大陸の足
船が港を離れてしばらく経った。
丸い窓から見えていたポロムの街は、もうかなり小さくなっている。
俺の腕の中では、ここちゃんが窓の向こうへ鼻を向けたまま耳を動かしていた。
「そろそろ下りるか?」
声をかける。
きゅる。
「どっちだ、それ」
床へ下ろすと、ここちゃんは敷物の上まで歩き、そのまま前足を伸ばして伏せた。
「酔ってはいなさそうだな」
ノアが様子を見る。
「ああ。普通に歩いてたしな」
「ならよかった」
俺たちの方も、今のところ問題はない。
揺れはあるが、立っていられないほどではなかった。
「そういえば、朝飯まだだったな」
「宿でもらった物か」
「ああ」
向かいの部屋へ声をかけようとしたところで、扉が叩かれた。
「朝飯、まだだろ?」
テラの声だ。
「今行こうと思ってた」
鍵を開ける。
廊下にはテラとカイン、その後ろにアクセルがいる。
むぎはテラの肩に乗っていた。
「むぎ、またそこか」
「部屋を一周したあと、自分で登ってきた」
テラが肩へ目を向ける。
どうやら向こうの船室も一通り確認し終えたらしい。
むぎは何事もなかったように、こちらを見ている。
「完全に気に入ってるな」
「落ちなければいい」
そう言いながら、テラの片手はむぎの近くへ添えられていた。
「朝食にしませんか?」
カインが言う。
「まだ甲板へは出ない方がよさそうですし、先に済ませてしまいましょう」
「賛成」
アクセルがすぐに答える。
「お前はそれしかないな」
「朝飯は大事だ」
否定はしない。
俺たちは向かいの部屋へ移ることにした。
ここちゃんを見る。
敷物の上で伏せたまま、動く様子がない。
「ここちゃん。向かい行くか?」
一度だけ顔を上げ、俺を見る。
少し鼻を動かしたあと、また前足へ顎を乗せた。
「……行かないらしい」
「昨日と同じだな」
ノアが小さく笑う。
「すぐ向かいだし、このまま休ませておくか」
「ああ」
水と牧草を確認する。
「ここで待っててくれ」
きゅる。
今度こそ返事だと思うことにして、扉を閉めた。
⸻
宿でもらった包みを開く。
中には硬めのパンと焼いた肉、ゆで卵。それから、小さく切った果物も入っていた。
「肉がある」
アクセルが言う。
「朝からそれ言うの何回目だよ」
「今日は初めてだ」
「そこは覚えてるのかよ」
俺たちは空いている寝台と小さな机を使い、朝食を食べ始めた。
船は一定の間隔でゆっくり揺れている。
「食いながら揺れると変な感じだな」
パンをちぎる。
「まだそれほど強い揺れではありませんね」
カインが丸い窓へ目を向ける。
「この先、風や波が変わればもう少し揺れるかもしれませんが」
「酔ったら寝る」
アクセルが肉を食べる。
「お前は何でもそれで済ませそうだな」
テラが呆れたように言った。
肩のむぎが、包みの方へ鼻を向ける。
「お前は駄目だぞ」
テラが先に言う。
キュ。
「返事だけはいいな」
「欲しいだけじゃないか?」
「たぶんな」
朝食を食べ終える頃には、甲板から聞こえていた慌ただしい足音も少なくなっていた。
「そろそろ外へ出てもよさそうだな」
テラが言う。
「船員に聞いてからにしよう」
「ああ」
俺とノアは一度、向かいの部屋へ戻る。
ここちゃんは、ほとんど同じ場所にいた。
「ここちゃん。外見るか?」
今度は耳を立て、頭も上がる。
「行くか?」
きゅる。
「今度は行くらしい」
抱き上げる。
ここちゃんは俺の腕の中へ収まり、扉の方へ鼻を向けた。
ノアが鍵をかける。
「甲板では下ろさないんだったな」
「ああ。ずっと抱いてる」
向かいの部屋から、テラたちも出てくる。
テラは肩にいたむぎへ手を伸ばした。
「甲板では、こっちだな」
掌へ移したむぎを上着の胸元へ入れる。
顔だけが外へ出た。
キュ。
「それなら落ちないな」
俺が言うと、テラが胸元を軽く押さえる。
「ああ。海へ落ちたら探すどころじゃないからな」
「俺は落ちないぞ」
なぜかアクセルが言う。
「お前の話はしてない」
⸻
近くにいた船員へ確認してから、甲板へ上がる。
荷の積み込みは終わっていた。
帆には風が入り、船はポロム港から離れて西へ進んでいる。
見渡す限りの海。
後ろを振り返れば、中央大陸の海岸線が遠くに残っていた。
「広いな」
アクセルが柵の近くまで行く。
「身を乗り出すなよ」
「乗り出してない」
「今からやりそうだった」
テラも柵から少し離れた場所へ立つ。
胸元から顔を出したむぎが、鼻を忙しく動かしていた。
ここちゃんも俺の腕の中で耳を立てている。
「風、平気か?」
頭を撫でる。
きゅる。
嫌がっている様子はない。
「少しの間なら、外に出ても大丈夫そうだな」
ノアが言う。
「ああ。戻りたそうなら、すぐ部屋へ戻す」
「それがいい」
その時。
「白兎の庭だったか?」
後ろから声をかけられた。
振り返る。
日に焼けた顔の男が立っていた。
年はテラより少し上くらいだろうか。使い込まれた革袋を肩から下げ、上着の胸元にはいくつかの商会印が縫いつけられている。
「そうだけど」
「乗る時に名前が聞こえた。冒険者だろ?」
「ああ」
「グランザまでか?」
「その予定だ」
男が頷く。
「俺も同じだ。向こうへ仕入れに行く」
「何度も行ってるのか?」
「数えるのはやめたな」
それを聞いて、テラが男へ顔を向けた。
「なら、少し聞いてもいいか?」
「何だ?」
「グランザ港から先の移動手段だ。俺たちは向こうへ行くのが初めてなんだ」
「行き先は?」
「まだ決まってない」
俺が答える。
「古い地図にある印について調べてる。まずはグランザのギルドで情報を集めるつもりだ」
「なるほど。目的地が決まってないなら、先に移動手段だけ知りたいってことか」
「ああ」
男は少し考え、海を背に柵へ寄りかかった。
「大きな都市へ行くなら、魔導列車だな」
「魔導列車?」
聞き返す。
「ああ。線路の上を走る大きな魔導具だ。いくつもの車両をつないで、人も荷物もまとめて運ぶ」
ノアの視線が男へ向く。
「魔石で動くのか?」
「そう聞いてる。俺は乗るだけだから、詳しい仕組みまでは知らん」
「グランザ港にもあるのか?」
「ああ。港の近くに駅がある。そこから内陸の大きな都市へ繋がってる」
「馬車より速い?」
アクセルが尋ねる。
「ずっと速い。鉱石や金属を大量に運ぶためにも使われてるからな」
「中央大陸じゃ見ないな」
俺が言う。
「向こうじゃ珍しくもないらしいぞ」
中央大陸では見たこともない乗り物が、ドワーフ大陸では普通に使われている。
「どこへでも行けるのか?」
アクセルが尋ねる。
「いや。線路がある場所だけだ」
男は指で甲板の上へ道を描く。
「大きな都市や鉱山の近くには通ってる。だが、小さな町や山の奥まで線路があるわけじゃない」
「そこからは馬車か?」
テラが聞く。
「馬車か徒歩だな。道が悪ければ、馬車も使えん」
「なら歩けばいい」
アクセルが即答する。
「お前はそれで済むからいいな」
テラが男へ視線を戻す。
「列車を降りた先で、馬車を借りられる場所もあるのか?」
「大きな駅ならな。小さい町へ行くほど少なくなる。結局は目的地次第だ」
「まずはグランザで調べるしかないか」
「ああ。ギルドで聞けば、必要な路線も教えてくれるだろ。駅へ行けば路線図も見られる」
ノアが少し考える。
「実物を見てみたいな」
「列車を?」
「ああ。中央大陸にはない技術だからな」
「俺もちょっと見たい」
「乗ることになれば嫌でも見られる」
テラが言う。
「それもそうだな」
⸻
「向こうは、魔導具が多いのか?」
俺が尋ねる。
「多いぞ」
商人は即答した。
「採掘に使う物、重い荷を運ぶ物、工房で使う物。生活用の小さな物も中央大陸より種類が多い」
「買って帰れるのか?」
アクセルが聞く。
「普通の物ならな。ただ、何でも持ち出せるわけじゃない」
「何か制限があるのか?」
カインが尋ねる。
「ああ。大陸の外へ出すのに許可がいる物もある。珍しい物や危険な物は、買う前に確認した方がいい」
「店で分かる?」
「まともな店なら説明してくれる。分からなきゃギルドで聞け」
「その方が確実ですね」
カインが頷く。
ドランにも、工房へ勝手に入るな、道具へ触るなと言われている。
技術を大事にする土地なら、外へ出す物にも決まりがあるのだろう。
「そういや、変わった研究をしてるって話も聞くな」
男が思い出したように言った。
「研究?」
「空を飛ぶ船だ」
「船が?」
俺が聞き返す。
「ああ。飛空艇とかいうらしい」
ノアが僅かに目を細める。
「実際に飛んでいるのか?」
「知らん」
男はあっさり答えた。
「そんな研究をしてるって噂を聞いただけだ。俺は見たことない」
「なら、今は噂だけか」
「ああ。向こうへ行けば詳しい奴もいるかもしれん」
ノアは少し考えたあと、頷いた。
「今はそれでいい」
「興味ないのか?」
「ある。だが、まだ本当に飛ぶのかも分からないだろう」
「それもそうだな」
今は観光に行くわけではない。
古い地図に残された印が何を示しているのか。
まずは、それを調べるのが先だ。
「ほかに気をつけることはあるか?」
テラが尋ねる。
「勝手に工房へ入らない。店の物を勝手に触らない。鉱山にも入らない」
「全部ドランに言われたな」
「なら大丈夫だ」
男が笑う。
「特に道具は触る前に聞けよ。調整途中の物もあるからな。壊したら高いぞ」
全員の視線がアクセルへ向いた。
「何だ」
「触るなよ」
俺が言う。
「まだ何もしてない」
「する前に言ってる」
「必要なら持つ」
「必要かどうかは店の奴に聞け」
テラが続ける。
アクセルは少し考えたあと、頷いた。
「聞けばいいんだな」
「ああ。それでいい」
「食べ物は?」
アクセルが尋ねた。
商人が笑う。
「肉も魚もある。都市部なら中央大陸の物も入ってくる」
「なら問題ない」
「結局そこかよ」
「大事だ」
男が笑いながら首を振る。
「まあ、四日も同じ船だ。何か聞きたいことがあれば声をかけろ」
「助かる」
「その代わり、面白い物を見つけたら俺にも教えてくれ」
「商人だな」
「商人だからな」
男は片手を上げ、船室へ続く階段の方へ歩いていった。
⸻
「魔導列車か」
男を見送りながら呟く。
「馬車より速いなら、目的地によってはかなり助かるな」
「線路の近くならな」
テラが言う。
「山の奥なら、結局歩きだ」
「その時は歩けばいい」
アクセルが答える。
「それ、さっきも言ったな」
「変わらない」
「お前はな」
ノアは海を見ながら、何か考えている。
「列車が気になるのか?」
「ああ。中央大陸にはない技術だからな」
「飛空艇も?」
「それも気にはなる。ただ、今は噂だけだ」
ノアは俺の腕にいるここちゃんへ目を向けた。
「まずはグランザ港へ着いてからだ」
「ああ」
港から大きな都市へは魔導列車。
線路のない町や山へは馬車か徒歩。
それだけ分かっただけでも、向こうへ着いてからの動きは考えやすくなる。
腕の中で、ここちゃんが小さく体勢を変えた。
「疲れたか?」
きゅる。
「そろそろ戻るか」
「ああ。風にも当たったからな」
テラが胸元を見る。
むぎも顔だけを出したまま、少し目を細めていた。
「こっちも休ませた方がよさそうだ」
「じゃあ部屋へ戻ろう」
海そのものは初めてではない。
けれど、向かう先も、そこで使われている技術も、今までとは違う。
まだ姿さえ見えていないドワーフ大陸。
船旅は始まったばかりだ。
俺たちは二匹を休ませるため、船室へ戻ることにした。




