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4. アーティファクト

 男がカーテンを開けるとそこに、彼の絵があった。


 絵を見た瞬間、マイクは軽いめまいを覚えてよろめいた。

 隣に立っていた男がすぐに彼の体を支えた。

 マイクは頷いて男に平気だと返すと、さらに絵を見つめた。


 色彩、形、光。


 考えるより早く、彼は瞬間的に理解した。


 これは絵などではない。


 これは扉だ。

 精神の前に置かれた扉なのだ。


 四次元の前に置かれた三次元だ。


 魂の階段だ。


 自分は絵を依代としてこの大いなる力を目に見える形で顕現させたのだ——。



 マイクは絵から離れて椅子に座った。

 男はカーテンを引いて絵を再び隠し、自身もマイクと向かい合って座った。


 マイクはしばらく目を閉じて背もたれに身を預けていたが、やがて目を開けて残っていたコーヒーに口をつけた。

 男が尋ねた。

「絵を見てどうでしたか」

「あれは絵などではない」

 マイクは首を振った。

「あれは絵の形をした何かだ。

 人間の精神を違う場所へ連れ出すための力のようなものだ」

 マイクの言葉に、男は満足そうに頷いた。

「どうやら理解したようですね。

 そのとおりです。

 あれは絵ではないのです。

 比喩や文学的表現などではなく、文字通りに。

 あなたならばそれを理解できるであろうと思っていました。

 あれを作り出したのはあなたなのだから」

「気がつかなかった。

 あれと一番長く共にいたのは私だっだというのに」

「そういうものなのですよ。

 もしもあの絵を描いている途中であなたがその力に気がついてしまえば、もっと言うなら虜になってしまえば、あなたはあの絵を完成し得なかったでしょう。

 それを防ぐためにあなたの精神はあの絵が持つ力を一時的に遮断したのです。

 それはあなたの中にある自己防衛的な機能であり、同時にあの絵として現れた存在の持つ特性であるとも言えるのです」

 マイクは目を上げて白衣の男を見た。

「あなたはあの絵の正体を知っているのですか」

「いくらかは。

 完全に解明できているとはとても言えませんが、ある程度正しいと言える事実をいくつか私たちは掴んでいます」

「あなたは誰なんです?」

「私はこの研究所の責任者で、クリフと申します。

 私たちはあなたのあの絵を今日まで管理し、その力について研究して来ました」

「それでクリフ博士。

 あの絵は一体何なのですか」

「あなたにももうお分かりなのではないですか。

 と言っても、それを言語化することは困難だとは思います。

 私たちにも全貌が見えているという保証はありませんが、わかる範囲でお話ししましょう」


 クリフ博士が右手をあげると、彼らの近くの壁にスクリーンが現れた。

 スクリーンには手錠をされて椅子に座っている男が映っている。

 男はまっすぐに壁を見据え、まばたきひとつせずにじっとしている。

 カメラが切り替わり、男を斜め後ろから映し出した。

 男の視線の先にはあの絵があった。


「これは比較的最近に行われた実験の様子です。

 被験者には望むだけあの絵を見ていていいと伝えました。

 この時点で絵を見始めてから既に一二時間が経過しています」

「どういうことです。

 一二時間?」

「素晴らしい芸術作品に出会った時、それに夢中になり立ち尽くすといったことは誰しも経験しうるものです。

 それ自体は取り立てて異常というものでもない。

 しかしながらあの絵に関して人々が受ける影響は、そういった一般的な興味や感動といったレベルを明らかに超えている。

 文字通りその前に立つものの心を捉えて離さないのです。

 我々は被験者に望むまま絵を見せることにしました。

 その間、食事や排泄など、生物としての最低限の活動は我々が補助しています。

 というのも、あの絵を見ることに夢中になったものは、そうした生命維持に必要な最低限の行動すらとろうという意識がなくなってしまうのです。

 実験に参加したものの中には、全く睡眠を取らなかったために衰弱死したものもいます」

 映像は次々に切り替わり、様々な人々が皆同じように絵を食い入るように眺めている様子を映し出した。

 呆然としているマイクに向かってクリフ博士は説明を続ける。


「睡眠というのはこの実験において非常に大きな壁であると言えます。

 最低限の栄養素は点滴その他で補うことができますが、脳の疲労まではこちらでコントロールするのは難しい。

 やむなく我々は、生命維持に支障をきたし始めたと思われる被験者を薬を用いて強制的に眠らせるようにしました。

 実験を続けるためには本来あまり取りたくない措置ではありました。

 一度絵を見ることを中断させてしまうわけですから、正確な絵の影響が測れなくなる恐れがあります。

 しかし実験を続けるにつれ、この睡眠が絵の影響力をさらに高めていることが判明したのです」

 クリフ博士はやや興奮したように両の手を擦り合わせる。

「ご存知のように、睡眠中には脳内の情報の整理が行われます。

 覚醒している間に五感を用いて収集した情報の取捨選択、記録、再配置などなど、表現はいかようにもできますが、ともかくより純度の高い精神のみの活動が行われるということです。

 この活発な精神の活動、それも無意識下で行われる深い情報の精錬のようなものが非常に大きな効果をもたらしたのです」


 画面がさらに切り替わる。

 最初に見た男がまた絵と向かい合っていた。

 薄汚れた格好をして、頰はやつれ無精髭に覆われているが、その目だけが奇妙に輝いていた。


「彼は比較的最近の実験における適応者の一人です。

 適応者とはつまり、最後まで絵を見続けることができたもののことです。

 被験者のうち、ここまでたどり着けるものは現在のところ一割程度です」

「……最後というのは?」

 マイクは呟くように言葉を紡いだ。

 クリフ博士は頷いた。

「絵を見続けた被験者にはある時点から、肉体の変化が訪れるのです。

 これはおそらく絵から受けた影響による精神の変化に伴うものであると推測されています。

 彼らはまず、それまで必要としていた食事や排泄が不要になっていきます。

 それに従い、肉体の活動が非常に安定したものになっていきます。

 具体的には、血圧や心拍数、血中の酸素濃度などの数値の揺らぎがどんどん小さくなり、常に一定になっていくのです。

 睡眠もまた必要なくなります。

 さらに次の段階では、観測できる範囲で適応者は外部からのエネルギー供給なしに活動しているように見えます。

 あるいは何か未知のエネルギーを我々の知り得ない方法で取り込んでいるのかもしれませんが。

 そして、ついに肉体の変化が完了したものは、絵を見続けることから解放されるのです」


 マイクは目を閉じてうなだれた。

 悪い夢ではないかと思った。

 このクリフ博士と名乗る人物は一体何を話しているのだ? 絵を見続けることで人間がミュータントになるとでも言うのだろうか。


 だが一方で、マイクはクリフ博士の話した内容が真実であろうことも分かっていた。

 彼自身、ついさっき絵の前に立ったことでその力の片鱗をまざまざと見せつけられていたのだ。

 おそらく彼が自分の意思で絵から目を離すことができたのは、クリフ博士も言っていたように作者である自分には絵に対する免疫のようなものがあるからだろう。

 だがその免疫もいつまでも効力があるとは限らない。

 あるいは絵の方が力を増しているようにも感じられる。

 ここで実験に使われ、本来の力を発揮し始めたことで、その力はさらに純度と勢いを増しているのかもしれなかった。


 クレフ博士はさらに続けた。

「変化が完了したものは共通して、外部からの刺激に対しての反応が鈍くなります。

 話しかけても反応は返しますが、こちらとは積極的なコミュニケーションはとらず、外気温や湿度に関しても無関心です。

 怪我をしても、致命的なものでなければ強力な治癒能力で数時間のうちに完治します。

 情動というものがあるのかは不明ですが、適応者同士で言語を介さないコミュニケーションを行っていることが判明しています。

 言うなればテレパシーのようなものです。

 そのテレパシーが届く範囲やその内容については今の所は不明です。

 現在までに行われた実験では、少なくとも地球と火星の間で一切のタイムラグなしにコミュニケーションを行えることが分かっています」

「まるでコミックに出てくる宇宙人だ」

 マイクは乾いた笑い声をあげた。

 気にせずクリフ博士は話し続けた。

「加えて、知能の大幅な上昇が見られます。

 ある適応者は、絵を見る前の知能テストではIQが八〇を下回っていましたが、変化後にはテストの上限値である一八〇を超えていました。

 さらには変化前には有していなかったはずの知識を獲得していることも観察されています。

 先ほど彼らの間のコミュニケーションをテレパシーと説明しましたが、実際には一対一のやり取りをしているのではなく、全ての適応者によって巨大なネットワークが構築され、そこで情報の共有が行われているのだと推測されます。

 それはまるで分散処理で学習を行う人工知能のようなものです。

 個々の適応者が受けた刺激や学習した内容、得た知識などはネットワークを介して全ての適応者の間で共有されるのです」

 クリフ博士は大きく息をつき、マイクを見た。

「これがどういうことかお分かりですか」

「さあ。

 私にはさっぱりです。

 私の絵はスーパーヒーローか、あるいはミュータントを作り出しているようですが。

 本当にそんなことが起こっているとして」

 クリフ博士はマイクの言葉を意に介さないように続けた。

「あの絵は、あの絵の持つ力は、人間を次の段階に進化させ得るということです。

 それも生物が長い年月をかけてゆっくりと進化してきたのとは違う、短期間の劇的な進化だ」

 クリフ博士がスクリーンに向かって手をかざすと、映像が次々に切り替わっていく。

 古代の壁画、叙事詩を歌う聖歌隊、大小様々の絵画、様々な言語で書かれた書物、楽譜、オーケストラ、舞台、映画、CG、仮想現実。

「進化は今に始まったことではない。

 人間が芸術と呼ぶものは全て、あの絵が持つ力の片鱗のようなものを内包しているのです。

 こう考えてもいいでしょう。

 芸術とは、ある側面ではそれは人間が生来持つ進化や進歩への欲求が具現したものなのだ、と。

 人間は常により高みへ、次のステージへ登りたいと考え進歩してきました。

 そしてそれをなし得る力の創造あるいはそのためのアプローチ、その一つの形が芸術であると言えるのです。

 この研究所、いえ、我々の組織は、人間が次なる進化の段階へと進むための研究を続けてきました。

 実を言えば、人間を変化させるあの力を持つのはあなたの絵だけではないのです」

「なんですって?」

「あなたの絵以外にも、例えば音楽や文章、映像などの分野で、同様の効果をもたらすものが現在に至るまでいくつか生み出されています。

 と言ってもあなたの絵ほど強大な力を有するものはありませんが。

 共通しているのは、どれもそれを鑑賞するものを恍惚とさせ、精神に強い影響を与えるということです。

 我々はそうした物品をアノマリーアーティファクトと呼んでいます。

 我々はそうした力を持つ芸術作品が生まれるたびそれらを収集し、世間からその存在を秘匿してきたのです」

「馬鹿な」

 マイクは絶句した。

 彼は混乱していた。

 そして自らが作り出してしまったものが持つ力に慄いていた。


「人類の歩んできた歴史の中で、そうしたものは度々生まれてきたのですよ。

 しかし、そうは言ってもほとんどのアーティファクトは鑑賞した人間に比較的軽微な精神的影響を与えるにとどまっていました。

 どれほど外部の人間が——要するに我々が——その影響力を最大限にしようと色々な処置を施したとしても、肉体的な変容をもたらすことができるものなどほとんどありませんでした」

 クリフ博士は言葉を切り、マイクをじっと見据えた。

「だが、あなたの絵は別格だ」

 マイクはクリフ博士の視線から目を背け、自分の両手を見た。

 その手が作り出したものを思った。

 当然のことながら、あの絵を描いている最中はこんなことが起こるとは予想もしていなかった。

 ただいつものように自分のベストを尽くして作品を作り上げただけだった。

 絵を描いている間も、それを完成させた後も、そして今この瞬間も、彼自身にはなんら特別な影響は現れていなかった。


 マイクは自分の手を見つめたまま言った。

「あなたの言うことが真実だとして、では私がどうやってそんなものを作り上げたのか、私自身わからないんです。

 あなた方は当然それを知りたいのでしょうが、残念ながら私の方が聞きたいくらいだ。

 私はただ絵を描いただけだ。

 無論それが自分の中で傑作であろうことくらいは予感してはいましたが、神がかり的なひらめきがあったとか、作製途中の記憶が無いというようなこともない。

 私はとにかく常識的に、ごく普通にあの絵を描き上げたのです。

 それとも私は無意識のうちに悪魔に体を乗っ取られでもしたんでしょうか」

 クリフ博士は首を振った。

「その謎を解き明かすのも我々のテーマの一つなのですよ。

 悪魔という表現はともかく、あなたは何らかのメカニズムによってあのアーティファクトを作り上げるための方法を手にしたのは確かです。

 それがあなたの内にあるものなのか、それとも——言うなればそれが神や悪魔や大宇宙の意思などと形容されるものなのでしょうが——外から受けとったものなのかはわかりません。

 ですが過去のケースでもアーティファクトを作製した本人たちは、それを自覚できていない場合が多いようです。

 加えて、アーティファクトを作製した本人はそのアーティファクトから受ける影響も小さいのです。

 あるいはそれがアーティファクトを作り出すための重要な鍵であるのかもしれません」

「あの絵をどうするんですか」

「まだ我々の研究は途上段階です。

 すぐにもこの絵を人々に見せて進化を促すようなことはしません。

 まだ適応の成功率も高くはありませんので。

 しかし、おそらくは時間の問題でしょう。

 研究が進めば、やがて人類は進化の時を迎えると思います。

 人々が気付いていないだけで、もしかしたら人類は今も大きな転換点を迎えつつあるのかもしれない。

 あなたの絵は一度世界中に公開されました。

 我々が行なった実験のように長時間その影響下に置かれた者がいるわけではありませんが、それでも絵に感化された者が新たなアーティファクトを生むようになることも十分考えられることです。

 我々はそうした方面の実験でそれを確認しています。

 そうすれば、やがてはその力に適応するものも増えていくでしょう。

 いずれある時点を境に、人類の歴史は変わります。

 新たな種としての歴史が始まるのです」

「信じられない」

 マイクは恐る恐る部屋の奥のカーテンを見た。

 その奥にあるものが果たして福音であるのか、それとも触れることの許されない禁忌であるのか、彼には判断がつかなかった。



 自室としてあてがわれた部屋のベッドに腰掛け、マイクは長く深いため息をついた。

 なんだか自分がすごく歳をとったような気がした。

 実際には彼はまだ五〇年あまりしか生きていない。

 現在の地球の平均時寿命からすれば、まだ中年と呼ばれるにも早い年齢だった。


 ベッドと向き合う壁に設置されたモニターを点けた。

 レポーターが明日の天気を告げていた。

 彼はそれを懐かしい気持ちで眺めた。

 月にいる間は天気など気にする必要がなかった。

 そう考えて彼は、今も(恐らくは)地下にいること、そもそも日の光をまともに浴びたのはずいぶん前であることに気がついた。


 ベッドに仰向けに寝転んで目を閉じた。

 最近は寝てばかりだな、と彼は自嘲気味にそう思った。

 だが仕方がない。

 ここ数日の間にあまりにもいろいろなことが起こった。

 あのクリフとかいう博士が言っていたように、情報の整理のためには睡眠が必要なのだ。


 目を閉じた暗闇の中で、マイクの脳裏には昼間見たあの絵の影がちらついていた。

 だが、今や彼はそれを求めてはいなかった。

 あの絵の正体が分かった今、もはやあの存在が自らの手には負えないものであることは明白だった。

 自分がもう一度あのアーティファクトなる存在を生み出せるのか、そもそも生み出したいと思っているのかは分からなかった。

 ただひとつ感じていたのは、自分が絵描きとして曲がりなりにも追いかけてきた芸術というものの行き着く先があのアーティファクトという存在であるということへの反発だった。

 あれは彼が芸術として思い描いていたものとはまったく違っていた。

 仮にあの存在がどれほど偉大なものだったにせよ、自分が作りたかったのはあのようなものではなかったはずだ。


 マイクはまた、人類の未来についても想った。

 どれくらい時間がかかるかはわからないが、これから人類は適応者なるものへと進化していくらしい。

 図らずも自分はその背中を押す役目を担ってしまったようだ。

 それが正しいことなのかどうかは自分にはわからない。

 ある意味ではそれはもはや自分とは無関係のことなのだ。

 マイクはアーティファクトを作り出す者だ。

 アーティファクトからの影響力は小さく、幸か不幸か彼自身が適用者へと変容してしまうことは無い。

 自分は離れた場所から人類が進化していく様子を眺めていることしかできない。


 それが悲しいことなのかどうかすら、今の彼にはわからなかった。

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