第8話「視えない怪異」
私立青凪学園高等学校の生徒たちが身を寄せる宿泊施設。
救護室の重苦しい空気と消毒液の臭いの中、点滴を打たれた生徒たちが少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。
教員や宗太による聞き取りに対し、誰もが青ざめた顔で同じ言葉を口にする。
「火が熱いって……誰かが叫んでた……」
「違う……あれは水の中だった。息ができなくて……」
「子供を返してって……女の人が……」
全員が自分の聞いた内容を、疑いようのない事実として信じ切っていた。
廊下に出た宗太は、パタンとメモ帳を閉じた。
「……なんだこれは」
「普通なら、何か一つくらい一致するはずだ。見た特徴、場所、時間、感情……何でもいい」
宗太は不快そうに眉間を押さえた。
「なのに、今回は全員が違うものを話してる。……まるで、同じ怪異を聞いてないみたいに」
湿った夜風がガジュマルの葉を揺らす中、宗太は深夏と合流すると再びガマの前へと立っていた。
深夏は『死響子』のノズルを暗がりへ向け、ゲインを極限の【死音解析モード】まで引き上げる。
しかし──
【録音対象なし】
【波形検出:0.00Hz】
何度試しても、表示される結果は平坦なゼロのままだった。
「……死響子は、何も拾ってない」
「でも、怪異は起きた。生徒たちは叫び声を聞いて倒れた。……矛盾してる」
「機材の不調じゃないんだな?」
「……うん。ノイズすら出てないから」
「観測すらできない怪異、か……」
◇
宿泊施設へ戻る道中、廊下に一人佇む比嘉の姿があった。
宗太が声をかけると、比嘉はハッとしたように振り向き、憔悴した顔を浮かべた。
「生徒が倒れたんです。明日の予定、中止も考えるべきじゃないですか」
「……できません」
「なぜです? 生徒の安全が第一でしょう」
「ここまで来た意味がなくなるからです」
「生徒が倒れたんですよ!」
「……だからです」
比嘉は暗い廊下の奥を見つめたまま、低く呟いた。
「彼らだけは……知らないまま帰らせたくない」
その時──。
「ひっ……ああああっ!!」
2階の廊下に引き裂かれたような悲悲鳴が響き渡る。
宗太と深夏が駆けつけると、部屋から這い出してきた男子生徒が、自分の頭を狂ったように叩きながら泣き叫んでいた。
「どうした!? また声が聞こえたのか!?」
宗太が肩を強く掴んで揺さぶる。
「聞こえた……聞こえた……!!」
「何が聞こえた!? 誰の声だ!?」
「声じゃない……!」
生徒は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、絶望に顔を歪ませた。
「……名前……!」
「名前!?」
「知らない名前だった……何人も……何十人も……!」
生徒はガタガタと全身を激しく震わせながら、自分の胸を指差した。
「でも最後に……俺の名前を呼んだんだ……!」
「宗太先輩、退いて!」
深夏が死響子を構え、生徒の頭上の空間へノズルを向けた。
ダイヤルを回す。ゲインを怪異探索モードまで上げ、指向性を絞り込む。
──反応なし。
【録音対象なし】
【波形検出:0.00Hz】
「……なんで」
深夏の指が震える。
ボタンを何度も押し直すが、画面はどこまでも平坦な「0.00Hz」を刻み続ける。
「……死響子」
「この人たちは……残したくないの?」
「録っちゃいけないって……そういうことなの!?」
深夏の切実な叫びも虚しく、死響子は完全に沈黙していた。
打ちひしがれたその時、宗太が肩を強く掴んだ。
「おい深夏、お前が今しなきゃいけない事はなんだ?」
「……録る」
「違うだろ。助ける、だろ!」
「……っ!」
深夏は死響子の側面にある補助スイッチへ指を滑らせた。
本来は録音時、周囲の不要な環境振動を打ち消すためのノイズキャンセリング機能。
スイッチを押し込み、ノズルを生徒の頭部近くに向けた。
死響子から、低い逆位相の振動が放たれる。
怪異を消去する音ではない。ただ、生徒の中に入り込んだ異常な波長を、一時的に相殺して和らげるための音。
激しく狂乱していた生徒の身体から、急激に緊張が抜けていく。
浅い息を繰り返し、やがて力を失ってその場に倒れ込み、規則正しい寝息へと変わった。
◇
静まり返った廊下の奥から、足音が近づいて来る。
現れた比嘉の手には、一握りの古びた白黒写真が握られていた。
倒れた生徒を一瞥した比嘉は、息を乱す深夏へと視線の位置を落とす。
「石川さん……あなたにも、聴こえなかったんですね」
比嘉の影が廊下の薄暗い壁に長く伸びる。
「私にも……最初は聞こえませんでした。でも、聞こえないからといって……存在しないわけではない」
「聞こえないものほど……人は簡単に、忘れてしまうから」
比嘉の指が、写真の端を優しくなぞる。
「私は生徒に歴史を伝えるために、この場所へ何度も来ました。でも……気付いたんです。この場所には、名前すら記録に残らなかった人たちがいると」
「名前が……?」
「集団の犠牲者としてひと括りにされ、一人ひとりの名前も、声も、生きた証も失われた人たちです。写真には写っていても、個人の記録としてはどこにも存在しない」
比嘉の言葉を聞きながら、深夏の脳裏で救護室の生徒たちの証言が繋がっていく。
「……そうか。死音じゃない」
「死音になる前に……誰にも聞かれなかったんだ」
「誰にも届かず、残すことすら許されなかった……時間」
宗太がハッとしたように口を開く。
「炎を見た人には火の苦しみ、水を見た人には溺れる苦しみ……。そうか、実際に声を聴いたんじゃない。自分の中にある『死の恐怖』を投影させられていたのか」
比嘉は唇を噛み締め、涙を零しながら首を振った。
「彼らは誰かを害したいわけじゃない……ただ、自分たちが確かにここにいたことを、忘れられたくないだけなんです。私たちが……私が、過去の記録として片付けてしまっていたから……」
──ここには、最初から「残された音」なんてない。
──だから、死響子には救えない。
深夏の目からボロボロと溢れ出す涙が、死響子のディスプレイに落ちた。
「……そんなの」
「……私には、何もできない」
その時、宗太が深夏の両肩を力強く掴んだ。
「それは違うだろ」
「お前はいつも、録ることで救ってきた」
「でも、今回波形は出ない! 録音できないんだよ!?」
「聞こえないなら──届かないなら、こっちから聴きに行くだろ」
「……!」
「声がないなら、お前が覚えておけばいい。お前が最初の『記録者』になれ」
深夏は溢れる涙を袖で強く拭うと、立ち上がり、死響子を真っ直ぐに構えた。
赤く点滅する『REC』ボタンを押し込む。
【録音時間 00:05:00】
【波形検出:0.00Hz(無音)】
画面の波形はピクリとも動かない。
それでも深夏は、絶対に死響子を下ろさなかった。
「……大丈夫」
「今度は、ちゃんと残すから」
深夏は生徒たちの証言、写真の中の顔、比嘉の言葉、そのすべてを自分の心根に刻みつけるように、暗がりを見つめた。
「名前がなくても……声が残っていなくても……」
「あなたがここにいて、苦しんで、懸命に生きようとしていたことを……私は、絶対に忘れない」
宗太も深夏の隣に並び、闇に向かって深く頭を下げた。
比嘉も写真を胸に抱きしめたまま、その場に崩れ落ちるように泣き崩れた。
その瞬間──。
宿泊施設を押し潰していた重苦しい圧迫感が、潮が引くようにすっと消え去っていった。
ディスプレイの画面にシステム警告が浮かび上がる。
【音声データ:なし】
【この無音ファイルを保存しますか?】
深夏は迷わず、力強く『YES』を押した。
音のないファイルが、死響子のメモリに静かに記憶される。
誰にも見出されなかった「存在」が、一人の記録者によって認められ、安らぎを得た瞬間だった。
◇
翌朝。
澄み渡る青空の下、ガマの入口には比嘉の白黒写真と、深夏が昨夜の出来事を克明に書き残したノートが静かに供えられていた。
名前の分からない人々。
記録されなかった人々。
それでも、確かにここに存在した人々。
深夏は死響子の電源を切る。
最後まで波形が描かれることはなかった。
宗太が静かに声をかける。
「深夏……今回は、音は録れなかったな」
深夏は首を振り、ほんの少しだけ柔らかく微笑んだ。
「ううん。できたよ」
「なにがだ?」
「音になれなかった存在を……ちゃんと残せた」
沖縄の温かい風が吹き抜ける。
ガジュマルの木々の葉が、さやさやと揺れる。
その音だけが、世界に静かに残り続けていた。
(第一章 完)




