亀裂
淡々と昨夜の出来事を語る良子の声を聞きながら、佳は曖昧だった記憶が少しずつ戻ってくるのを自覚していた。
「……と、まぁ私が記憶しているのはこの程度です」
「ありがとうございます、だいたい思い出しました」
佳はベッドに腰掛けながら、部屋の隅から持ってきた椅子に姿勢良く腰掛ける良子に向けて謝辞を述べる。
思い出す記憶を整理しながら、彼は良子に向けていた視線を全開に開けられた窓へと流す。窓に付けられた透き通るような白い布が、昨夜とは比べ物にならないくらい暖かな風によってなびいている。
窓は東条家の庭園の全貌が露わになるほど大きなものだ。一体この部屋は誰が使っているものなのだろうと、ふと疑問に思った佳だったが、彼の意識は庭園で清掃をしていると思われる一人の執事に向けられた。
(あれは……芳賀さんか……な?)
遠目からな上に後ろ姿ということもあり、ハッキリと姿を捉えることが出来なかったが佳には匂いで芳賀だとわかった。その理解の仕方に自分でも疑いをかけてしまうほど正確に。
「少し……外の空気を吸ってきてもいいですか?」
ボゥっと庭園を眺めていた佳は急にそう思い至り、ベッドから包帯だらけの手足を使い立ち上がる。
既に手足は歩行するのに問題のない程度には力が入り、しっかりと動かせるようになっていた。
「……そうですね、それなら服をご用意しますのでお待ち下さい」
僅かな躊躇いを見せた良子は渋々、彼の要望を受け入れる。椅子から腰を上げた彼女は足早に部屋を出ていった。それを見送った佳は、再び一人となってしまう。
身体に痛みはないが妙に頭が重く、情報整理をする気にもなれなかった彼は、全身の力を抜いてベッドに身体を委ねる。
瞼を閉じると、部屋を占領するような暖かな風が花の香りを開かれた窓から招き入れる。
(チューリップにカーネーション、桜もあるな……あとは分かんないや)
風が運んでくる様々な花の香りが彼の鼻腔を次々と刺激する。しかし、先ほど良子が落としたものの中にお粥や水以外に消毒液や医薬品、包帯等があったらしく、清掃はしたものの床には匂いが微かに残ってしまっている。
今、異様なまでに敏感になっている彼の鼻は、その微かな匂いにすらも反応してしまうようだ。
彼が自分の嗅覚が異常であることを再確認していると、部屋の扉が開き視線を向けると、見覚えのある制服を持った良子が姿を見せた。
「昨夜来ていらした制服はボロボロになっていたので新しく発注しました、どうぞ」
「え……わざわざすみません、ありがとうございます」
皺一つない制服を差し出された佳は、あまりの対応の良さに戸惑いながらもそれを受け取る。
着替えるために一度受け取った制服をベッドの上に置き、上半身から包帯を解く。昨夜何があったにせよ、学校は何事もなく授業を行うのだ。全身に包帯を巻いたままでの登校はいくら周りを気にする事が少ない佳であっても抵抗がある。
「包帯なら私がお取りしますよ、どこか怪我が残ってないかも確認したいですしね」
「いや、流石にこれくらい自分でやりますよ……」
佳はパンツしか履いておらずほぼ全裸状態にも等しかった為、彼女の提案をやんわりと拒む。
「そんな遠慮しなくても大丈夫ですよー」
基本的に明るく笑顔を絶やさない良子。だが、その笑顔に今、ある種の恐怖を感じずにはいられなかった。
結局、半ば強引に目の前で包帯を引っ剥がされた佳は軽い脱力感を引き連れながら教えてもらった出入口に向かうため、広い廊下を歩いていた。
新品である制服の着心地に違和感を感じ、所々制服の位置を直しながら歩みを進めていると、ちょうど正面に見覚えのあるメイド服姿の女性を捉えた。
(あ、麗華さん……)
その姿を認めた佳は瞬時に昨夜の出来事が脳裏を過る。銃を構えた彼女の怒りと悲しみの入り交じった表情。そんな矛盾に苦しんでいる彼女を見ていると心が締め付けられる。
別に同じようにバケモノに同情したわけでもないし、覚えている記憶の限りそんな経験もない。ただ、自分も矛盾に苛まれながら生きてきたような不思議な感覚が佳にあったのが原因かも知れない。
つまるところ無根拠に、彼女の心情を理解していると思ってしまっているのだ。
「麗華さん」
右手を上げた佳はこちらに向かってくる麗華に対し、声をかける。しかし彼女はこちらを一瞥するだけで、声には応えず彼の横を通り過ぎて行く。
一瞬戸惑った佳だったが、そのまま何もなかったかのように過ぎ去ろうとしている麗華の腕を咄嗟に掴む。その腕には包帯が巻かれていたが今それは重要ではない。
驚いた表情を浮かべる麗華に彼は鋭い視線を送った。それは決して無視された事に怒りを覚えたからではなく、彼女の反応に違和感を覚えたからだ。
「俺を見ても全然驚かないんですね……」
無駄に広い廊下に木霊した彼の声に返答はなく、そのまま虚しく霧散した。
実際に怪我を目視していないかも知れないが、少なくとも良子か芳賀、或いは悠一から佳がどのような状態に陥っているか彼女は聞かされているはずだ。だとすれば彼が廊下を歩いている姿を見た時点で表情一つ変えないのはおかしい。
尚も口を開く事なく視線を逸らしている麗華に痺れを切らした佳は、更に問い詰める。
「何か知っているんじゃないですか?」
「……それは貴方の方じゃないですか?」
予想外の返答に戸惑う佳。
互いが互いに疑いの視線を向ける。緊迫状態が続く中、麗華の放つ一言によってそれは終わりを迎えた。
「……白い蝶」
白い蝶。それを聞いた佳には思い当たる節が一つしかなかった。
降り注ぐ真新しい雪のように真っ白で綺麗な蝶が彼の脳裏をよぎる。先程までいた部屋で覚醒した時、右腕に止まっていた蝶だ。しかし何故それが彼女が自分に疑いの念を抱く判断材料になったのか、佳には微塵も理解できなかった。
幾ら記憶を漁っても全くと言っていいほど心当たりがない。
「白い蝶……? それがどうかしたんですか」
麗華の何か探るような視線を真っ直ぐに受け止める。
意識せず低くなった声色が、この場を更に重い空気に包み込む。だが、不相応にも彼女は強張っていた表情を弛緩させる。
佳が本当に何も知らないと悟った彼女は手を軽く振り解く。
「知らないのなら……いいんです……」
包帯の巻かれた自分の右手を鋭い目付きで一瞥し、何事もなかったようにこの場を去って行く。
そんな麗華の後ろ姿を佳は呼び止めるでもなく、ただ呆然と眺めることしかできなかった。
本来、気晴らしをするために外へとやって来たはずなのに、庭園に返り咲く花々を見ても彼の気が晴れることはなかった。
元々、万尋には帰宅が遅くなる旨は伝えていた。しかし結果として朝帰りをする羽目になってしまい、家族にどう説明するか思い悩んでいた。
(事前に知らせてなかったから、適当に知り合いの家泊まってたって言っても疑われるだろうなぁ)
花を眺めながら思考していた佳は、芳賀の背後からの急接近に気づき声をかけられる前に振り返る。
「佳様! 身体は大丈夫なんですか」
驚いた様子の芳賀は落ち着かない眼球で佳の全身を窺い見ている。
「俺もよくわかりませんけど、大丈夫っぽいです」
彼のヘラヘラとした反応に虚を衝かれた芳賀は、先程までの勢いを失ってしまう。
予想外の出来事に萎縮しつつも、芳賀は言葉を続ける。
「……そうですか、ではお帰りの際はまたお声がけください、佳様の荷物を持って参りますので」
納得していない様子だったが、そう言って芳賀はその場を立ち去る。理由はそれだけではないだろう。彼の視線からは非現実的なものを目の当たりにして僅かに怯えたものがあった。
彼が立ち去った後も、佳はしばらく花を見て回ってから帰宅することにした。チューリップにカーネーション、他にも綺麗な花が色とりどりに咲き乱れている。しかし、どこを見て回っても桜の木は見当たらなかった。
芳賀から荷物を受け取った佳は良子の好意に甘え、自宅まで車で送ってもらった。
結局、家族に対して言い訳一つ考えてこなかった佳は玄関先で一度深呼吸をしてから鍵を開け、取手に手をかける。
恐る恐る扉を開き忍び足で中に入る。どうやらまだ誰も起床しておらず明かりは一切ついていない。それに安心したのか佳は胸を撫で下ろす。
自分の家なのにまるで泥棒に入っている気分になり、更に家族を騙すような行動で罪悪感に苛まれる。
腰ぐらいの高さのある靴入れの上に置かれた小さな置き時計をふと見ると長針と短針は水平になっており、五時前を指し示している。
(このままバレないように学校行くか……)
そう思い至った佳は物音を立てぬよう、まるで脱兎の如く自室へ行き登校の準備をする。
一通り準備を済ませ、いつもと違うバスの時間帯を調べながら部屋の扉を開いたのとほぼ同時に隣の部屋の扉も開かれる。
「あっ」
あまりのベストタイミングに驚き声を漏らした佳を、部屋着姿の万尋の透き通った瞳が捉えていた。
「お帰り兄さん」
扉から上半身だけをひょっこりと出す万尋は至って平静だった。返事ができずに呆然としていると彼女は言葉を続ける。
「お父さんとお母さんには泊まりって伝えてあるからそんな慌てなくても大丈夫よ」
万尋は相変らずの無表情だ。
それだけ言い残して階段を降りていく彼女を追いかける佳は階段の上から、言葉に詰まらながらも声を絞り出す。
「あ、ありがとうな」
それ以外の言葉が見つからなかった。なぜ万尋が自分を庇ったのかは気になるが、今は感謝を述べるだけで精一杯だった。
階段を下りる足を止め、こちらを見上げる万尋はどこか悲しそうに言葉を紡ぐ。
「私は嘘をつくのが嫌いなの、だから……これ以上私に嘘つかせないでね」
そのまま返事を待たずに万尋はリビングへと姿を消した。
よくよく考えてみれば、いつも利用するバスはこんな早朝から運行していなかった。その事に気づいた佳は、晴れぬ気分のまま徒歩で学校へ向かう事にした。
モヤモヤしたまま歩き続けること数十分、出発時間が早かったこともあって学校にはほとんど生徒の姿は見られなかった。
静まり返った教室内に一人、自分の席に座る佳は頬杖をつきながらポケットからスマホを取り出す。
電源を入れると画面には6:17と現在時刻を表す数字と、一件のメッセージを知らせる通知が映し出される。
(あ、悠一さんからだ……そういや連絡してなかった)
内容は佳の怪我を心配する旨のものだった。
どうやら悠一は昨夜あの後、すぐに帰宅したらしい。そして今日もいつも通り出勤しているとの事だ。
メッセージの中に帰りが遅く嫁にこっ酷く叱られたと書かれているのを見るに、あの後は特に何事もないようで佳は安心した。
しばらくスマホを弄り六時三十分を過ぎた頃、校門をくぐる複数の生徒の姿を視界の端に捉えた。クラスメイトか知り合いがいないか窓の外に視線を向けた佳だったが、着信音と右手から伝わるバイブレーションにより意識がスマホに引き戻される。
画面を見るとそこには悠一の娘である未希から着信が入っていた。
こんな朝早くからどうしたのだろうと疑問に思った佳は、すぐに画面に映る緑の着信応答ボタンに指を添える。
「もしもし未希ちゃん、こんな朝早くにどうしたの?」
『あ、佳さん……お、お父さんがきゅ、急にで、電話で』
未希の慌てようは、明らかに何かトラブルが起こったことを暗示していた。
パニック状態の彼女を落ち着かせるため、佳は穏やかならぬ心を押さえつけ冷静になるよう努める。
「未希ちゃん落ち着いて、大丈夫だから何があったかゆっくり教えて」
『え、えっと……さっき仕事に出かけたばかりのお父さんから電話がかかってきて出たんですけど内容は支離滅裂で、とにかく様子が変だったんです、折り返し電話しても出てくれなくて』
「わかった、俺が直接会って話してみるよ」
『で、でも学校は大丈夫なんですか?』
未希は昨日の出来事を知らない。彼女の疑問は当然のものだろう。しかし、佳は穏やかな声で答える。
「一日くらい平気だ、気にしないで」
『……お願いします』
申し訳なさそうな彼女の声は僅かに震えていた。未希はおそらく他の子たちよりも断然頭の回転が速い。もしかしたら自分と悠一が何をしているのかも気付いており、不安になっているのかもしれない。
通話を切った佳はすぐに席から立ち上がり、スマホと財布だけを持ち教室を勢いよく飛び出した。しかし、教室を出た彼の前に立ち塞がるある人物によって行手を阻まれる。
「拓哉……」
「よぉ佳……」
まるで待ち構えていたかのようなタイミングで鉢合わせた拓哉の視線は、いつもの穏やかなものとは違い、鋭く尖ったものへと変貌していた。




