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海の匂い


 朝。


 目を覚ますと、最初に見えたのは薄い布の天井だった。


「……そうか」


 テントで寝たんだった。


 いつもの寝台でもなく、外でもない。少しだけ不思議な感じがする。


 隣ではノアがまだ眠っている。


 ここちゃんは俺の脇へ体を寄せて丸くなっていた。


 むぎの姿は見えない。


「むぎ?」


 体を起こすと、毛布の端に少し膨らんでいる場所があった。


 指で軽く触れる。


 中で何かが動いた。


「そこか」


 毛布をめくると、むぎが自分で作った小さな隙間に収まり、目を閉じていた。


 起こす必要はない。


 そのまま毛布を戻し、外へ出る。


 朝の空気は少し冷たい。


 川の音。


 馬が草を食む音。


 警報は鳴らなかった。


 結界も問題なく残っている。


「早いな」


 声の方を見ると、テラがもう馬の様子を確認していた。


「そっちもな」


「騎士団にいた頃の癖だ。起きたらまず馬を見る」


「自分より先に?」


「馬が動けなければ、こっちも動けないからな」


 少し離れた場所では、カインが昨夜のお香を片づけている。煙はもう出ていない。


「何か来た形跡は?」


「ありません。足跡も増えていませんし、お香も最後まで燃えています」


 カインは結界具にも目を向けた。


「警報も鳴りませんでした。初めてにしては、うまくいったと思います」


「それは良かった」


 毎晩誰か一人が起きている必要がない。


 思っていた以上に体が楽だった。


 馬車に乗っていただけとはいえ、旅の途中で全員が朝まで眠れるのは大きい。


「アクセルは?」


「まだ寝てる」


 テラが隣のテントを見る。


「カインが起きても、一度も動かなかった」


「警報が鳴っても起きるのか?」


「昨日の音なら起きるだろ」


「それでも寝てたら?」


「テントごと揺らす」


 それなら起きる。


 たぶん。


⸻


 朝食を用意していると、アクセルがようやくテントから出てきた。


「腹減った」


「おはようより先にそれか」


「起きたから腹が減った」


「寝る前も食べてただろ」


「寝たから減った」


 理屈としては間違っていない。


 少し遅れてノアも出てくる。


 片手には、まだ眠そうなむぎ。


 ここちゃんは俺の足元で草を食べていた。


 朝食はパンと卵、それから昨日の残りの肉と果物。


 携帯用の炉へ平たい鉄板を置き、卵を焼いて肉を温める。


「焚き火より早いな」


 ノアが炉を見る。


「薪を集めなくていいからな」


「燃料がある間は、これを使うのか?」


「ああ。なくなったら焚き火だな」


 カインが炉へ目を向けた。


「ドワーフ大陸でも、似たような燃料は手に入ると思います」


「この炉、ドワーフ製なのか?」


「いえ。これは中央大陸の物でしょう。ただ、携帯用の炉自体は珍しい物ではありません」


 少し考え、カインが続ける。


「向こうには、もっと使いやすい物があるかもしれませんね」


「買うのか?」


 テラが俺を見る。


「まだ何も見てないだろ」


「魔導具を見るたびに増やしていたら、収納の中が店になるぞ」


「無限だから入る」


 アクセルが言う。


「入るかどうかの話じゃない」


「使うならいいだろ」


「お前は何でも使うって言いそうだから駄目だ」


「使う」


「ほらな」


 朝食を終える。


 魔石を外すと、結界の光が消えた。


 昨日一晩使った魔石は、少しだけ光が弱くなっている。


「まだ使えそうか?」


 ノアが覗き込む。


 テラが手に取り、光に透かした。


「攻撃も受けてないし、あと数日は持ちそうだな」


「なら、今夜もこれを使えばいい」


「ああ」


 テントを片づける。


 昨日より全員慣れていて、棒を外し、布を畳み、杭をまとめる動きも早い。


「そこ、逆だ」


 ノアがアクセルの手元を見る。


「まだ何もしてないぞ」


「今から逆に畳もうとしてただろ」


「分かるのか?」


「昨日と同じ手の向きだ」


「怖いな」


「覚えればいいだけだ」


 結局、ノアが少し手を貸した。


 このままなら、ドワーフ大陸へ着く頃にはアクセルも一人で畳めるようになるかもしれない。


 たぶん。


⸻


 馬車を街道へ戻す。


 午前はテラが御者。


 昨日と同じように、王都へ向かう道を南下する。


 空は晴れ、道も乾いていた。


「分かれ道は昼頃か?」


 荷台から尋ねる。


「地図ではな。この速度なら昼前には着くと思う」


「標識を見落とすなよ」


 アクセルが言う。


「お前にだけは言われたくない」


「俺なら見つける」


「御者台に座ってから言え」


「座らなくても見える」


 アクセルが荷台の後ろから顔を出す。


「前は見えないな」


「確認してから言えよ」


 景色は少しずつ変わっていた。


 サイファ周辺に多かった背の高い木々が減り、広い草原が増えていく。


 遠くには低い丘。


 その向こうへ街道が続いている。


 ここちゃんは昨日より馬車に慣れたのか、俺の隣で伏せていた。


 揺れに合わせて体が小さく動く。


 耳だけは外の音を追っている。


 むぎは午前中なので、胸ポケットの中で完全に眠っていた。


「見えた」


 ノアが前方を見る。


「何が?」


「標識だ」


 街道の脇に、大きな木の板が立っている。


 まだ文字までは読めないが、確かに見落とすような大きさではない。


「本当だな」


「ドランが言ってた通りだ」


 アクセルが腕を組む。


「俺も気づいてた」


「ノアより後だっただろ」


「少し遅かっただけだ」


「それを今言う必要あるか?」


 馬車が標識の前で止まる。


 道は二つへ分かれていた。


 真っ直ぐ南へ進めば王都。


 右へ曲がれば、西へ続く道。


 ポロム港。


「こっちだな」


 テラが地図と標識を確認する。


「ここから西か」


 今まで何度も通った王都への道。


 今日はその途中で外れる。


 少しだけ不思議な気分だった。


「行くぞ」


 馬車が向きを変える。


 車輪が西方街道へ入った。


⸻


 西へ向かう道は、王都街道より少し狭かった。


 それでも馬車同士がすれ違える広さはある。


 時々、荷物を積んだ馬車と出会う。


 木箱。


 布。


 樽。


 中身までは分からない。


「港から来た商人かな」


「おそらく」


 カインがすれ違う荷馬車を見る。


「この道を使うのは、港へ向かう者か、港から中央へ荷を運ぶ者が多いでしょう」


「何を運んでるんだろうな」


「海産物や、他の大陸の商品だろう」


 ノアも荷馬車へ視線を向ける。


「ドワーフ大陸の物もあるかもしれない」


 何気なく積まれている箱の中に、中央大陸では珍しい物が入っている可能性もある。


「港へ着いたら、市場も見ておきたい」


 ノアが言う。


「調べものは?」


「船が出るまで一日ある」


「全部を調査に使うわけじゃないだろう」


「まだドワーフ大陸にも着いてないしな」


「珍しい果物があれば、それも見たい」


「結局そっちかよ」


「必要な確認だ」


「何の?」


「食料の」


 アクセルがすぐに口を挟む。


「肉の場所は残せ」


「魚もな」


「野菜も必要だ」


 テラまで加わった。


 カインが小さく笑う。


「港へ着く前から、市場で買う物の相談ですか」


「食料は大事だからな」


「否定はしません」


⸻


 二日目の夜。


 西方街道沿いの小さな野営地へ入った。


 昨日と同じようにカインが周囲を索敵する。


 魔物はいない。


 少し離れた場所には、旅人が三人と荷馬車が一台。


「結界を張っても問題ないか?」


 俺が尋ねる。


「範囲をこちら側へ寄せれば、邪魔にはならないと思います」


「警報が鳴れば驚かせるけどな」


「鳴らないことを願おう」


 テントを立て、結界具の杭を配置し、お香を焚く。


 昨日よりずっと早い。


 携帯用の炉で夕食を作る頃には、全員かなり手順に慣れていた。


「初日とはえらい違いだな」


 テラが言う。


「アクセルが色を間違えなくなったからな」


「今日は間違えてない」


「ノアに先に止められたからだろ」


「間違える前に止められたなら、間違えてない」


「それでいいのか?」


 今夜も警報は鳴らなかった。


 誰も見張りに立たず、全員で朝まで眠った。


⸻


 三日目。


 西方街道をさらに進む。


 御者はテラとカインが交代しながら務め、昼には馬を休ませる。


 天気は変わらず穏やかだった。


 大きな問題も起きない。


「珍しいな」


 俺が呟くと、テラが振り返った。


「何がだ」


「何も起きない」


「起こる前提で考えるな」


「ドランも何か起きるって言ってただろ」


「あいつもお前らに毒されてるだけだ」


 アクセルが荷台から外を見る。


「平和なら、それでいい」


「珍しくまともなこと言ったな」


「俺はいつもまともだ」


 夕方。


 また街道沿いの野営地へ入る。


 テントを立て。


 馬を休ませ。


 飯を作る。


 結界を張り。


 全員で眠る。


 もう手順を確認する声もほとんど必要なかった。


 旅の形が。


 少しずつ決まっていく。


⸻


 四日目。


 道はさらに西へ伸びていた。


 草原は減り。


 代わりに低い木々が増えていく。


 街道を行き交う馬車も、前の日より多い。


「港が近づいてきたのか?」


 アクセルが尋ねる。


「まだ一日はかかる」


 カインが地図を見る。


「ただ、港と中央を行き来する者は増えているようですね」


 昼過ぎには、小さな集落を通った。


 旅人向けの食堂。


 馬を休ませる場所。


 簡単な宿。


 街道沿いの人の流れが、少しずつ濃くなっている。


 そこで水と馬の餌だけ補充した。


「果物は?」


 ノアが露店を見る。


「買わない」


「まだ何も言ってない」


「顔に書いてある」


「見ていただけだ」


「じゃあ行くぞ」


 馬車が動き出す。


 ノアは少しだけ名残惜しそうに露店を見ていたが、何も言わなかった。


 珍しく。


⸻


 五日目。


 朝からカインが御者台へ座った。


 空は薄く霞んでいる。


 西へ進むにつれ、道は少しずつ下り始めた。


 草原が減り、低い木々が増える。


 風も、昨日までとは違う。


 ノアがふと顔を上げた。


「海の匂いがする」


「海?」


 俺も外から入ってくる風を吸う。


 少し湿っている。


 それから、かすかに塩のような匂い。


「本当だ」


 精霊大陸へ向かった時。


 港へ近づいた時にも、同じ匂いがした。


「もう近いな」


 テラが荷台から前を見る。


 街道の先。


 道が緩やかな丘を上っている。


 馬車が進む。


 頂上へ近づくにつれ、空が大きく開けた。


「見えた」


 ノアが身を乗り出す。


 丘の向こう。


 青い海。


 その手前には、建物が集まっている。


 屋根。


 倉庫。


 高い塔。


 港へ伸びる桟橋。


 その先には、大小いくつもの船。


「あれがポロム港か」


「そうでしょうね」


 カインが答える。


 馬車は丘を下り始める。


 進むほど海の匂いは強くなった。


 道を行く人の数も増える。


 荷馬車。


 旅人。


 商人。


 大きな荷物を背負った者。


 中央大陸の内側にある街とは、人の流れが違う。


 ノアは遠くの港を見たまま口を開いた。


「どの船に乗るんだ?」


「まだ分からない」


「できれば大きい船がいい」


「揺れにくいからか?」


「構造を見られる場所も多そうだ」


「船の中を調べる気かよ」


「気になるだけだ」


「勝手に入るなよ」


 アクセルは海を見ながら腕を組む。


「着いたら飯だな」


「またそれか」


「昼が近い」


 確かに腹は減ってきた。


「まず馬車を返す場所を確認する」


 テラが指を折る。


「それから宿。港のギルドにも行く」


「ドランの紹介状があるからな」


 ノアも頷いた。


「市場にも寄りたい」


「最後だ」


「珍しい物は先に見ておいた方がいい」


「果物の話だろ」


「それだけとは言ってない」


「顔が果物って言ってる」


「どんな顔だ」


 馬車はポロム港の門へ近づいていく。


 門の向こうから、人の声。


 車輪の音。


 荷物を運ぶ掛け声。


 鳥の鳴き声。


 海沿いの風が馬車の中へ吹き込む。


 ここちゃんが顔を上げた。


 耳を立て、知らない匂いを確かめるように鼻を動かす。


 胸ポケットの中でも、むぎが目を覚ましたらしい。


 小さく動いた。


「着いたぞ」


 俺は二匹へ声をかける。


「ポロム港だ」


 船が出るまで。


 あと一日。


 海の向こうには。


 ドワーフ大陸がある。

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