5. 進化
自分は眠っている。
マイクは暗闇の中で突然はっきりとそう思った。
なぜなら周りを見回すことはおろか、指一本動かすことすらできないからだ。
それでも意識だけははっきりしている。
昼間聞いたクリフ博士の言葉が蘇る。
睡眠とはより純度の高い精神のみの活動なのだ……。
突如、真っ白な光がマイクを包み込んだ。
正確には、マイクは自分が光に包まれたと感じた。
熱、眩しさ、白、無垢、清浄。
そうしたイメージが流れ込む。
いつの間にか彼は何もない白い空間に立っていた。
昼間クリフ博士とあの絵を見た部屋も周囲は白に囲まれていたが、今度は白というより無に近いとマイクは感じた。
もちろんこれが夢か幻想であることは理解していたが、それにも関わらず自らの意識があまりにもはっきりとしていることに彼は戸惑った。
「あなたは今、夢を見ている」
知らない男の声がした。
いつの間にか一人の男がマイクの目の前に立っていた。
男の顔を見た瞬間、彼は直感的にその正体を理解した。
「あなたは適応者か。
昼間見た実験の映像に映っていた男だ」
「その通りだとも言えるし、そうではないとも言える。
今あなたが見ているこの姿を作っているのはあなた自身だ。
これはあなたの夢なのだから」
男は黒い肌に白い衣を纏っていた。
男の体やその衣から光が発せられているようにマイクには感じられた。
「あなたは私の夢が作り出したものなのか?」
「それは違う。
私は——いや、我々は——確かに存在する。
我々はこれまで多くの知識を得て、より深い学びを繰り返している。
精神への感応はその中でもごく初期の段階で得た力だ。
あなたの絵がもたらしたものの中で最も単純かつ重要な力だった」
「それで、私に何の用かな」
「あなたは選ばれた人間だ。
これから我々が為すことの意味を知る権利があり、それを他に伝える義務がある」
男がそう言うと、周囲の風景が灰色に染まった。
地面はゴツゴツした岩肌になり、空は暗闇に覆われた。
そこかしこにドームに覆われた無機質な構造物が立ち並ぶ。
現在の月の風景だった。
男は大きく手を広げた。
「まもなく我々は月の人間を我々に同化させる。
月にいる全ての人間は我々と同様の存在に変化し、後に一つの存在として統合される。
統合が完了したのちには、我々は旅立つことになるだろう」
「どういうことだ。
月にあの絵を持っていくとでも言うのか」
「その必要はない。
我々はすでにあの絵が秘めていた力の、その根源に辿り着いている。
我々が直に干渉すれば、月の人々は数時間とかからずに変化を完了する。
適応できないものも今の月面にはいない。
すでに我々は人々の意識に干渉し、我々に適応できるものだけを月に集めていた。
犠牲者は出ない」
「なぜだ。
なぜ月の人々を変化させようとする」
マイクが問うと、男は空に手を翳した。
「今の我々は不完全だ。
我々は個という段階を抜け出し、ひとつの存在として統合しなければならない。
だが、変化した者の総数が少ないために統合に不可欠な情報量が不足している。
ネットワークも細く貧弱だ。
未だに微かではあるがそれぞれに自我を持ち、肉体という枷すら脱することができていない。
だが、月の人間を全て変化させネットワークを結べば、統合に必要な情報量に足るだろう」
「月の人間を取り込んで、ひとつの大きな精神の塊になるということか? それがあの博士の言っていた進化なのか?」
「そうだ。
少なくともあなた方の理解の及ぶ範囲ではそういうことになる」
「どうして月の人間なんだ」
「残していく旧人類のためだ。
我々は旧人類のことを憎んでいるわけではない。
月から人間がいなくなれば、月と地球の諍いはそれで終わる。
あなたたち旧人類もそれを望んでいるはずだ」
男はマイクに背を向けて歩み去ろうとした。
マイクは男の背中に向かって声をかけた。
「待ってくれ、私も一緒に行くことはできないのか」
男は振り返って首を振った。
「あなたを変化させることはできない。
あなたも知っているはずだ。
あなた方がアーティファクトと呼ぶあれを作り出した者は変化の外にいる。
そういった意味でもあなたは選ばれた者なのだ」
「選ばれたって一体どこの誰にだ。
なぜ私なんだ」
「あなたであることに意味は無い。
あなたはただ選ばれた。
仮にそこに何かの意思や力が介在していたとして、それについてあなたが理解することも認識することもできない。
何かしらの比喩があなたを納得させられるなら、こう言ってもいい。
神は一人の人間を選ぼうとしていた。
その時たまたま目に留まったのがあなただったのだ。
隣の人間が選ばれる可能性もあったし、そうなっていたとしても結果は一緒だった」
マイクの頭には工場のネジのイメージが浮かんだ。
何万、何億と生産されていく同じ姿の製品。
流れていくベルトコンベアの上で、それらのうちいくつかがサンプルとして選ばれる。
どれを選ぶかという基準などない。
検査官にとってはどれも同じネジに過ぎない。
完全なランダム。
その哀れなネジが自分だ。
「あなたたちは旅立つと言った。
一体どこへ?」
「行くべき場所だ。
我々にはそれが分かる。
あなたの想像のおよぶ場所ではないだろう」
去りゆく男の背中を見ながら、マイクの口からは自分でも予想しなかった言葉が飛び出した。
「あなたたちはそれで幸福なのか?」
マイクの問いかけに、男は振り返って無表情のまま彼をじっと見つめ、やがてゆっくりと頷いた。
「あなたがた旧人類の理解できないほどに」
マイクはゆっくりと目を開けた。
時刻を確かめると、夜明け前だった。
自動調節された照明が部屋の中を薄暗く照らした。
彼は唐突に朝日を見たいと思った。
恐らく許可は下りないだろう。
しかし、今すぐでなくともやがては見られるようになるかもしれない。
みんな月のことで手一杯になるはずだ。
太陽のことなど放っておいてくれるに違いない。
ゆっくりとコーヒーを淹れた。
最新式の設備だが、結局味は大差ないのではないかと思った。
椅子に座ってまたあの絵のことを思った。
あれはきっと福音でも呪いでもなかったのだ。
そんな評価は誰かの主観でしかない。
きっとあれは人類がこの地球に誕生した瞬間からいつかは生み出されることが決まっていたものなのだろう。
人類が進化するための起爆剤。
人類が人類として最後に行き着く終着点をさらに超えていくためのもの。
あるいは何か大きな力が——人間の理解を超えた高次の存在が、人類を引き上げるためにもたらした力なのか。
くじが当たるように全く偶然に、自分がそれを形にする仕事を仰せつかった。
もしも私がやらなければ、他の誰かが同じような力を持つものを作り上げていた。
運命と偶然もまた、結局は観測者による主観的評価に過ぎないのだ。
コーヒーを飲み終わる頃、にわかに廊下の方が騒がしくなった。
部屋のドアをノックしてクリフ博士が入ってきた。
博士は険しい目つきでマイクを睨んだ。
「あなたは一体何をした」
マイクはゆっくりと首を振った。
「私は何もしていない。
私は絵を描いただけです。
自分が素晴らしいと思えるものを。
一体どうしたのですか」
「月で何かが起こっている。
これまで観測したことのない何かが。
呼応するように、ここにいる適応者にも異変が起きている。
今こうしている間に月で何が起こっているのか、私たちには想像もつかない」
「彼らは月の人々と共に旅立つそうです。
行くべき場所へ。
急なようにも感じられますが、たぶん前々からこうなることになっていたんだ。
我々は置いていかれるようです」
「……信じられん」
クリフ博士はぶっきらぼうに呟いた。
次の瞬間、彼は白衣の下から拳銃を取り出してマイクに突きつけた。
「あなたには一緒に来てもらわなければならない、マイク・アイゼンバーグ」
「今更なにをしようっていうんです、クリフ博士。
月の人々の変化は始まっているのでしょう? あなた方は人類を進化させるのが目的だったのでは? それともあなた自身が進化するものたちの中に含まれていないことが不満なのですか?」
「進化の時期は我々が決める。
少なくともこんな不意打ちのように始まるべきではない」
二人はしばらく動かずにらみ合った。
マイクは相手の中に嫉妬と恐れが渦巻いているのが感じられた。
おそらくクリフ博士はマイクが指摘したように、自分が進化に取り残される側になったことを認めることができないのだろう。
だがそれと同時に彼の中には進化という現象への恐怖もまたあるのだ。
特に彼は研究を通して多くの人間が変容していくのを見てきたはずなのだから、その恐怖は誰よりも大きいのかもしれない。
マイクは銃を突きつけられながらも、目の前の男を哀れに思った。
やがて部屋の外から足音が聞こえ、クリフ博士は拳銃をしまった。
若い研究員が走ってきて、クリフ博士に何事か耳打ちすると、彼は頷いた。
研究員が戻っていくと、クリフ博士はマイクの方を振り向いた。
「アイゼンバーグ。
一緒に来るんだ」
「何をするつもりですか」
クリフ博士は苦々しく言葉を吐き出した。
「月の人々の進化を止めるのだ。
それが可能なのはあなたしかいない」
マイクが夢で会った男が計器につながれ、ベッドに縛り付けられている。
その横に簡易ベッドが設置され、マイクはそこに仰向けになった。
その横にクリフ博士が立ち、彼に話しかけた。
「これからあなたには適応者のネットワークにアクセスしてもらう」
「そんなことが可能なのか?」
「実験は済ませてある。
と言っても現段階では彼らのネットワークへ一方的に信号を送るのが精一杯だ。
要するに彼らがあなたを受け入れ話を聞いてくれるか、それとも門前払いされるかは彼ら次第ということだ」
「後者の場合、一体どうなる」
「その場合、あなたの精神は闇の中を彷徨い続け、月の人間は適応者たちに取り込まれ、残された我々旧人類は進化の袋小路に置いてけぼりといったところだ」
「なるほど。
では首尾よく彼らのネットワークへアクセスできたならそのあとは?」
「彼らを説得して今しようとしていることをやめさせればいい。
進化のタイミングは人類自身が決めるとね」
「彼らが従わなかったら?」
「終わりだ」
クリフ博士が片手を上げて合図すると、マイクの意識は急速に暗闇に飲まれていった。
気がつくと、マイクの足元には光が流れていた。
まるで川の中に立っているかのようだが、押し流されるようなことはなかったし、その川は上に向かって流れているようだった。
川を除いた周囲は暗闇で、その中に点々と光が見える。
まるで天の川の中に立っているようだった。
光の川は緩やかな傾斜があり、高い方に向かって時折光の粒が走っていった。
マイクはひとまず流れに従って上の方へと歩いていった。
しばらく登っていくと、一人の女が立っていた。
彼女もまた実験映像の中で見かけた顔だった。
「もうすぐお別れだから見ていたのです」
彼女が指差す方を振り向くと、はるか後方に灰色の巨大な月と、さらにその後方に色あざやかな地球の姿が見えた。
マイクが女の方に向き直ると、すでに女の姿は消えていた。
また少し登ると、今度はメガネをかけた金髪の男が立っていた。
「不思議な気分だ。
子供の頃にベッドの中で似たような気分になったことがある気がする」
「一つに統合されるというのはどういう気分なのですか。
嫌ではないですか」
「よくわからない。
でも、そうあるべきだという気がするし、ひとつになった後ではそんなことを気にすることもないのだろう」
金髪の男の姿も消えていた。
また少し登ると、周囲から青白い光が立ち上り始めた。
気付いた時には月ははるか後方に遠ざかり、暗闇の中の光の点は見えなくなっていた。
黒い肌に白い衣をまとった男がマイクを待っていた。
「その格好は、私が夢の中で勝手に作り出したものだと思っていたよ」
「その通りだ。
今の姿も同様にあなたが作り出しているものだ。
あなたが理解しやすく、受け入れやすい姿だ」
「では今見ているこれは、白昼夢のようなものなのかな」
「夢と現実の境は曖昧だ。
今の我々には、そして今のあなたには、それらの違いは意味をなさない」
「あなたは私がここに来るのを待っていてくれたみたいだが」
「旧人類は我々が行くのを止めたいようだ」
マイクは頷いた。
「人類は恐れている。
変わってしまうことも、自分が自分でなくなることも。
あるいは自分が進化できずに置いていかれることも」
男は首を振った。
「だがこれは止めることのできない流れだ」
「だろうね」
「変化させているのは皆これから起こることを受け入れた人間だ。
月にいる全ての人間が、進化し我々と同化することを受け入れた」
「拒んだ者は一人もいないと?」
「そうだ。
初めは困惑する者もいたが、やがては受け入れた。
進化とはそういうものだ。
大いなる流れに逆らうことはできないし、一度歩みを始めれば、その正しさに気がつく。
気がつくことのできる人間を、我々は月に集めたのだ」
「残された旧人類はどうなるのでしょうね」
「これまでと変わらない。
地球でそれぞれの生を営んでいくだろう」
「旧人類は進化の袋小路に入ってしまったということでしょうか?」
男は首を振った。
「それは違う。
我々と同じ進化を辿れないというだけだ。
人々が進歩を諦めない限り、その先には常に道がある。
我々にすら知り得ない道が」
マイクは男の顔を見つめた。
彼に表情はなかったが、冷たい印象は受けなかった。
男の言葉を信じるしかないのだろうと思った。
ふと足元にこれまでなかった赤い光が走った。
同時に足元の光の流れが止まった。
「上出来だ、ミスター・アイゼンバーグ」
マイクが振り返ると、クリフ博士が立っていた。
「どうしてここに?」
「あなたの信号を利用して私もここに入らせてもらった。
もとよりあなたが彼らを説得できるなどと期待してはいない。
私が欲しかったのはこのネットワークへのアクセス情報だ」
そう言うとクリフ博士は新人類となる男に詰め寄った。
「私の足元に見える赤い光が何かわかるかね」
「何らかの信号のようだが。
人間の放つものだが、内容は人為的な加工が行われている」
「正解だ。
このネットワークに流し込むために私の脳波に埋め込んだ、これはいわばコンピュータウィルスのようなものだ。
私自身がここまで辿り着いた以上、これを使えばこのネットワーク自体を瓦解させることも可能なはずだ」
男は無表情にクリフ博士を見返した。
「もう進化は始まっている。
あなたのそのウィルスひとつでそれを止めることなどできないだろう。
仮にそれが可能だとして、その先にあなたは何を望む」
「人間の進化は人間の手に委ねられるべきだ。
望まない者を洗脳し無理矢理引き込むようなものであってはならない」
「あなた自身は研究の名の下に、多くの人間を進化させようと実験を繰り返してきたようだが」
「研究のためだ! 人類進化のために必要だった!」
今やクリフ博士の足元からは赤い光が溢れ、彼自身の輪郭がぼやけ始めていた。
マイクは男に向かってつい数時間前にもした質問を繰り返した。
「あなた方は幸福なのか?」
男はマイクをまっすぐに見つめ、頷いた。
「我らは幸福だ。
進むべき道を進んでいる。
その思いがあってこそ、月の人間たちも変化に同意したのだ」
マイクは男とクレフ博士の間に割って入った。
「クレフ博士。
もうこれ以上は私たちの手には負えるものではないでしょう。
彼らの進化はもう始まっていて、彼ら自身もそれを望んでいる。
それを邪魔するのはあなたのエゴでしかない」
「あなたはなぜ落ち着いていられるのだ、アイゼンバーグ! 我々は置いていかれようとしているのだぞ! 彼らはあなたの絵で勝手に進化をはじめ、そのくせ恩知らずにも旧人類を地球に残し、自分たちは宇宙の果てに飛び立っていってしまうつもりだ!」
喚くクリフ博士を尻目に、男は告げた。
「時間だ。
もう間もなく統合は完了する」
「ならば私も連れて行け!」
「それはできない。
あなたもそれを知っているはずだ。
あなたもまた進化の道標となるものを作り出した人間のうちの一人だった」
「違う! 私は……。
私の作ったあれは……。
あれはここにいる男の作り出した絵とは違う。
アーティファクトと呼ぶにはあまりに貧弱だった。
あまりにも……。
あんなもので、あんなものひとつ作っただけで私の進化の道が途絶えるなどありえん! 私は……私は進化する! 人類を先導する新たな人類となる! その資格が私にはある! モルモットでしかないお前たちではなく、この私に!」
クリフ博士の足元から赤い光があふれ出し、まるで川に血を流し込んだかのように光の流れを染めていく。
男が片手を光にかざすと、赤い奔流はその勢いを衰えさせたが、クリフ博士が呻くと再びジリジリと光を侵食しはじめた。
「進化するのはこの私だ!」
マイクは睨み合う二人の男を見比べた。
彼もまたクリフ博士と同じく自分が進化のできない人間であることを知っていた。
しかし彼はクリフ博士のように新人類の旅立ちを妨害しようとも、自分が進化したいとも思わなかった。
彼はただ、無性に絵が描きたいと思った。
進化のための道具などではなく、今までの人生で自分が追いかけ続けていたような、純粋に美しいものを形にすることへの欲求が膨らみつつあるのを感じていた。
それは彼の絵描きとしての、そして一人の人間としての本能だった。
マイクは深呼吸すると、クリフ博士に向かって言った。
「もういいでしょう。
あなたが彼らの邪魔をしたところで、あなたが進化できるわけではないはずだ」
「黙れ。
あんたは何もわかっていない。
彼らという種が進化を果たす以上、それ以外の存在は種としての役目を失うということになる。
そうなったら——」
喚き続けるクリフ博士を無視して、マイクは新人類の方へ目を向けた。
「残った旧人類も幸福になれるだろうか?」
新人類はゆっくりと頷いた。
「歩みを止めない限りは」
「そうか。
では、どうか良い旅を」
マイクはそういって微笑むと、クリフ博士に飛びついた。
二人はバランスを崩して光の川に沿って坂を転げ落ちた。
クリフ博士は何かを大声で叫んでいたが、マイクは黙って目を閉じた。
やがて博士の声も聞こえなくなっていき、マイクは暗闇の中を落ちていった。
彼の頭の中に、新人類の声が響いた。
「あなたは我々の進化の礎となった、いわば恩人だ」
「恩人か」
マイクは小さく笑い声をあげた。
「新人類になってもそんな概念が残っているものなのか」
「むしろこれからの我々にはそうした慈しみの概念がなにより重要なのだ。
心があるから我々は生きていられる。
存在が規定される。
複雑な感情や愛を有することこそ高度な知的生命体の証だ」
「今のその言葉は私の頭が作り出したものかな」
「そうであるとも言えるし違うとも言える。
我々があなたに伝えている概念やイメージをあなた自身が理解できる形に翻訳しているようなものだ」
「そうか。
それでもまあ悪くない言葉だったよ。
新人類は少なくとも嫌な奴というわけではなさそうだ」
マイクは大きく息をついた。
たとえこれから残された旧人類の間でどんな混乱が起こり、その後にどんな未来が待っているにせよ、新人類の言葉は彼に幾らかの希望を抱かせた。
もし自分に子供がいれば、その彼か彼女が自分の元を巣立っていくときにはこんな風な希望を感じるものかもしれないと想像した。
「それで、私は何かお礼でも貰えるのかな」
「我々はあなたの望みを叶える。
我々に可能なことであれば、どんなことでも」
「どんなことでも、か」
マイクは自分が何を望んでいるのか考えた。
浮かんできたのは、自分が朝日を見ている光景だった。
どこか自然に囲まれた場所で、彼は地平線の向こうから昇る朝日を見ていた。
彼はその光景を絵に描きたいと思った。
誰もがそれを見に世界中から殺到するような絵ではなく、どこかの町の駅にでもかけてあり、道ゆく人々がほんの少し見上げて眺めているような、素朴な絵で良い。
「我々はもう行こう」
新人類は告げた。
「我々は我々を統合し、ひとつの存在となる。
それが我々が進むべき進化の道筋であると知っている。
そして我々は新たな世界を知り、さらなる知識を得て、無限に進化を続けるだろう。
だが同時に我々は永遠に記憶する。
我々がかつて地球という星に生まれ、有限の時間を生きていた生物であったことを」
暗闇の中にわずかに光がさした。
マイクは彼らが無限の宇宙へと飛び立っていくところを見た気がした。
あるいはそれも彼が頭の中で生み出した映像だったのかもしれない。
窓の外から鳥の声が聞こえて、マイクは目を覚ました。
ゆっくりとベッドから起き上がり、伸びをする。
もう月にいた頃のように鳥の声を止めることはできないが、不満を感じることはない。
骨董品店で見つけたコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。
彼の寝泊まりしている小さな小屋の中を柔らかな香りが満たす。
朝食を摂りながら新聞を読む。
今彼がいるこの山奥の農村ではいまだに紙の新聞が届くのだ。
新聞では突如無人になった月の復興計画の策定が難航していることを伝えていた。
月から人間がいなくなったことについて、地球では様々な説が飛び交っている。
地球の企業に対するボイコットのため地下に潜んでいるという説や、宇宙人にさらわれたという説。
人喰いバクテリアによって溶かされてしまったのだと主張する者もいた。
おそらく真実を知っているのは、マイクと彼の絵を保管しているあの組織の人間だけなのだろう。
新人類が進化を終えて旅立っていったあの日、マイクは気がつくと山奥の小屋にいた。
一瞬、またどこかの組織に囚われたのかと思ったが、次の瞬間、まるで劇の台本を渡されたように、自分の置かれた状況を理解した。
どうやったのかはわからないが、この場所は新人類がマイクのために用意してくれたものなのだ。
マイクは恐る恐る小屋のドアを開けて外に出た。
ちょうど山の向こうから朝日が昇り始めていた。
マイクはまた絵を描き始めた。
もうあの絵のような——アーティファクトと呼ばれるような——ものはたとえ作り出したくても作れないだろうと彼は知っていた。
それが人類にとって幸か不幸かはわからないが、少なくともマイクは安心して絵を描くことができた。
どこにあるのかわからないあの研究所の人々は、そしてクレフ博士は、今もあの絵を研究しているのだろうか。
でもそれも結局は徒労になるのだろう。
きっと人類の中に眠る進化の因子のようなものを新人類たちは持って行ってしまったのだ。
なぜだかマイクにはそれがわかった。
新人類は今どこにいるのだろう。
太陽系を抜け出し、無限の宇宙をさまよっているのか、それとも宇宙のその先まで行くのだろうか。
はたまた次元を超えて私たちの想像も及ばない世界を旅しているのか。
マイクは彼らの幸福を願った。
彼らには心があった。
旧人類が理解している心とは構造が違うのかもしれないが、それでも彼らが私たち旧人類の息子たる存在であったのは確かなのだ。
マイクは絵筆を動かしながら、残された人類の行く末に想いを馳せる。
私たちは進化できなかった人類かもしれない。
だが、本当にそうだろうか。
新聞には新型ロケットによる火星探査の計画についても載っていた。
人間は今も進歩し続けているのだ。
旅立っていった新人類に比べれば圧倒的にゆっくりとした歩みだろうが、進化には違いない。
進化の道筋がひとつとは限らない。
どれほど時間がかかるかはわからないが、地球の人類が宇宙のどこかで新人類に再会する日が来ないと、誰が断言できるだろう。
私たちには私たちなりの進化の仕方があるはずだ。
そして私は絵を描いている、とマイクは思った。
人間を進化させるための劇薬ではなく、人々を感動させるための絵を。
どんな芸術も芸術として愛でることができるまま、進化したいものだ。
彼は絵筆を置いた。
黒い肌に白い衣をまとった男が、キャンパスの中から穏やかな表情でこちらを見返していた。
お読みいただきありがとうございました。
実はこの話を書いたのはもう三年くらい前で、今読むと当時自分が読んでいたものが分かってしまいますね。
有名な複数の古典SF小説やSCPあたりの影響を受けているのが丸わかりです。
あえて名前をあげてしまいますが、『幼年期の終わり』からはあからさまに影響を受けています。
『幼年期の終わり』のラストは衝撃的なものですが、しかし読者はなんというか(カレルレンたちと同じように)残される側の人間なので、自分達はこのラストをどう考えればいいんだろうと感じたことが今回の小説の下敷きになっています。
また、作者自身が人類や社会の未来について割と楽観的な人間なので、人類は歩みの速度こそ遅くともきっと前に進み続けているだろう、というラストになりました。
ある程度希望の残る結論にできたのではないかな、と思います。
初投稿ながらなかなか長い作品になりました。
既に他の作品も投稿していますので、そちらもお読みいただけると嬉しいです。
ありがとうございました。




