第9話「うわん」
事務所のソファで、
宗太がスマホの画面を見ながら鼻で笑った。
「おい深夏、ちょっとコレ観てみろよ。マジで笑えるから」
「 近所の廃校舎で『うわーん!』って叫び声が聞こえるらしくて、突撃した配信者が逃走したんだってよ。コメント欄で、都市伝説の『うわん』じゃねえかって騒がれてる」
宗太が画面を深夏に向ける。
薄暗い校舎の廊下を進む配信者。その頭上から突然──『うわーーーん!』と間の抜けた叫び声が響き、配信者が「うわああ!」とカメラを揺らして逃げ出していた。
画面のコメント欄は大盛り上がりだった。
> 犬で草
> 腹痛いw
> 叫ぶだけwww
> 語彙力ゼロw
「やらせにしては笑えるよな」
宗太が吹き出すと、深夏は膝の上の『死響子』を持ち上げた。
真鍮の筐体に配された表示ランプが、不意に二度点滅した。
深夏が首を傾げる。
だが、すぐに何事もなかったように灯りは消えた。
「……違う」
「『うわん』じゃないよ」
宗太は苦笑しながらスマホを閉じ、煙草の箱をポケットに放り込んだ。
「こんだけはっきり『うわん』って叫んでるのにか?」
「……まあ、一応仕事として管理会社から調査依頼が来てんだよ。配信者のせいで肝試しに来るバカが増えて迷惑してるらしくてな」
◇
夜の十時。
使われなくなった旧町立第一小学校。
割れた窓ガラスから湿った夜風が吹き込み、真っ暗な廊下に二人分の足音が響いていた。
死響子の背面ディスプレイが反応し、一瞬だけ文字が滲んだかと思うと元に戻った。
【TARGET:未検出】
【TARGET:……】
「……気のせい?」
深夏はそのまま歩き出した。
「動画だとこのあたりだな。天井から突然『うわーん』だそうだ。動画で聞く限りじゃ、ただの大声を出した、やらせかイタズラにしか──」
「うわーーーーーん!!」
宗太が言葉を言い切るより早く。
天井から声が降ってきた。
「……本当に同じだな」
宗太は苦笑しながら懐中電灯で照らす。
声のトーンも質も、まさに動画で聞いた通りだった。
だが、間髪入れずに二発目が響く。
「うわーーーーーーん!!」
今度は距離が近い。
ビリビリッと、重い振動が伝う。
窓ガラスだけではない。
宗太の胸ポケットのライターまで細かく震えた。
「すげぇ声量だな」
「……今、校舎揺れたか?」
宗太の顔から笑みが消える。
ただの大声にしては振動波が異常だった。
そして、三発目。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!!! 」
今度は叫び終わらない。
十秒。
二十秒。
三十秒。
四十秒。
息を吸う素振りすらなく、鼓膜を打ち破るような大音量が延々と鳴り響き続ける。
「……おい、人間ってこんな長く叫べたか……!?」
宗太が思わず耳を塞ぎ、顔を歪める。
間髪を容れず、四発目が襲いかかった。
「うわん!!」
「うわん!!」
「うわぁぁぁぁぁん!!!」
「うわん!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!」
人間ではない不規則で狂気じみた連続音。
学校全体が共鳴し、天井板がミシミシと嫌な音を立てて軋む。廊下の壁からパラパラと古い埃が落ちてきた。
「クソ、なんだこれ! 動画と全然違うじゃねーか!」
「やめろ……もう聞きたくねぇ……!」
逃げ出したいほどの不快感と恐怖に、宗太が身体を硬直させる。
動画を見て笑っていた時の空気は、跡形もなく消え去っていた。
そんな狂乱の音の中で、深夏だけが静かに死響子を向けた。
「……やっぱり、違う」
「何が違うんだ……!」
「『うわん』じゃない」
深夏は死響子のゲインを上げる。
【80 → 95 → 110】
カチ。
死響子のダイヤルが、指を離したにもかかわらず、
ほんのわずかに一目盛りだけ勝手に動いた。
【111】
ザザザッ──。
真鍮のノズルが空間に漂う音を捉え、音の輪郭を削り出していく。
スピーカーから吐き出される怪叫が、徐々に分解されていく。
『……う……』
深夏はさらにダイヤルを回す。
『……ぁ……』
もう一段。
『……た……』
宗太が顔を上げる。
「……待て」
さらに絞る。
ザザッ──。
『……た……す……』
「おい、嘘だろ……」
最後にダイヤルを止めた瞬間。
『──たすけてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!』
歪んだ怪叫の正体は、助けを求め続けた最後の悲鳴のように聞こえた。
宗太が額に汗を浮かべ、死響子を見つめる。
「どういう事だ? ただ叫んでただけじゃないのか」
「でも、なんで『うわん』になる……?」
「……今、なんか操作したか?」
「……してない」
「じゃあ何で急に……」
深夏がポツリと、言葉を落とした。
「何日も叫び続けたから」
「喉が潰れて」
「言葉が崩れて」
「最後に残ったのが、あの音だったの」
宗太は事前に調べていたメモを思い出し、喉を鳴らした。
「……江戸時代の火事か。確か暗い蔵の中で……」
「誰にも届かない声を、一人で叫び続けてたって事か」
深夏は天井を見つめた。
「言葉は消えた」
「……でも」
「怖かった気持ちだけは、音になって残った」
深夏が死響子のスイッチを押し込むと、ノズルが空間に漂う残響を静かに吸い上げていく。
カチリ。
重い金属音が響き、校舎を揺らしていた狂叫はピタリと止んだ。
廃校舎に、本物の静寂が降り積もる。
──ギ……ィ……。
校舎のどこかで、小さく扉が軋んだ。
もう、誰も閉じ込められてはいない。
◇
帰り道。
街灯の下を二人で並んで歩く。
宗太がスマホを取り出し、検索画面の妖怪図鑑を眺めた。
【うわん:古い屋敷や寺の天井から、突然『うわん』と大声で叫びかかって人々を驚かせる妖怪】
「……違うな」
「何が?」
「多分昔の人は、面白がったり怖がったりして名前をつけたんじゃない。……忘れないためだったんだろ」
深夏は一瞬目を見開き、それからほんの少しだけ口元を緩めた。
「……うん。声にならなかった悲しみに名前をつけて、忘れないように残したんだと思う」
宗太は煙草に火をつけた。
紫煙が夜の空気に解けて消えていく。
「『うわん』の奥にある叫び、か……」
その瞬間──。
ピッ。
死響子の表示が一瞬だけ乱れた。
【TRACE:Learning...】
【TRACE:RECORDED】
「……変なの」
【ID:0513】
【TARGET:失われた救出要請】
【TYPE:残響型(ECHO)】
【SOURCE:崩壊音韻】
【TIME:22:14】
それは明確な言葉ではなかった。
けれど。
長い間、誰にも届かなかった叫びが。
ようやく、誰かに届いた音になった。




