14 ベリア・コグニスの悪夢
ぽつぽつと壁の燭台に灯る火が、扉の開閉で起きた風に揺れる。
たった今、青い顔で下男が去って行った扉を彼女は見つめ、小さく息を吐き出した。
「だから言ったのに。あの家に乗り込んでも無駄だって」
蝋燭の慎ましやかな灯りしかない薄暗い部屋の中で、彼女の紅い瞳は炎のようにきらめく。感情が見えないその瞳は、見る者の背筋をぞくりと冷たくさせる。
お仕着せを着た彼女の猫のように油断ならない目が、部屋の奥、立派な椅子に腰掛ける男に向いた。
四十絡みの男だ。仕立ての良い衣服を身に付け、下っ腹の出ただらしのない体型をしている。
男は苛立たしげに顔をしかめ、彼女を睨んだ。
「フン、ならばお前に良い案があるとでも言うのか?」
「あるよ。金を払うんなら協力してやってもいい」
間髪無く言った彼女に男は目を瞠り、狡猾に笑った。
「珍しいな。『客』の揉め事には首を突っ込まないんじゃなかったのか?」
――揉め事。
息子が一人の令嬢に熱を上げて暴走し、不埒な真似をしかけたところを別の令嬢に見つかった。
襲われた令嬢も目撃した令嬢も息子の名前をあげることはしなかったが、家の名誉を傷つけないためにも、自分に火の粉が降りかからないようにするためにも、息子が捕まるような事態を、男は避ける必要があった。
一人は名のある伯爵家の令嬢なので手出しはしにくい。が、もう一人、目撃者の令嬢の方は、ほとんど名前を聞いたことのない伯爵家の娘だ。簡単に片が付くはずだった。
――しかし、今日に至るまでに成果はない。
令嬢が懇意にする子爵家の令息が騎士よろしく彼女を守っているのだ。
先程、下男が持ってきた報告も、大枚を叩いて雇った刺客のほとんどが捕まったという悲惨なものだ。
役立たずばかりだと男はもう何度となく愚痴をこぼしていた。
「普段はね。でも今回は特別。わたし個人なら動いてあげる」
真っ赤な唇を持ち上げ、彼女は毒々しい笑みを見せる。
男はその迫力に一瞬怯み、しかしそれを隠すようにせせら笑い、彼女の手首を掴んで強引に引き寄せた。
「お前個人に何ができる? 色仕掛けか? 通用しないだろうな。何せ相手は女だ」
「わたしはあの女のことを知ってるの。彼女を守る男のこともね。……ええ、忌々しいぐらいに知ってる」
彼女はつまらないものを見るように、凍てついた瞳で男を見返した。くるりと手首を返し、掴まれた手を取り戻す。
男は困惑を顔に浮かべた。
「知ってる……? 何故お前が――」
女は隣国の人間だ。滅多に行き来のない物騒な国の住人。それが何故、この国の、それも取り立てて目立つところのない貴族の娘のことを。
男はそう問おうとした。しかし。
――冷たい感触。
袖に仕込んだ小さなナイフが男の太い首筋にピタリと当てられていた。
「あまり不快なことを言うなら、処分するわよ」
平板な声には殺意も敵意もこもっていない。悪意すらない。女は日常の延長線上のような気軽さで刃物を急所に向ける。事実、こんなことは彼女にとって日常だった。
「――ひ」
興味も感慨もない冷たい瞳に男は小さく悲鳴を上げ、息を呑んだ。もしこれ以上不用意なことを言えば彼女は、少しの躊躇も無く、その刃で自分を傷つけるだろう。そう男に確信させるだけの十分な迫力があった。
男は額に汗を滲ませ、ゆっくりと両手を挙げ、降参のポーズを取った。
「……分かった。お前に頼むとしよう」
「ええ。お任せを」
彼女は猫を思わせる紅い瞳を細め、うっそりと笑った。残忍さの滲む、酷薄で美しい笑み。
悪魔のような笑みだ、と男は背筋を震わせた。
「またあなたに会えるのが楽しみだわ――ベリア」
*
びくり、と身体が揺れてベリアは跳ね起きた。
喉の奥がひりつき、目尻には涙がたまっていた。
また夢を見ていたのだろう。あの時の夢を。
隣で一緒に眠ってくれていたメイドのエマがむくりと起き上がる。彼女はぐしぐしと目をこすって眠たそうなあくびをする。
「んー……ベリア様?」
「あ、ごめんね、起こしちゃって」
「いえいえ。私はベリア様を守るためにいるので。悪夢からも守りますよー……んー……」
ふわふわとした呂律の回らない口調は、どう聞いても寝惚けている。
「あー……ベリア様、汗だらけですね。お着替えしましょうかー……」
「わわ、大丈夫だから。自分で着替えできるから。あなたは寝てて」
とろりとした起きているのか眠っているのか怪しい目つきで寝間着を脱がされそうになり、慌ててその手を押しとどめた。よいしょと彼女を押し倒して布団を掛けると安らかな寝息が聞こえてくる。
ベッドから這い出て、ふぅと息を吐く。
間借りしている部屋だが、もう大分物の位置を覚えた。暗闇の中でも寝間着の入ったクローゼットがどこにあるのかだいたい分かる。うっかり大きな物音を立てたり転んだりしないように気をつけながら、部屋の隅にあるクローゼットまで辿り着き、寝汗でべたついた服を着替えた。ワンピースタイプなので、すっと脱いですっと着られる。
「……」
ベッドに戻ろうとした足をふと止める。
変に目が冴えてしまって、眠れる気がしなかった。
それに、今寝てもまた悪夢を見て飛び起きるだろう。
(喉、渇いたな……)
前もこんなことがあったような、と思いつつ、ベリアはこっそり部屋を出た。
真っ暗な廊下はしんと静まり返って、人気がなかった。けれど、夜の間も警備についている人間はいるだろう。ルースの家がそんな杜撰な防犯なわけがない。
だからベリアは襲われた後だというのに、たいして恐れることもなく廊下を歩いて行くことができた。
目指す場所は厨房。
お弁当を作るために厨房は行き慣れている。迷うこともなく、辿り着いた。
何か温かいものが飲みたかった。
調理用のかまどに火をおこし、ゆらゆらと火が大きくなる様を見つめているときだった。
――背後から足音が聞こえた。
気のせいでなければ、その音は近づいて来ている。
警備の人間だろうか。だが、こんな遅くに厨房に何の用が。自分を追ってきただけだろうか。いや、それなら何故さっさと声をかけない?
どくどくと心臓が血流を加速させ、額に冷や汗を滲ませる。
今更になって一人で出歩くことの迂闊さに気がついた。
(どう、しよう……)
こういうときのじわりじわりと這い上がってくる恐怖は苦手だ。
唐突に目の前に危険が迫れば、考えるより先に身体が動いてくれる。けれど、なまじ考える時間が与えられると、ベリアは怯む。
身をすくませながらも、息を殺す。が、暗闇の中ではかまどの火は明るく目立つ。誰かいることはすぐに分かるだろう。
ベリアの恐怖を増長させるように、足音はゆっくりと近付いて来る。
――そして。
「――ん? 誰かいるのか?」
聞き慣れた声が響いた。
ベリアは勢いよく振り向き、足音の主を改めて確認し、安堵の息を吐き出した。
「なんだ、ルースかぁ~」
「ああ、ベリアか――って、おまえ一人か?」
ほとんど同時にルースもベリアに気がつく。
つかつかと歩み寄り、周囲を見回したルースは眉を寄せて苦々しい表情になった。
「なんで一人でうろついてるんだ、おまえは。さすがに今日はもうないと思うが、一応命を狙われてる自覚はあるか? いつ襲われるかなんて分からない。ここに来たのが俺じゃなくて内部に入り込んだ刺客だったらどうするんだ」
ルースの声はいつもより数段低い。夜だから周囲に気を遣っているというより、単純に機嫌が悪そうだ。
(……寝不足なのかな?)
もしくは疲労が溜まっているのかもしれない。
最近のルースは忙しそうにしている。少し気になることがあって調べ物をしているのだとか。ベリアには詳しく教えてくれない。
ベリアを守るために近くにいるのだって、普通にしているように見えて実は気を張っていたのかもしれない。
「……ごめん、ルース」
ルースは優しい。優しいけれど、器用ではないのだ。優しさのせいで、必要以上の負担を背負い込む。ひょっとしたら本人は負担とまでは思っていないかもしれないけれど。
ルースの許容範囲は狭く見えてとても広い。決して甘やかすことはしないけれど、見捨てもしない。そういうところが優しくて不器用だとベリアは思う。
「ん、珍しく反省しているな……反省は活かせよ」
ベリアのしゅんとした態度に気勢を削がれたのか、ルースは長々と説教することはしなかった。
「で、火を起こして何をしてたんだ? こんな夜中に」
「あ……喉が渇いて、何か温かいものでも飲もうかなって」
「あー……こういう時、冷蔵庫があればホットミルクでも飲めるのにな」
ものを冷やして保存しておける技術は残念ながらまだ存在しない。冬に取っておいた氷を地下に貯蔵しておくことはできるが、それは余程の権力と財力がなくては難しい。
足が早い食品は気軽に口に入れることはできなかった。
「ルースも何か飲みに来たの?」
「まあな。……あれ以上考えてたら深みにはまりそうだったし」
「? なら、ルースの分も作るね、ホットワイン」
後半の呟きはよく聞こえなかったが、ルースも目的は同じようだ。
「ああ、いいな。作ってくれ」
ベリアは慣れた手つきで赤ワインを鍋に注ぎ火にかけた。
厨房に常に置いてあるワインはそう高いものじゃない。高級なワインは地下のセラーにきちんとしまってある。
厨房のものは調理用。ソースに使われることが多い。それでもそれなりのものだから、普通に飲むことができると厨房を預かる料理長からベリアは聞いている。
鍋の中に蜂蜜を垂らし、シナモンを入れる。
ふんわりとシナモン独特の匂いが鼻をくすぐった。
視線は自然とワインの鮮やかな赤に吸い寄せられる。
これとは違う赤を、ベリアは夢に見る。空を灼くような深紅の色。ベリアを深い後悔に突き落とす色だ。
「――ねぇ、ルース」
「どうした? ベリア」
ぷつぷつと泡が鍋の側面に浮いてくる。火から鍋をおろす。
「ごめんね、巻き込んで。今回も、あのときも」
ルースには迷惑をかけてばかりだね、と笑みを浮かべようとしてベリアは失敗した。引きつった顔を隠すようにルースから顔を背け、カップがしまわれた戸棚へ向かう。その背を追うように、低い声が響いた。
「俺は巻き込まれたなんて思ってない」
取り出したカップにワインを注ぎながら、ベリアは失言だったと眉を下げた。
(……あんな言い方したら、ルースはそう言うしかない)
慰めて欲しいと言っているも同然だったし、おそらくその感情をルースは当人のベリア以上に正確に汲み取っている。だから、優しい声がワインの注がれる音と共に響くのだろう。
「俺がベリアのそばにいるのは、俺の意志だ。一緒にいたいから一緒にいる。失いたくないから守る。俺がしたいことをしているだけだ」
ふわりと湯気が立ち上った二つのカップをルースは取り上げた。
「どうせ夢見でも悪かったんだろう? 少しだけなら付き合ってやる」




