3. 研究所へ
彼は椅子に座っていた。
目の前のモニターには広い真っ白な部屋が映っている。
部屋の中には彼の描いたあの絵が展示されている。
絵の前には人種も年齢もバラバラの人々が立って絵を見つめている。
カメラが絵と向き合うように置かれているため、彼らの表情は見ることができない。
人々は全く身じろぎしないので静止画のようにも見えるが、部屋の窓を通して見える景色の中で木が風に揺れているので映像なのだとわかる。
やがてモニターの向こうの人々に変化が現れ始める。
ある者は両手を高く掲げ、ある者は飛び上がり、ある者は体から光を放ち始める。
あるものは天を仰いだまま宙を舞い、あるものは骨格が破壊されそうなほどに体を折りたたむ。
奇怪な運動はしばらく続き、やがて全ての人々が光を放つようになる。
輝きのあまり個々の輪郭はわからなくなっていく。
一つの大きな光となった人々は一度眩しい輝きを放った後、忽然と消えさっていた。
後には誰にも見られることがなくなった絵と、モニターの前の彼だけが残された。
目を覚ました時、マイクは自分が不自然なほど落ち着き払っていることに気が付いた。
彼は簡易なベッドに寝かされていた。
シーツをはねのけベッドから出る。
あれから自分はどうなったのだろう。
突然部屋に入って来たあの男たちは地球から派遣されて来たと言っていた。
そして自分を地球へ連れて行くとも。
ならばここは地球なのだろうか。
もしそうなら、自分は月にいながらも地球と同じ重力のもとで生活できていたことに感謝するべきだろう。
そうでなければ地球の重力下では立つこともできなくなっていたはずだ。
彼がいるのは病室のようだった。
ベッドは彼が寝ていたもの一つだけで、ドアが一つと薄暗い照明のほか、目につくものはなかった。
だがどこかで監視はされていたのだろう。
ドアがノックされ、白衣を着た男とスーツ姿の男が入って来た。
「アイゼンバーグさん、ご気分はどうです」
言いながら白衣の男が、手にしたセンサーのような機械をマイクの手首に当てた。
男は医者らしく、意識がはっきりしているか空腹は感じるかなどを聞くと、頷いて部屋から出ていった。
スーツの男がマイクの方に歩み寄った。
「こんな強引な形になってしまい申し訳ありません。
突然のことで驚いておられると思います」
「ええ、それなりにね。
ここは地球なのですか」
「そうです。
詳しい場所はお教えできませんが、地球上であることは保証します。
あなたを秘密裏にここまで連れて来るためには、様々な事情から、あなたに一度眠ってもらわなければなりませんでした。
あなたは薬を注射され気を失ってから、我々によって地球まで航行し、今いるこの施設で二日ほど眠っていました」
マイクは自分の手を見つめ、大きく息をついた。
「説明はしてもらえるのでしょうね」
マイクが尋ねると、男は頷いた。
「ええ、もちろん。
ですが、今この場で全てを話すこともないでしょう。
着替えを用意させます。
一度落ち着いてから場所を変えて話をしましょう」
男は部屋から出ようとした。
その背中に向かってマイクは問いかけた。
「ひとつだけ今聞きたい」
男は振り返った。
「あの絵は見られるのですか」
男はマイクの目を見て頷いた。
「もちろん。
そのためにあなたは地球に帰って来たのですから」
二時間後、二人は車に乗って何処かへと向かっていた。
窓は黒く塗りつぶされていて外の景色は見えない。
運転席とも完全に仕切られていて、現在地はおろか、今が昼なのか夜なのかもわからなかった。
「これから例の絵が保管されている場所に向かいます」
「あの絵は一体どこに保管されているのですか」
無駄だとわかりつつもマイクは聞いてみた。
案の定、男は首を横に振った。
「その場所についてお教えすることはできません」
「あれは私の絵だ」
「確かにあなたはあの絵の作者ではありますが、今やあの絵はこの世界にとって最も重要なもののひとつなのです」
「月にいるときも似たようなことを聞きましたよ。
みんな寄ってたかってあの絵を爆弾かなにかのように扱っている。
あの絵の価値は理解しているつもりだが、それにしても少々やりすぎだと思いますがね」
「必要があってのことです。
実際、あの絵が持つ力の大きさは爆弾どころではない」
「あなた方は何者なんです?」
「詳しいことは目的地に着いてから改めて説明されるでしょうが、簡単に言えば地球の保安組織のようなものです」
「政府の組織ということですか?」
「いえ。
政府からも国連からも独立した組織です。
色々と取引はありますが」
男はそれ以上話してくれそうになかったので、マイクは話題を変えた。
「私がいた月の研究所はあのあとどうなったんです?」
「大したことにはなっていません。
死傷者は出ていませんから。
施設の設備にいくつか損害は出たでしょうが。
表向きはあなたを糾弾する過激な団体によるテロということになっています。
あなたはテロリストたちによって誘拐され、依然行方不明。
おそらく数日のうちに死亡報道が出ます」
「ちょっと待ってくれ! 私は死んだことにされるのか?」
「ええ。
あなたを守るための措置です。
それに月の人間の過激な行動によってあなたという貴重な存在が失われたということになれば、月の独立運動を沈静化させるための良い口実にもなります。
もうすでに地球から月政府に対して強制捜査の手続きと政府公式の非難声明が準備されているはずです。
そうすればもうあなたが月の独立運動に利用されることもなくなるでしょう」
マイクは深くため息をつき、座席の背もたれに身をうずめた。
私は身の安全のために月に幽閉され、昏倒させられ、地球まで連れ戻された挙句、ついには死んだことにされるのだ。
もうどうとでも勝手にするがいい。
もはや彼に残された希望は、全ての元凶たるあの絵を見ることだけだった。
初めは次の絵を描くためにそれが必要なのだと思っていた。
しかし今やあの絵を見ること自体が彼に取って重要な目的となっていた。
あの絵を見さえすれば全ての答えが出るような気がした。
何に対する答えかはわからないが、少なくとも彼にこの奇妙な人生をもたらしたものの正体を掴みたかった。
しばらくして車が止まり、男に促されてマイクは車を降りた。
そこはビルの地下駐車場のような場所で、そこからエレベータと思しきものに乗った。
動き出すときに少しの加速も感じることがなく、階数表示もなかったので、自分が昇っているのか降りているのかもわからなかった。
エレベーターの扉が開くと、月にあった研究所のロビーによく似た広間に出た。
ここもあの研究所と同じような施設なのだろうとマイクは思った。
広間を横切り、マイクと男は複雑な構造の廊下を歩いて行った。
やがて男は一つの扉の前で止まると、身分証のようなものを読み込ませて扉を開けた。
中は家具の無い無機質な部屋になっていた。
部屋の奥にさらに扉があり、今度も男が身分証を使い、さらに暗証番号を打ち込んで鍵を開けた。
その扉の向こうはまた小さな部屋になっており、天井から射す強い明かりが無機質な壁と床に反射していた。
その様子はマイクに宇宙船のエアロックを思い起こさせた。
「この先に例の絵があります」
無機質な部屋の奥に設置された厳重な扉の前に立ち、男が告げた。
マイクは緊張と興奮を感じながらも、一方で急に得体の知れない恐ろしさが体を登ってくるのに気がついた。
本当にあの絵がすぐそばにあるのだ。
緊張を紛らわすため、マイクは地球に来て初めて笑みを漏らした。
「レプリカだなんてことはないでしょうね」
「ええ、間違いなく本物です。
正真正銘あなたが描かれた絵です。
それと中に入ったら、あなたがなぜあの絵を描いたのかということについても説明を受けるでしょう」
「どういう意味です?」
「すぐにわかります。
私はこれ以上説明する権限を持ちません。
さあ、どうぞ」
男がそう言って右手を扉にあてると鍵が開く男がした。
男に促されるままマイクは中へと入った。
真っ白な部屋の中に、白いテーブルがひとつと椅子が二脚置かれている。
部屋の奥には窓と思しき場所に白いカーテンがかかっている。
テーブルの上にはコーヒーメーカーが一台設置されていて、白い白衣を着た痩せた男がコーヒーを淹れていた。
マイクが近づくと、男は顔を上げて椅子を手で示した。
マイクがそこに腰掛けると、男は彼の前に湯気の立つカップを置いた。
男は自分の分のコーヒーを淹れてもう一方の椅子に座った。
男はコーヒーを一口飲むと口を開いた。
「私はあなたがもう少し興奮しておられるかと思っていました、アイゼンバーグさん」
「自分でも奇妙に感じています。
ただ、色々ありましたから。
ここまで来て焦っても仕方がないということなのかもしれません。
あの絵はそこにあるのでしょう」
「ええ。
あのカーテンの向こうです」
男は指で自分の後ろのカーテンを指した。
真っ白で生地も薄そうに見えたが、その向こうにあるものの様子は窺い知ることはできなかった。
「申し訳ありませんが、手を触れることはできませんし、一定の距離以上に近づくこともできません。
絵は耐衝撃アクリルの壁の向こう側です。
あなたや私がうっかりコーヒーをこぼしてしまうようなことがあってはいけませんからね。
また、あなたが見終わった後はすぐに別の場所に移動させる手筈になっています」
「かまいません。
すぐにでも見られるのですか」
「あなたがお望みなら今すぐにでも。
しかし、我々にお尋ねにならなくてよろしいのですか。
あの絵の秘密や我々が何者かなどについて」
マイクは疲れたような笑いを浮かべて首を振った。
「聞きたいことは色々ありますが、正直言って、今の私にはそれほど重要な問題ではないのです。
なによりもまず目的を果たしてしまいたい」
「良いでしょう。
ではこちらへ」
男は立ちあがってマイクをカーテンの前へと導いた。




