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2. 月と地球

 ブラウン氏はまた近いうちに訪ねると言って帰っていった。

 その後ろ姿を見送った後、顔見知りの職員はどこか皮肉めいた笑みを浮かべた。

「月の政府は仮の政府だという話でしたが、その高慢さはすでに本物顔負けですね。

 ここに就職するための面談を受けた時に気づいてはいましたがね」

「独立というのはそれほど重要なことなのかな」

「少なくとも彼らにとってはそうなのでしょう。

 ああいう方々が積極的に動くのは自分達にも利益がある時だけですよ」


 マイクは自室に戻り、自分が描き上げた絵について考えた。

 ブラウン氏はマイクの絵には彼が描いたというだけで価値があると言っていたが、もしも自分が描いたのが「ただの」絵であれば、そんなメッキは簡単に剥がれてしまうだろうと思われた。

 世界を騒がせたあの絵と同等か、それ以上のものを世界中の人々は望んでいるだろう。

 しかし彼自身、月に来てからの二年間で問い続けてきたように、あの絵を描き上げられたこと自体が奇跡であり、自分には二度と同じことができないということだってありうるのだ。


 あの絵だ。

 自分が描いたあの絵。

 全ての始まりはあの絵なのだ。

 彼はこれまでに増して強くそう思った。

 画商に引き渡してからはすぐに引きこもってしまったから、自分は完成したあの絵を十分には見ていないのかもしれない。

 一時期ではあらゆるメディアで取り上げられていたが、今やそれすら政府の検閲によって目にすることはできなくなっている。

 あの絵をもう一度見ることができれば何かが掴めるのではないだろうか。

 自分は作者なのだ。

 あの絵を見る権利のある者は自分を置いて他にいないだろう。


 彼はすぐに研究所に対して、地球へ戻るための許可とあの絵を見る許可を出してくれるよう依頼した。

 しかし返事はなかなか帰ってこなかった。

 数日の間彼は仕事も手につかず、考え事ばかりしていた。

 頭に浮かぶのはあの絵を見たときの印象や描いていたときの記憶だったが、そうした情報が予想以上に自分の中から失われていることに彼は焦った。


 しびれを切らした彼が再度依頼をしようとしていた矢先、彼の部屋に白衣を着た白髪頭の研究者が訪れた。

 二人は机を挟んで向かい合った。

「まずはご依頼のお返事が遅れたことをお詫びしたい。

 どうしても地球の政府との交渉が必要な案件でしたので時間がかかりました」

「いえ、手間がかかるお願いであるとは承知しています。

 それで結果はどうなのでしょうか。

 私はあの絵を見られるのですか」

「それについては誠に申し上げにくいのですが、不可能であると言わなければなりません」

「なぜです! あれを描いたのは私です。

 所有者だって今はいないはずだ。

 どうして私があの絵を見ることができないのですか」

 マイクが声を荒げても研究者は落ち着き払って言った。

「まず第一には、あなたの身の安全のためです。

 あなたは二年の間この研究所にこもり、世間から身を隠してきた。

 そのあなたが自らが描いたあの絵を見に戻るという情報がもし漏れたら、大変な騒ぎになることは想像に難くありません」

「私はただの画家ですよ。

 マスコミや野次馬にもみくちゃにされることは確かに嫌ですが、さすがに二年も経っているのですから少しはほとぼりが冷めているのでは」

 マイクがそう言うと研究者は首を振った。

「それが、そうでもないのですよ。

 特に地球においては。

 一度あなたの絵を見た人々の多くが、政府によってあの絵が事実上の封印状態にあることに非常に腹を立てているのです。

 中には神への冒涜だと言って政府の施設に対して破壊工作を行う者まで出る始末です。

 そんな中にあなたが出ていけば、彼らの教祖として祭り上げられるか、はたまた神の領域を侵す者として暗殺されるか、我々には予想もつきません」

「教祖ですって? そんな馬鹿な」

 マイクは笑い声を上げたが、研究者は無表情に続けた。

「仮に最大限の注意を払って行動し、あなたが外部の人間に知られずに地球まで行くことができるとしましょう。

 しかしそれでもまだ問題はあります。

 それは現在の地球政府と月政府の関係悪化を招きかねないということです。

 先日、月政府の人間が訪ねてきましたね」

「ええ。

 私の絵をネタに観光客を呼び込もうという算段だそうで」

「その通り。

 月政府にとってあなたとあなたの絵は独立のための重要な武器であると言えます。

 それをみすみす地球に送るということ自体、月政府にとってはリスクと言えるでしょう。

 というのも現在、地球は月の独立には否定的なのです。

 月政府としてはあなたを地球に帰らせてそのまま帰りたくないと言われたら困るし、地球側もあなたが月へ戻るのを黙って見過ごしてはくれないでしょう。

 月政府の独立を阻むためなら、何かしらの理由をつけてあなたを地球に拘束することは十分に考えられます」

「たかだか画家一人を巡ってご苦労なことだ」

「お気の毒ですが、あなたはすでに月と地球の双方にとって重要な駆け引きの材料なのです。

 これ以上両者の関係が悪化すれば、テロや武力衝突なども起きないとは限りません。

 研究所としても月政府としても、そのようなリスクを犯すことはできないとの判断です」

 マイクは立ち上がって部屋の中をいらいらと歩き回った。

「理屈はわかります。

 しかし、私にはあの絵が必要なんだ。

 あなた方も私に次の絵を描いて欲しいのでは? 違いますか?」

 研究者は頷いた。

「正直に言えば、そうです。

 あなたがあの絵と同等かそれ以上の絵を描くことができるならば、私たちにとってももちろん喜ばしいことですし、当然月にとって、いや人類にとって非常に価値のあることでしょう。

 ですが、そのためにあなたに危害が加えられるようなことになっては元も子もないのです」

「私はあの絵の作者だ。

 それなのに一目見ることもできないなんて!」

「お気持ちはお察ししますが、われわれにはどうすることもできません。

 政府も何か方法がないか検討するとは言っていますが、あまり期待はなさらない方が良いでしょう」

 一礼して研究者は出て行った。



 マイクは憮然としたままベッドに体を横たえた。

 別にあの絵を見たからと言って次の絵がかけるとは限らないのだと自分に言い聞かせようとした。

 だが、無駄な努力だった。

 彼にはもはやあの絵を見ないことには何も描けない気がした。


 目を閉じるとあの絵の漠然とした色彩やイメージは浮かんだが、細部はどうしても輪郭がぼやけたようになってしまう。

 そこを注視しようとすればするほど記憶は溶け出し、やがて全体像すらあやふやになっていく。

 人々は一体あの絵の何にそこまで狂乱するのだ? 彼は今更ながら訝った。


 自分があの絵を書き上げた時にも予感はあった。

 これは大変な力を持った絵であると。

 それが良いものか悪いものかはわからないが、必ず人を惹きつけるものであろうと。

 しかし人々の熱狂は彼の想像を遥かに超えていた。

 自分はあの絵を完成前から見続けていたから、耐性のようなものができていたのだろうか? それともあの絵は神か悪魔が自分に乗り移って描いたものだったのか?

 彼は夕食を取るのも億劫になり、そのまま目を閉じた。

 もしできるなら夢の中であの絵の姿を捉えたいと思ったが、叶わない望みであることは分かっていた。



 ふと奇妙な振動を感じて目が覚めた。

 どこか遠くで何かが爆発したようなくぐもった音が響いている。

 マイクはベッドから跳ね起きた。


 音は断続的に続き、やがて部屋の前で複数の人間の足音が聞こえた。

 呼び出し音がなる。

 マイクが扉を開けると、黒づくめの格好に顔の見えないヘルメットをかぶった男たちが銃を手に部屋の中へと入ってきた。

 そのうちの一人がヘルメットのバイザーを上げてマイクへと歩み寄った。

「マイク・アイゼンバーグ先生ですね」

 マイクは内心、また「先生」だ、とうんざりしながらも頷いた。

「ええ、私がアイゼンバーグです。

 あなた方は一体……?」

「我々は地球のある団体から派遣されてきました。

 詳しくはお話ししている時間がありませんが、あなたを地球へと連れて帰るのが我々の目的です。

 一緒に来ていただけますね?」

「待ってください。

 急にどういうことです? あなた方はここの研究所とはどういう関係なんですか。

 それにさっきの音は一体?」

「気にすることはありません。

 全ての手はずは整っています。

 先生にはこれから我々と共に地球へと出発していただきます」

「待ってください。

 地球に行くのは無理なんです。

 少なくとも月の政府は……」

 マイクの言葉を遮って、男ははっきりした声で言った。

「あの絵を見たくありませんか?」

 瞬間、マイクは全ての疑惑を棚上げして男を見た。

 男の声は厳かに響くようにマイクには聞こえた。

「あなたはそれに答えるだけで良いのです。

 自分が描いたあの絵を見たいと思いませんか?」

 マイクは目の前の男とドアの前に立っている黒づくめの男たちを見た。

 彼らの素性がどうであれ、その質問に対する答えは決まっていた。


 マイクは頷いた。

「見たい。

 私はあの絵をもう一度見たい」

 そう答えた瞬間、目の前の男がマイクの腕を取り、何かを注射した。

 急速に意識が遠のいていく。

 ふらつく体を誰かが受け止める。

 マイクが最後に見たのは、扉の前の男の一人が部屋の外に向かって銃を構えた姿だった。

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