約束
佳が人狼を討伐してからちょうど一週間の四月二十二日。三角巾で右腕を固定している彼は、誰もいない教室でただ一人、自分の席に腰掛けスマホをぼんやりと眺めている。
一週間前、死闘の末に人狼を討伐した佳は、あまりの疲労にあの場で意識を失った。幸いにも麗華と芳賀の救援により、大事になる前に手当された。
スマホはズタボロになり、なんとか壊れず今まで持ち堪えていたものの、遂に寿命が来たようだ。いくら電源を付けようとしても反応がない。
「ぶっ壊れたか……ついでに新しいのに買い換えてもらうか」
冗談を言う内心、いつも手にしている連絡手段がいざ使えなくなると、一抹の不安が残る。
やることのなくなった佳は先程までスマホに向けていた視線を窓の外へと向ける。窓の外には澄み渡った青空と見慣れた住宅街が広がっていた。その光景は、一週間前の出来事がまるで嘘であったかと思わせるほど、彼の目には輝かしいものに見えた。
町の景色を眺めながら、彼は一週間まえのことを思い出していた。
一週間前 人狼討伐後
次に佳が目覚めたのは大きなベッドの上だった。一瞬動揺したが、見覚えのある天井が彼に安心感を与える。
「おはようございます、随分と早いお目覚めですね、佳」
「どうも……」
そこにはメイド姿の麗華がこちらを見下ろすようにして佇んでいた。意図せず反射的に素っ気ない返答をしてしまった佳だが、彼女はそれを気にする事なく言葉を続ける。
「ご家族がお見えになってますが、お会いしますか?」
「え!? いや、流石にっ……痛ッ! あぁぁ〜」
今度こそ動揺を隠しきれずに勢いよく身体を起こした彼は、痛みが走った右腕が布でガチガチに固められている事に今更ながら気がついた。
「ひき逃げにあった、と家族には伝えてあります、もちろん嘘ですが」
そう言うと麗華は痛みに悶えている佳に対し、鋭い目付きを向ける。腕から徐々に痛みが引いていき、彼が顔を上げるのを確認すると彼女は詰問する。
「何故一人でこんなに無茶ができるんですか」
無表情だが、彼女の声には確かに怒りがこもっている。
「もしかしたら死んでいたかもしれないんですよ? 貴方には大切な家族や、友人がいるじゃないですか」
「……」
俯いたまま、しばらく黙り込む佳。本当のことを話すかどうか、話したところで何の意味があるのか、彼は考えあぐねていた。
「無くなった記憶を取り戻したいんです……被害を抑えたいとか、悠一さんや凛央さんの仇とか、そういう気持ちもありますが結局口実でしかないですし」
結局、絞り出した答えは曖昧で自虐的なものだった。己の意志すらまともに口にできない自分に佳は苦笑する事しか出来ずにいる。
「理由なんてどうでもいいんですよ、貴方が自分の命を軽く見ていることが問題なんです」
もっと責められるものと思っていた佳は、麗華のあっけらかんとした物腰に呆気を取られる。彼女の瞳は真っ直ぐと佳の目を見据えている。
目を合わせていられなくなった彼は再び視線を落とす。
「……すみません」
力ない声で呟く佳に、何か考え込んでから麗華は小さく溜め息をつく。
「はぁ……まぁ、生きてるからよかったものの、次はこんな無茶しないでくださいよ」
そう言った彼女は俯いた佳をしばらく見下ろした後、左の掌で思い切り彼の右腕を叩く。
「痛ッ!!」
「これで少しは反省してくださいね」
強烈なビンタにより激痛が走る右腕を抑え蹲る彼を横目に、彼女は背を向け扉の前まで足を運ぶ。
「あまり……心配させないでくださいね」
部屋を去る間際に放った彼女の言葉には既に怒りは感じられないものの、佳の心に突き刺さるには十分なほどの本音である事が彼自身、よく分かった。
「……はい」
しばらくして、扉が開かれるとそこから母と万尋が入ってきた。母は佳を見るや否や、彼の元まで焦りを露わにしながら駆け寄ってくる。その後ろから万尋がゆっくりといつも通りの無表情でついていた。
「佳! 事故にあったって……大丈夫なの!? 右腕以外に何処か大きな怪我してない?」
「だ、だい……大丈夫だか…ら、揺らさ……ないで」
両手で肩をガッシリ掴んで揺らす母を制しながら、彼は自分の安否を伝える。
「てか……右肩痛いんだけど……」
「あ、ごめん!」
右腕を直接触っていなくとも、怪我人を不用意に揺すっていた事にようやく気がついた母は一時的に平静を取り戻す。が、すぐさま質問責めが再開し、再び落ち着くまで数十分の時間を要した。
「それじゃお母さんたち先に車で待ってるけど、絶対無理しちゃダメよ!」
「無理したくてもできないって、大丈夫だよ」
背を向ける事なく、何度も同じような忠告をしながら後ろ歩きで扉まで辿り着いた母がようやく部屋を後にする。静かになった部屋の中で佳は大きな溜息をつき肩を落とす。
「ねぇ……」
誰もいなくなったと思っていた佳は横から声をかけられ、声は上げなかったものの大袈裟とも見て取れるほど身体をビクッと震わせた。
「な、なんだまだ居たのか万尋……」
「なんか言い方失礼じゃない?」
「ご、ごめんて……それでどしたの?」
母の後ろで背後霊のようにずっと無言のまま居座っていた万尋だったが、一体なんの用なのだろうかと彼は疑問に思う。
彼女は佳の包帯に巻かれた右腕を一瞥し、満を辞して口を開く。
「……何があったの?」
真っ直ぐ見据える彼女の目は、まるでこちらの事情を全て見透かしているのではないかと思うくらい澄んでいる。冷静さを保ちつつ彼は万尋の抽象的な質問に答えた。勿論、嘘を交えながら。
「何って、麗華さんに聞いた筈だろ? 事故だよ」
「もし事故が本当だとしても、何か隠してるでしょ」
いつも表情が変わらない万尋だが、今までは何となく感情を読み取れていた。しかし、今の彼女からはなんの感情も読み取れない。嘘に気づきそれに怒っているのか、心配しているだけなのか、佳には全く見当がつかなかった。
それでも笑顔を取り繕い、懐疑心を抱く彼女に向ける。
「嘘なんてついてないよ、母さんと一緒で心配しすぎだ」
少しからかうような言い方をしてみたが、万尋の表情が緩むことはない。それどころか眼光がより一層鋭くなっている。
「……ッ」
「……」
先程まで一度も視線を佳から動かさなかった彼女が、目線を逸らし、何かを言いかけて思い留まる。
「そう、ならいいけど」
何事もなかったかのように、彼女はそのまま彼に背を向け扉へ向かう。佳はその背中に声をかけることを躊躇った。
いつもの万尋なら何を考えているか何となく彼には理解できたし、その時の感覚で対応してきた。だが、今の彼に実の妹である万尋の機嫌を良くするほどの自信は皆無だった。
万尋が部屋を出ると広い廊下の少し先に立ち話をする母とメイド服の女性の姿が見えた。
(あの人が麗華さんか……)
母がペコペコと何度か頭を下げている。普段なら少し大袈裟では無いかと思う母の行動を、今日ばかりは同情せざるを得ない。
今、母と対面している麗華に聞いた話によれば、佳が事故に遭い、右肩から肘にかけての裂傷、右腕全体の複雑骨折。他にも全身に多くの擦り傷や打撲があるとのことだ。事故現場に偶然居合わせた彼女が、一時的にこの屋敷で彼を介抱してくれたようだ。
二人は顔見知りのようで、母と万尋にもとても親切にしてくれている。しかし、万尋には二人が何かを隠しているような気がして、どうにも落ち着かずにいた。
(やっぱりお姉ちゃんがなにか……)
包帯の巻かれた麗華の右手を見ながら、彼女は思いを馳せる。だがそれを遮るように母がこちらに振り向き手招きをしているのが視界に写り、万尋は母の元まで足を運ぶ。
「何してたの? ほら行くよ万尋」
そう言うと母は麗華に向き直り、もう一度お辞儀をしてから歩き出す。視線を母の背中から自分よりも身長が頭一つ大きな麗華へと向ける。
「あの、一ついいですか?」
「はい、なんでしょう?」
万尋に対し、彼女は不思議そうに首を傾げて見せる。
「兄をあまり一人にさせないでください、昔から危なっかしいし、いつも一人でどうにかしようとする人なので」
麗華の瞳を真っ直ぐに捉え、言いたいことだけ言った彼女は母の後を追った。
万尋が部屋を出てからすぐ、扉が開き麗華が部屋の中へと入ってくる。
「佳、着替えと荷物を別室に用意したので来てください」
「ありがとうございます」
ベッドから立ち上がり、彼女の案内に従って部屋を移動する。移動する最中、困惑気味の表情の麗華が歩きながら佳に問いかける。
「貴方の妹さん、なんというか……凄いですね」
「そ、そうですか?」
何を言われるかと構えていた彼だったが、自分の妹が褒められるという予想外の彼女の発言に拍子抜けする。佳からしてみればずっと共に暮らしてきた妹よりも会って数週間の麗華の方がよっぽど凄い人だと認識している。しかし、それは同時に彼女のことをよく知らないということでもあった。
「とても達観していて、私には無い何かを持っていらっしゃる」
彼女の瞳が儚げな光を放つ。今にも消えてしまいそうなその光を、彼は何処かで見たことがあるような気がした。
「私は佳を止められなかった」
佳に聞こえるか聞こえないかくらいのか細い声で麗華が呟く。そして僅かに間を空けて何かを考え込む彼女が再び語り出す。
「いえ、止めようとしなかった、心の何処かであのバケモノに一人で立ち向かう筈がないと思っていたんです」
「……」
なんと声をかけるべきか考えあぐねた彼は、何も言わずに麗華の話に耳を傾けることしか出来なかった。
「でも貴方は立ち向かった、原動力がなんであれあのバケモノに」
視線を下に落とし、自分の右手を見つめながら彼女は言葉を続ける。
「私は迷い、貴方がバケモノに傷つけられるのを看過してしまった……」
麗華は廊下の真ん中で立ち止まり、後ろからついて来ていた佳へと振り返る。
そして彼女の顔が視界に映った瞬間、彼は考えた。もし自分が麗華の立場で女性だったらどうするだろう。家族に近しい友人を失い、理不尽なバケモノの魔の手が間近にまで迫ってきている。対処するには直接戦闘のみ。
心が折れ精神的にやられるかもしれない。挙げ句の果てには自ら命を絶つという選択をしてしまう可能性は十分に考えられた。
そう考え至った佳は、麗華がなにか良からぬことを考えているのではないかと早合点し、声をかけようと試みる。しかし、それよりも早く彼女の口が開いた。
「自分でも情けなくて仕方ない、それでもこんな私を頼ってくれる人が沢山いるんです」
暗かった彼女の声色は徐々に明るくなり、自嘲的な笑みは微笑みへと変わっている。
想定外の彼女の表情に、思わず佳は困惑してしまう。
「芳賀さんにメイドの皆、凛央に奥さま、先ほどは佳の妹さんにも貴方のことを頼まれましたね……ふふ」
一人一人を左手の指で数えていた彼女が突然妹を話題に挙げる。気恥ずかしさを感じたことも相まってか、口元を指で隠しながら笑う彼女の笑顔がとても可愛らしく見えた。
歩くのを再開して数秒、やがて目的の部屋の前まで辿り着いて麗華がドアノブに手をかける。それと同時に、彼女の表情が僅かに憂いを帯びる。
「それに……悠一さんからも……」
「!!」
麗華の口から悠一の名が出て、佳は驚いた。短期間ではあるものの二人だけで話している姿は一度も見たことがない。
「だから、一人で抱え込んで今回みたいに突っ走らないで、困ったら頼ってくださいね」
ノブを回し、開かれた扉から光が差し込み廊下と麗華を輝かしく照らす。再び麗華の顔に笑顔が浮かぶ。その笑顔に彼は確信した。自分自身の考えが杞憂であり、彼女が佳の想像していた以上に強い精神力と生命力を秘めていることを。そして、誰かのために行動することができる原動力が自分より遥かに純粋であることに。
麗華の無垢な笑顔が彼の忘れられた記憶の欠片を僅かに呼び起こした。
―腰まで伸びた白髪―
―首から下を覆う巫女服―
―彼女は聖女という呼称で呼ばれている―
―名前は ハクア―
たった一人の少女の名と姿。ハッキリと思い出したものの、それが本当に正確なものかは分からない。それでも確実に前へ進んでいる実感が彼にはあった。バケモノを倒した時よりも明確に。
(少し……焦りすぎてたのかもしれないな)
陰鬱気味だった心が晴れていき、自然と笑みが溢れる。
「それじゃあ早速二つ、お願いして良いですかね?」
左指で数字の二を表した佳は、無意識に作った無邪気な笑顔で尋ねる。
「ええ、勿論です」
「左腕だけだと着替え大変なんで上だけでいいんで手伝ってください」
「それくらいお安い御用ですよ」
「それと! もう一つ、その敬語やめましょ」
佳は左の人差し指で思い切り麗華の鼻先を指さして言う。彼女は少し驚いたが、徐々に表情は笑顔へと戻る。
「ええ、わかったわ」
一週間ぶりの学校は思っていた以上に大変だった。怪我人が珍しいのか佳の周りに沢山のクラスメイトが集まって来たのだ。それだけでなく、他クラスのバスケ部員や友達の友達まで噂が広まり変に目立ってしまった。
常に噂に飢えている高校生らしいが、今日限りは本当にやめてほしいと彼は思った。ただでさえ利き手が使えない上に校内にいるであろう蜘蛛のバケモノに警戒しないといけないのだ。しかし、幸いと言うべきなのかどうか、何故か今日は校内に蜘蛛の姿は見られなかった。臭いも残っていない為、数日はここを訪れていない可能性がある。
不安感は残るものの正直、今の彼からしてみれば都合が良かった。
久々の学校が終わり、帰路に着こうとした佳は校門を出たところを拓哉に呼び止められる。
「よっ! 佳、今日部活ないから一緒に帰ろうぜー」
「あぁ、拓哉か……」
「元気ねえなぁ、鞄持ったろか?」
「過保護かよ」
教室で彼とは散々話したが、さすが幼馴染と言ったところか、話題が尽きることはない。バス停までの道のりからバスの待ち時間、乗車時間までも彼らは他愛ない会話を続けた。
授業ノートがうまくとれない佳の代わりに紗七がノートをとってくれたことや。他クラスのバスケ部員が彼らのクラスに集まり佳を弄り倒しに来たり。部活で骨折を経験したことのあるらしい美波が凄く心配してくれた。そんな彼女を拓哉は「可愛いうえに優しいとか最高じゃん」と絶賛していた。
今日は散々拓哉に弄られたこともあり、機会があれば彼女の優見さんにチクッてやろうと佳は決めたのだった。
やがて見慣れたバス停に停車し、二人はバスから降りる。家まで数分の道のりがいつもより長く感じた。実際いつもより拓哉の歩幅が狭い。自分を気遣っているのだろうかと考えていた佳に対し、彼は真面目な顔つきで話しだした。
「なぁ、その腕マジでどうしたんだよ」
学校で皆に何度も聞かれた言葉だった。勿論、拓哉の口からもおふざけ半分で散々聞いた。しかし、今の彼にはふざけている様子は一切ない。
「事故だよ」
「俺には頼れない理由でもあるのか?」
「……」
「頼る」という言葉は今の佳にとってはとても魅力的であった。できることならそうしたい。しかしそれは同時に相手に対して死んでくれと言っているようなものだ。
これはあくまで仮説だ。バケモノは視認できなければこちらから触ることもバケモノ側から干渉することも不可能。しかし一度見てしまえばお互いに干渉し合える、という可能性がある。そしてその干渉に関する主導権はバケモノ側にある、可能性が高い。現段階で確実にそうとは言い難いが、麗華の一件から可能性としては十分にあり得ることだ。バケモノが見える佳と共に敵対心を向けたことにより、標的として認識された、のかもしれない。芳賀さんは見えていないようだったから、もっと細かな条件があるのかもしれない。
「まぁ……そんなとこだ」
「……そんなに危ないことなのか?」
「あぁ」
「そんな怪我負ってまですることなのか?」
「記憶が……戻るかもしれない、それに約束もあるからな」
佳は雲に覆われた薄暗い空をぼんやりと見上げながら呟くように言った。悠一に麗華、未希を守ること、困ったときは頼ること、重大な約束と些細な約束。それは彼の意志を頑ななものにするには十分なものであった。
「そうか……」
静寂が訪れ、僅かな風の音と家庭から漏れる生活音がいつにも増して繊細に聞こえる。
「お前が隠し事する時は大体、誰かのためだからなぁ、それは記憶をなくす前から変わってない」
溜め息をついた拓哉は仕方ないと言わんばかりの顔つきでこちらを見て言葉を続ける。それを佳は視線を逸らすことなく受け止める。
「今はまだ守られといてやる……だから、どうしようもなくなったら俺らにも守らせてくれよな」
「あぁ、わかった」
震える声に熱くなる目元、涙は出ていないが気がつけばまたしても自然と空を見上げてしまっていた。そしてようやく家の前についた。
「じゃ、また明日な」
「おう」
「記憶……戻るといいな」
互いの家の前で数メートルの距離が開いた所で、既に背を向けていた拓哉が自分にしか聞こえないほどの小さな声でそう呟いた。その声は当然、佳の耳に届くことはなかった。
拓哉と別れた彼は玄関の扉を開ける。見慣れた光景が広がる中に見慣れない靴が二足。使い古され年季の入った中が飴色の黒い革靴と、シンプルなデザインの大きな黒靴。大きい方は二十七センチあり、佳の靴よりもサイズが上だろう。
(……誰だ?)
玄関のたたきで棒立ちし、訝しんでいる彼の元に扉の開閉音に気がついたのか、リビングの扉から母が顔を出す。
「お帰り佳、今ちょうど警察の人が来ててね」
「えっ、警察……?」
怪訝が警戒に変わる。
「榊原くん覚えてる? 彼も来てるから佳も挨拶しときなさい」
母に言われるがままに彼はリビングへと足を踏み入れる。ソファに座る二人の男の瞳を捉えながら佳は警戒心を怠ることはなかった。




