいなら手で支えていれば問題ない。
ここちゃんが飲み終わったところで皿を片づける。
むぎも布の中から顔を出した。
キュ。
「お前も起きたか」
掌へ乗せると、まだ少し眠そうに鼻を動かしている。
水を少し飲ませ、朝の餌を置く。
木の実を一つ持つと、すぐに頬へ入れた。
「向こうも起きてるかな」
そう言った直後、扉を叩く音がした。
「起きてるか?」
テラだ。
「今開ける」
扉を開ける。
テラとカインが立っていた。
「むぎは?」
「ここ」
俺が床を見る。
むぎは木の実を頬へ入れたまま、こちらを見上げている。
テラが手を差し出す。
「朝から来るか?」
むぎは少し鼻を動かしたあと、迷わずその掌へ乗った。
腕を登り、肩へ収まる。
「やっぱりそこか」
俺が言う。
「夜は戻るのに、朝になると来るんだな」
テラが肩へ視線を向ける。
キュ。
「完全に気に入ってるじゃん」
「落ちなければ構わん」
「アクセルは?」
「まだ寝てます」
カインが少しだけ笑う。
「朝食の時間になれば起きるでしょう」
「飯なら起きそうだな」
「昨日から、それしか言ってないぞ」
テラが呆れたように言った。
むぎが肩の上で向きを変える。
そのままテラの首の後ろへ回ろうとして、片手で止められた。
「そっちは行くな」
キュ。
「返事はいいんだよな」
「聞いているかは別だ」
テラがむぎを掌へ移す。
「少し動きたいなら、こっちで遊ばせるか」
「入っていいぞ」
テラとカインが部屋へ入る。
むぎは床へ下ろされると、すぐ壁際へ向かった。
ここちゃんも牧草から顔を上げる。
二匹とも昨日より、この部屋にいることを気にしていない。
「船にも慣れてきたな」
俺が言う。
「ああ。昨日一日過ごして、危険がないと分かったのかもしれない」
ノアがここちゃんの頭を撫でる。
むぎは壁際を一周したあと、今度はカインの足元へ向かった。
「こちらへ来るのですか?」
カインが手を差し出す。
むぎは迷わず掌へ乗った。
そのまま腕を登る。
「お」
肩まで行くかと思ったが、止まらない。
カインの髪へ前足をかけ、そのまま頭の上まで登った。
「むぎ?」
カインが動きを止める。
頭の上で向きを変えたむぎが、ちょうど真ん中へ収まった。
キュ。
「今日はそこか」
テラが笑う。
「さっきまで俺の肩だっただろ」
「気分なのでしょうか」
カインは頭を動かさないまま答える。
「嫌なら下ろすぞ」
「いえ。落ちなければ、このままで構いません」
「髪引っ張られても知らんぞ」
「その時はお願いします」
随分と慣れたものだ。
むぎも。
カインも。
⸻
朝食を済ませたあと、俺たちはそれぞれ船室で過ごすことにした。
アクセルは食べ終わるなり、また寝台へ横になった。
「また寝るのか?」
「することがない」
「甲板に出られる時間になったら起こすぞ」
「ああ」
目を閉じる。
本当に寝るらしい。
テラは自分の部屋から本を持ってきた。
「読むのか?」
「ああ。昨日は試さなかったからな」
寝台へ腰を下ろし、頁を開く。
むぎは今度はカインの頭から下り、床を走っていた。
しばらくして、テラの足元へ行く。
差し出された手を登り、そのまま腹の上へ移った。
「またそこか」
俺が言う。
「重くないからな」
テラは本から目を離さない。
むぎが胸元まで走っても、腕へ乗っても、そのまま頁をめくっている。
「読めるのか?」
「ああ」
数頁進んだところで、テラの手が止まった。
「……いや」
「どうした?」
「少し気分が悪くなりそうだ」
すぐに本を閉じる。
「酔った?」
「まだそこまではいってない。文字を追うのはやめた方がよさそうだな」
「無理しない方がいいですね」
カインが言う。
「ああ。暇なら外を見ることにする」
テラが本を脇へ置く。
自分で早めにやめられるなら問題ないだろう。
ノアはここちゃんの隣へ座り、丸い窓の外を見ていた。
「ずっと海だな」
「そりゃ船だからな」
「分かっている」
「退屈か?」
「いや」
ノアは少し考える。
「昨日聞いた魔導列車のことを考えていた」
「まだ見てもないのに?」
「だからだ。どういう物なのか想像している」
「答え合わせはグランザに着いてからだな」
「ああ。それでいい」
どうやら退屈はしていないらしい。
⸻
昼を過ぎてから、船員へ確認して甲板へ出た。
ここちゃんは俺が抱く。
むぎはさっきまでテラの上で遊んでいたが、甲板へ出る前にテラが胸元へ入れた。
顔だけを外へ出している。
「今日は昨日より風が弱いな」
甲板へ出ると、テラが海を見た。
「ああ。これなら二匹も平気そうだ」
ここちゃんの耳も、普段通り立っている。
鼻を動かし、海の匂いを確かめていた。
俺たちは船縁から離れた場所に腰を落ち着ける。
近くには、昨日話した商人もいた。
「今日は元気そうだな」
男がここちゃんと、テラの胸元にいるむぎを見る。
「ああ。船にも慣れてきたみたいだ」
「そりゃいい。まだ先はあるからな」
商人が海の向こうを見る。
「そういや、向こうへ近づく前に一つだけ覚えといた方がいいことがある」
「何だ?」
テラが聞く。
「シーサーペントだ」
アクセルが顔を向けた。
「魔物か?」
「ああ。海にいる長い蛇みたいな奴だ。単体なら、そう珍しくもない」
「強いのか?」
「冒険者の基準ならBランクだったはずだ」
男は肩をすくめる。
「ただし、たまに群れで来る。船を囲まれると面倒だ」
「この船にも出ることがあるのか?」
「何度もこの航路を通ってるが、見なかった時の方が多い。それでも、出る時は出る」
アクセルの顔が少しだけ明るくなる。
「出たら倒せばいい」
「待て」
テラがすぐに止める。
「船員の指示を聞け」
「分かってる」
「今までの返事で一番信用できないな」
「分かってるって」
商人が笑う。
「まあ、護衛も乗ってる。乗客の冒険者へ声がかかるのは、数が多い時くらいだ」
「出ないのが一番ですね」
カインが穏やかに言う。
「そういうことだ」
「出ても倒す」
アクセルが言う。
「お前は黙って海見てろ」
「見てる」
言いながら、海の先へ目を向けた。
本当に出てこないか探してそうだな。
「ドワーフ大陸に近い方が多いのか?」
俺が尋ねる。
「その辺りで見ることが多いとは聞く。ただ、魔物だからな。必ずどこにいるってもんでもない」
「じゃあ、覚えておくくらいでいいか」
「ああ。船員が慌ただしくなったら、勝手に動かず指示を待て。それだけで十分だ」
「分かった」
昨日は魔導列車。
今日は海の魔物。
同じ船に何度もこの航路を通っている商人がいるのは、思っていたよりありがたい。
⸻
しばらく甲板で過ごし、二匹が疲れる前に船室へ戻った。
夕方まで、それぞれ好きに時間を潰す。
テラは本を諦め、カインと話している。
アクセルは寝台へ横になり、今度は眠らず天井を見ていた。
ノアはここちゃんを撫でる。
むぎは床を走り回ったあと、テラの足元へ戻っていった。
代わり映えのしない海の上。
それでも、思っていたほど退屈ではない。
夕食を済ませ、その日は早めに休むことにした。
「むぎ、寝るぞ」
テラの肩にいたむぎへ手を伸ばす。
キュ。
掌へ乗せると、むぎはそのまま俺の腕を登った。
「夜はレインのところなんだな」
テラが言う。
「まあな。何かあった時、別の部屋にいる方が気になる」
「お前らしいな」
「悪いかよ」
「何も言ってないだろ」
むぎを連れて部屋へ戻る。
ここちゃんは敷物の上へ伏せ、むぎはその近くの布へ体を丸めた。
ノアも向かいの寝台へ横になる。
「今日は静かだったな」
「ああ。このままグランザまで行ければいいけど」
「そうだな」
灯りを落とす。
船の揺れに体を任せ、目を閉じた。
⸻
夜中。
大きく船が揺れた。
「……っ」
目が覚める。
昼間までとは明らかに違う。
船体が持ち上がり、少し遅れて沈む。
壁の向こうから、波が強くぶつかる音がした。
「波か?」
向かいの寝台で、ノアも体を起こす。
「ああ。結構高そうだな」
丸い窓の外は暗く、何も見えない。
床を見る。
ここちゃんは敷物の上で耳を立て、体を起こしていた。
むぎも布から出てきている。
もう一度、大きく船が揺れた。
むぎが足を踏ん張る。
「危ないな」
寝台から下り、まずここちゃんを抱き上げる。
きゅる。
暴れてはいない。
だが、昼間より体に力が入っている。
「今日はこっちで寝るか」
自分の寝台へ乗せる。
続いてむぎへ手を差し出した。
「お前も来い」
キュ。
掌へ乗せ、そのまま寝台へ上げる。
むぎは少しだけ周囲を見たあと、ここちゃんの横へ寄った。
ここちゃんが耳を一度動かす。
嫌がる様子はない。
二匹とも壁側へ寄せる。
俺も横になり、外側から腕で囲うようにする。
「落ちないようにしてるのか?」
ノアが向かいから尋ねる。
「ああ。この揺れで寝台から落ちたら嫌だからな」
「そうだな」
もう一度、船が持ち上がる。
二匹の体へ手を添える。
むぎはここちゃんの横で小さく丸まり、ここちゃんもそのまま伏せていた。
「これなら大丈夫だろ」
頭を撫でる。
きゅる。
キュ。
「眠れそうか?」
ノアが尋ねる。
「俺は無理かもな」
「二匹が動くたびに起きそうだからか?」
「それもある」
大きく揺れるたび、ここちゃんとむぎを支える。
波が少し弱くなれば目を閉じる。
また大きく揺れれば、二匹へ手を添える。
何度繰り返したか分からない。
まともに眠れないまま、時間だけが過ぎていく。
やがて、丸い窓の向こうが僅かに明るくなり始めた。
二日目の夜が終わる。
三日目の朝が、近づいていた。




