静かな部屋
宿へ戻る頃には、窓から差し込む光が少しずつ赤くなっていた。
三階まで上がり、俺とノアは二人部屋の扉を開ける。
向かいでは、テラが三人部屋の鍵を取り出していた。
「荷物を整理したら、下へ行くか」
「ああ。夕食の時間も確認しておこう」
俺が答えると、アクセルが腹へ手を当てた。
「俺はもう食える」
「お前はいつでも食えるだろ」
テラが呆れたように言い、部屋へ入っていく。
カインもその後に続き、最後にアクセルが扉を閉めた。
俺たちも部屋へ入り、鍵をかける。
まず、ここちゃんを床へ下ろした。
市場と港を歩いている間、ずっと俺の腕の中にいた。自分で歩いてはいないが、知らない音や匂いに囲まれていた分、疲れているかもしれない。
ここちゃんは床へ降りると、部屋の中をゆっくり一周した。
寝台の下を覗き、壁際を通り、扉の前で鼻を動かす。
昼に来た時にも確認していたが、もう一度安全な場所か確かめているらしい。
「さっきと同じ部屋だぞ」
俺が声をかけると、ここちゃんは耳だけをこちらへ向けた。
「念のため確認してるんだろう」
ノアが窓を閉めながら言う。
「ここちゃんは慎重だからな」
「ああ」
一周を終えたここちゃんが、俺の足元へ戻ってくる。
そのまま伏せるかと思ったが、床へ置いた荷物へ近づき、鼻先を寄せた。
「先に片づけるか」
市場で買った物は、まだアクセルの魔法袋に入っている。
向かいの部屋へ声をかけると、アクセルが袋ごと持ってきた。
「これで全部だぞ」
「助かる」
中から、果物や保存食、塩漬けの肉、干した魚、硬めに焼かれたパン、小分けにされた香辛料を順番に取り出す。
「果物はこっちに置いてくれ」
ノアが黄色い果物の入った袋を引き寄せた。
「収納へ入れる前に、傷がないか確認する」
「入れた後は傷まないだろ」
「入れる前から傷んでいたら意味がない」
「それもそうか」
ノアは袋を開き、果物を一つずつ確認していく。
表面を見て、指先で軽く触れ、傷や柔らかくなった部分がないか確かめる。
果物だから丁寧なのかと思ったが、調査道具や食料もノアは一度自分で確認する。
「問題は?」
「ない。どれも使えそうだ」
「何に使うかは決まったのか?」
「まだだ。味を見てから考える」
「やっぱり作る気なんだな」
「買ったのに使わない方が不自然だろ」
ノアは落ち着いた顔で袋を戻した。
「じゃあ、しまうぞ」
「ああ。黄色い果物もまとめておいてくれ」
扉も窓も閉まっている。人に見られる心配がないことを確認してから、市場で買った品を無限収納へ入れていく。
《食料を収納》
(種類ごとに分けてくれ)
《分類を開始》
(果物は潰さないようにな)
《収納内での破損は発生しません》
(分かってる。なんとなくだ)
《不要な指示と判断》
(言わなくていいだろ)
市場で使った袋だけを残し、中身を順番に収納する。
最後に保存食も移し、アクセルへ空になった魔法袋を返した。
「これで全部だな」
「黄色い果物も入れたか?」
「入れた」
「ならいい」
ノアは荷物から離れ、寝台へ腰を下ろした。
⸻
胸ポケットへ手を入れる。
「むぎ」
指先で中にいるむぎへ軽く触れると、小さな体が動いた。
しばらくして、顔だけが外へ出てくる。
目は少し細く、いつものような勢いもない。
「眠そうだな」
ノアがむぎを覗き込む。
「ああ。港ではずっと騒がしかったからな」
両手で包み、床へ下ろす。
部屋の中を走り回るかと思ったが、今日はそうしなかった。
ここちゃんの横へ近づき、少しだけ匂いを嗅ぐ。その後は俺の足元で動きを止めた。
「水を出すか」
収納から二匹用の水入れを取り出す。
旅の途中でも使っていた物だ。
倒されにくい場所へ置いて水を入れると、ここちゃんが先に近づき、鼻先を水面へ下ろした。
むぎも反対側から顔を近づける。
二匹が並んで水を飲んでいる。
「かなり喉が渇いてたみたいだな」
「外では落ち着いて飲めなかったんだろう」
ノアは寝台へ座ったまま、二匹を見ている。
「人も音も多かったからな」
水を飲み終えると、今度は食事を出す。
ここちゃんには牧草といつもの餌。
むぎには持ってきた餌と、小さく切った野菜。
ここちゃんは牧草へ顔を入れ、何本か続けて食べ始めた。
むぎも野菜を両手で持ち、少しずつ齧っている。
「食欲はあるな」
「ああ。具合が悪いわけではなさそうだ」
俺はここちゃんの背中へ手を置き、毛の流れに沿ってゆっくり撫でる。
「疲れただけならいいけど」
「今日は色々あったからな」
ノアは、むぎが野菜を食べる様子へ目を向けた。
「馬車を降りてからも、ずっと知らない場所だった。ここちゃんも周りを警戒していたし、むぎも音を聞き続けていた」
「俺たちより小さい分、疲れるのも早いか」
「そうかもしれない」
今日は馬車でポロム港へ着いてから、馬車を返し、ギルドで船の手続きをして、食事の後は市場と港まで歩いた。
俺たちでも、それなりに疲れている。
二匹なら、もっと疲れていてもおかしくない。
むぎが野菜を食べ終える。
頬へ詰め込むこともなく、そのまま俺の近くへ歩いてきた。
ここちゃんも牧草をしばらく食べたあと、寝台の脇へ移動する。
前足を伸ばして床へ体を伏せると、耳は立っているのに、目が少しずつ細くなっていった。
「もう寝るのか?」
むぎも俺が床へ置いた布の上へ乗り、体を丸くする。
「二匹とも眠そうだな」
ノアが声を落とした。
「ああ」
食堂へ連れていけば、また人の声や食器の音を聞くことになる。
ここまで疲れているなら、静かな部屋で休ませた方がよさそうだ。
俺はここちゃんの前へ屈む。
「ここちゃん」
頭を撫でる。
「俺たち、飯食いに行くけど。行くか?」
ここちゃんが一度だけ目を開けた。
俺の顔を見る。
そのまま、ふい、と顔を逸らした。
そして。
また目を閉じる。
「……行かないってことか」
「そう見えるな」
ノアが小さく笑った。
「じゃあ、ここで待っててくれ。すぐ戻るからな」
耳の付け根を撫でると、ここちゃんは少しだけ頭を床へ押しつけた。
むぎを見る。
布の上で丸くなったまま、もうほとんど動いていない。
「むぎは、聞くまでもなさそうだな」
「ああ。起こさない方がいい」
水と餌をもう一度確認する。
倒れそうな物も、齧られそうな物もない。窓は閉まり、危険な隙間も見当たらない。
灯りは弱くつけたままにしておくことにした。
「行くか」
「ああ」
なるべく音を立てずに立ち上がる。
扉を開け、廊下へ出る。
閉める直前、もう一度だけ部屋の中を見た。
ここちゃんは寝台の脇。
むぎは布の上。
二匹とも動く様子はない。
扉を静かに閉め、鍵をかける。
取っ手を引き、開かないことを確かめた。
「心配か?」
ノアが俺を見る。
「少しな」
「すぐ戻ればいい」
「ああ」
二匹を起こさないように。
俺たちは静かに、階段の方へ歩き出した。




