西へ向かう馬車
翌朝。
拠点を出る前に、忘れ物がないかもう一度確認した。
「結界具」
「ある」
アクセルが腰の魔法袋を叩く。
「テント、炉と燃料、魔石、魔物避けのお香」
「全部ある」
「食料」
「収納の中」
「果物は九種類」
ノアが付け足す。
「そこまで確認しなくていい」
「必要だろう」
ここちゃんは俺の足元を回っている。いつもと違う朝の気配を、もう察しているらしい。
むぎは胸ポケットから顔だけを出し、玄関の方を見ていた。
「着替えもあるな?」
テラが全員を見回す。
「ある」
「薬も持ちました」
カインも頷く。
「なら行くか」
最後に拠点を振り返った。
窓。扉。庭。
最近ようやく馴染んできた長椅子や、いつもの食卓。
少しずつ手を加えて、暮らしやすくしてきた場所だ。
「留守番はいないのか?」
アクセルが聞く。
「鍵は閉めた」
「そうじゃなくて。誰かに見てもらわなくていいのか?」
「金になる物はほとんど持っていくし、家具を盗むためにわざわざここまで来るやつもいないだろ」
「ミアには留守にするって伝えてある。何かあれば見てくれるはずだ」
「そうか」
扉へ鍵をかける。
ここちゃんを抱き上げ、俺たちはサイファ冒険者ギルドへ向かった。
⸻
ギルドの前には、一台の馬車が止まっていた。
二頭立ての屋根付き。荷台は広く、長旅でも使えるよう座る場所には厚い布が敷かれている。
「これか」
アクセルが馬車の横へ立つ。
「ずいぶん大きいな」
「五人乗るって言ったからな。荷物もあると思って、少し大きめを借りてある」
御者台の横に立っていたドランが答える。
「助かった。金は後で返す」
「もう払ってある」
「だから返すって」
「なら帰ってからでいい」
ドランは馬の首を軽く叩いた。
「二頭とも大人しい。街道にも慣れてる。ただし、無茶はさせるなよ」
「分かってる」
「馬車を壊したら?」
アクセルが聞く。
「お前が引いて帰ってこい」
「それでもいい」
「よくねえよ。借り物だぞ」
ドランが顔をしかめる。
その横で、テラは馬の足元から鞍、手綱、車輪まで順番に確認していた。
「問題なさそうだ」
「御者はできるのか?」
「騎士団にいた頃に何度も。馬車での移動も多かったからな」
「私も交代できます」
カインも反対側の車輪を確認する。
「商人をしていた頃は、荷馬車を使うことも多くありました」
「なら大丈夫だな」
ドランが地図を開いた。
「ポロム港までは五日ほどだ。今日は王都方面の街道を南へ進め。明日の途中で、西へ向かう街道との分かれ道がある」
「標識は?」
「ある。見落とすほど小さくはねえ。王都まで行ったら行きすぎだ」
「そこまで間違えないよ」
「お前じゃなく、こいつに言ってる」
ドランがアクセルを見る。
「俺は御者じゃない」
「だから安心だ」
「どういう意味だ」
ギルドの入口には、ミアも立っていた。
「船の出航までは余裕がありますが、天候によっては道が悪くなることもあります。お気をつけて」
「ああ。行ってくる」
「お土産、期待しています」
「調べものをしに行くんだけど」
「ドワーフ大陸ですよ? 何かあるでしょう」
「何かって」
「何かです」
笑顔で言われると断りにくい。
「覚えてたらな」
「覚えておきます」
そっちが覚えるのか。
「じゃあ、最初は俺がやる。疲れたら代わってくれ」
テラが御者台へ上がる。
「承知しました」
カインも隣へ座った。
俺たちは後ろの荷台へ乗る。
荷物の大半はアクセルの魔法袋と、俺の無限収納の中だ。だから五人乗っても十分余裕がある。
ここちゃんを隣へ下ろすと、最初は足元を確かめるように鼻を動かした。それから俺の膝へ前足を乗せる。
「揺れるぞ」
抱き上げる。
むぎは胸ポケットの奥へ戻った。
「出すぞ」
「頼む」
テラが手綱を握る。
馬車がゆっくり動き出した。
車輪が石畳を転がり、ギルドが少しずつ離れていく。
ドランが片手を上げ、ミアも手を振っていた。
「行ってきます」
返事は、車輪の音に紛れた。
⸻
サイファの門を出ると、街道は王都へ向かって南へ伸びていた。
見慣れた道だ。
王都へ向かった時も、戻ってきた時も、この道を通った。
だが馬車から見る景色は少し違う。歩いている時よりずっと早く、遠くの木々が次々と後ろへ流れていく。
「楽だな。歩かなくていい」
アクセルが荷台の壁へ背中を預けた。
「当たり前だろ」
「ずっとこれで行けばよかった」
「借りる金がかかる」
「金ならある」
「だからって毎回借りるなよ」
ノアが流れていく景色を眺めた。
「今回みたいな長距離なら、馬車の方がいい。調査前に疲れずに済む」
「それはそうだな」
今回の目的は旅そのものではない。
ドワーフ大陸へ行き、あの印が示す場所について調べる。
歩けるからといって、わざわざ体力を使う必要はなかった。
「ここちゃんは?」
ノアが俺の膝へ視線を向ける。
「平気そうだ」
揺れ始めた時は少し警戒していたが、今は前足を俺の腕へ乗せ、外を見ている。耳だけが馬車の音に合わせて動いていた。
「むぎは?」
「寝てる」
胸ポケットへ指を入れる。柔らかい毛に触れると少しだけ動いたが、出てくる気はないらしい。
「夜になったら起きるだろうな。またテントの中を走るかもしれない」
「そのために五人用を二つ買ったわけじゃないぞ」
「広い方がいいだろう」
「むぎにとってはな」
「俺にとってもいい」
アクセルが口を挟む。
「お前は一人で一つ使おうとするなよ」
「まだ決まってない」
「決めないからな」
⸻
昼前。
街道脇の広い場所で馬を休ませた。
テラが手綱を結び、カインが水を飲ませる。
「このまま行けば、夕方には街道沿いの野営地へ着く」
テラが地図を広げた。
「野営地?」
「旅人がよく使う場所だ。水場もあるらしい」
「なら今日はそこだな」
昼食は、朝のうちに用意しておいたパンと冷たい肉、それから果物。
周囲に人影がないことを確かめてから、無限収納から取り出した。
「便利だな」
ノアが果物を受け取る。
「今さらだろ」
「冷たいままだ」
「保冷庫ごと入ってるからな」
アクセルはパンへ肉を挟み、一口で半分ほど食べた。
「夜は焼くぞ」
「何を?」
「肉」
「昨日も食べただろ」
「今日も食べる」
「毎日だろ」
「毎日食べられる」
「野菜も食えよ」
ここちゃんには草と水。
むぎには小さく切った野菜を渡す。
むぎは胸ポケットから顔を出し、手のひらの上で受け取ると、すぐに頬袋へ詰めた。
「今食べないのか?」
俺が見ていると、ノアもむぎの頬へ視線を落とす。
「あとで食べるんだろう」
「むぎじゃないだろ」
「見れば分かる」
「何で代わりに答えたんだよ」
昼食を終え、少し休む。
馬にも十分な時間を取った。
カインが足と蹄を確認し、テラが車輪を見る。
「問題ありません」
「じゃあ行くか」
午後はカインが御者台へ座り、テラは荷台へ移った。
「任せていいんだな?」
「はい。馬車は久しぶりですが、問題ありません」
カインが手綱を握る。
馬車が動き出しても、さっきまでと揺れ方はほとんど変わらない。
「上手いな」
アクセルが言う。
「商人だったんだろ」
「荷物を壊したら困りますから」
「人なら壊れてもいいのか?」
「そのようなことは言っていません」
テラが小さく笑った。
「今の返し、少しカインらしくなかったな」
「皆さんに慣れてきたのかもしれません」
「それはいいことなのか?」
「たぶん」
俺は答えた。
⸻
日が傾き始めた頃。
街道の脇に、開けた場所が見えた。
低い木々。浅い川。火を使った跡。
何度も旅人が使っているのだろう。地面もある程度平らになっている。
「ここだな」
カインが馬車を止める。
周囲に他の旅人はいない。今日は俺たちだけらしい。
「まず馬だ」
テラが降り、馬車から馬を外して水を飲ませる。
その間にカインは周囲をゆっくり見回した。
「索敵するのか?」
「はい」
目を閉じる。
空気が、わずかに揺れた気がした。
魔力がカインを中心に静かに広がっていく。
しばらくして目を開ける。
「近くに大きな魔力はありません。小動物が何匹か、川の向こうにいます」
「魔物は?」
「今のところは見つかりません」
「なら設営だな」
アクセルが魔法袋からテントを二つ取り出した。
「赤と赤」
ノアが棒の端を見る。
「分かってる」
アクセルが一本持ち上げる。
「それは青だ」
「……確認しただけだ」
「また間違えたな」
「確認だ」
「昨日も言ってたぞ」
「今日は間違えてない」
「手に取った時点で間違えてるだろ」
テラが呆れながら反対側の棒をつなぐ。
俺とカインで布を広げ、ノアが全体を見ながら指示した。
昨日よりさらに早い。
しばらくして、二つの大きなテントが並んで立った。
「次は結界具だな」
アクセルが箱を出す。
二つのテントと馬二頭。その間を歩けるだけの余裕を残し、四本の杭を配置する。
「このくらいならどうだ?」
「昨日より少し広いな」
テラが位置を確認する。
「だが、広げすぎというほどではない」
ノアも中央に置かれた魔導具を見る。
「張れるかは、試すしかないな」
「ああ」
杭だけ打ち込み、中央に魔導具を置く。
まだ魔石は入れない。
「結界は寝る前でいい」
テラが言う。
「先に張ったら、出入りするたびに警報が鳴るかもしれないからな」
「それがいい」
ノアも頷いた。
「飯もまだだしな」
アクセルが携帯用の炉を取り出す。
「結局そこか」
⸻
携帯用の炉を、テントから離れた場所へ置く。
燃料を入れて火をつける。
焚き火ほど大きな炎は出ないが、鍋を置くには十分だった。
「早いな」
薪を探す必要もない。石を並べる必要もない。
燃料を入れて、火をつけるだけだ。
「便利だろ」
アクセルが得意そうに言う。
「お前が作ったわけじゃない」
「買うのに賛成した」
「それだけだろ」
鍋へ水を入れ、野菜と魚を煮る。
横では平たい鉄板を使い、アクセルが肉を焼いていた。
「結局焼いてるな」
テラが言う。
「炉の横で焼けた」
「二つ買わなくてよかったな」
「一つで足りた」
「昨日は二つ欲しがってただろ」
「試した結果だ」
「便利な言い方だな」
日が落ちるにつれ、空が少しずつ暗くなる。
温かい湯気と焼けた肉の匂いが広がった。
馬車で移動しただけなのに、腹は減っている。
「いただきます」
全員で鍋を囲む。
外で食べること自体は、今までと変わらない。
だが背後には二つのテントがあり、その周囲には結界具の杭が立っている。
少し前までの野営とは、ずいぶん違って見えた。
「悪くないな」
テラがスープを飲む。
「何が?」
「こういうのも。今までは、寝る前から見張りの順番を考えてた」
結界具へ目を向ける。
「今日は全員寝られる」
「警報が鳴らなければな」
「鳴らない方がいいだろう」
ノアが言う。
「昨日ので十分だ」
「すごい音だったな」
アクセルが笑った。
「ここちゃんが怒ってたぞ」
そのここちゃんは、俺の隣で草を食べている。今のところ、杭を気にする様子はない。
「今日は余計なことするなよ」
「俺に言うな」
「昨日鳴らしただろ」
「試験だ」
「今日は本番だからな」
食事を終え、炉の火を消す。
熱が残っているうちは、テントから離したままにしておく。
カインがもう一度索敵魔法を使った。
「変化はありません。近くに魔物はいないようです」
「じゃあお香だな」
風向きを確認し、野営地の風上へ置く。
火をつけると細い煙が上がり、少し苦い薬草のような匂いが流れてきた。
「これで来なくなるのか?」
アクセルが鼻を動かす。
「来にくくなるだけです。絶対ではありません」
「来たら結界。破られたら俺が倒す」
「順番としては合ってる」
テラが答えた。
馬二頭を杭で囲んだ範囲へ入れ、全員も必要な物を持って戻る。
「忘れ物ないな?」
「ない」
テラが周囲を見る。
「なら張るか」
中央の魔導具へ魔石を入れる。
薄い光が地面を伝い、四本の杭へ伸びていった。
途切れることなく、すべての杭が淡く光る。
「結界は張れたか?」
ノアが周囲を見渡す。
「昨日と同じだな。問題なさそうだ」
テラが頷いた。
「何かが触れれば警報が鳴ります」
カインも結界の外側へ視線を向ける。
「鳴らないことを願うよ」
「寝る場所は?」
アクセルが二つのテントを見る。
「三人と二人だろ」
「俺は二人の方」
「駄目だ」
テラが即答した。
「何でだ」
「広く使おうとしてるから」
「なら誰と誰だ」
少し考え。
結局、俺とノア、それからここちゃんとむぎ。
もう一つには、アクセル、テラ、カイン。
人数だけなら向こうが三人で、こっちは二人だ。
ノアが俺の腕の中のここちゃんを見る。
「こっちは、ここちゃんとむぎもいるな」
「数だけならこっちの方が多いな」
「ここちゃんは場所を取る」
「アクセルよりは取らないだろ」
「俺と比べるな」
「場所を取るという意味では、お前が一番だろ」
「寝相はいい」
「そこは聞いてない」
アクセルたちが、もう一つのテントへ入っていった。
俺もここちゃんを抱き、テントの中へ入る。
⸻
外で寝るのとは違った。
風が直接当たらない。
地面には厚い布。その上に毛布。
五人用だから、ノアと二人で横になってもかなり余裕がある。
ここちゃんは昨日と同じように中を一周し、それから俺の横へ座った。
むぎは胸ポケットから出ると、毛布の上を走り、端まで行ってまた戻ってくる。
ノアがその様子を目で追った。
「十分広いな」
「気に入ったみたいだ」
外からアクセルの声が聞こえる。
「狭い」
「広いだろ」
テラの声。
「お前が真ん中で寝るからだ」
「端は嫌だ」
「何でだよ」
「壁が近い」
「テントなんだから当たり前だろ」
カインの笑う声も聞こえた。
「こっちは平和だな」
「今のところは」
ノアが毛布へ横になる。
「警報が鳴れば、そうも言っていられない」
「鳴らないことを願おう」
灯りを消す。
暗くなる。
外から聞こえる川の音。虫の声。馬が動く気配。
それでも今までとは違う。
誰かが外で起きている気配はない。
全員が同じ時間に休んでいる。
《周辺警戒手段、正常稼働中》
(分かるのか?)
《結界具の魔力反応を確認》
(異常は?)
《ありません》
(じゃあ寝るか)
《睡眠を推奨》
ここちゃんの背中を撫でる。
むぎは毛布の端で丸くなっていた。
初めてのテント。
初めての、見張りのいない野営。
少しだけ落ち着かない。
だが目を閉じると、馬車に揺られた疲れがゆっくりと体へ広がっていく。
警報は鳴らなかった。
その夜。
俺たちは誰も起きることなく、朝まで眠った。




