第10話「迎えの鈴」
事務所の机の上で、真鍮の筐体がかすかな熱を帯びていた。
深夏は無言のまま、死響子の波形モニターを指先でなぞっている。
そこに表示されているのは声でもノイズでもない、ただ静かに凪いだひとつの波形だった。
宗太が缶コーヒーを置き、怪訝そうに眉をひそめる。
「珍しいな。お前が回収した音をそんなに眺めてるなんて。死音じゃないんだろ?」
「……まだ、消えていない音」
「死音じゃないのに、死響子が拾ったってことか?」
「違う」
「じゃあ、何だよ」
深夏は死響子を見つめた。
「……拾ったんじゃない。届いたの」
その言葉の意図を宗太が問い詰める前に、事務所の電話が鳴った。
山間部を走るスキー場の送迎バス──その運行会社からの調査依頼だった。
◇
夜の九時。冬季閉鎖を間近に控えた山道。
濃い霧がヘッドライトの光を白く滲ませる中、旧型の送迎バスがガタガタと車体を揺らしながら坂道を登っていく。乗客は深夏と宗太、そして運行会社のスタッフが数名のみだ。
「証言だと、三つ目の急カーブを曲がった直後……最後尾の席から『チリン』と鈴の音が聞こえるらしい」
宗太が窓の外の濃霧を見やりながら煙草を揉み消した。
「ただの荷物の鈴なら警察の落とし物係で終わりだ。……だが、一部の乗客にしか聞こえねえ。運転手にも聞こえない。聞こえた奴だけが『後ろに誰かが立っている』感覚に襲われて、振り返りそうになるそうだ」
深夏は膝の上の死響子を静かに抱き直した。
「……振り返ったら、どうなるの?」
宗太が資料を見つめながら低く呟く。
「昔から、この辺りには妙な言い伝えがあるらしくてな」
「霧の中で鈴の音を聞いても、絶対に振り返るなってな。……振り返った奴は、その音を追うように霧の中へ消える。昔からそういう話があるそうだ」
◇
チェーンの軋む重い音が、エンジンの唸りと濃霧に吸い込まれていく。
バスがゆっくりと三つ目のカーブを切った、その瞬間だった。
──チリン……。
甲高い、けれどどこか掠れた真鍮の鈴の音が、最後尾の空席から響いた。
「っ……!」
車内が静まり返る。乗客のひとりが震え上がった。
「……聞こえた」
「え? 何が?」
別の乗客が首を傾げる中、宗太がぞくっと背筋を凍らせ、低く呟いた。
「……女の声も混じってる?」
深夏が一瞬だけ目を見開き、宗太を見つめると少しだけ笑った。
「……やっぱり」
「何だよ、その顔」
「……宗太先輩は、聞こえる側なんだね」
「……何だよ、それ」
「普通の人は、鈴しか聞こえないよ」
「でも宗太先輩は、その奥にあるものまで聞こえてる」
「……俺が?」
「うん」
「……宗太先輩。もしかして、今までにもあった?」
「……何だよ」
「誰にも聞こえない音が聞こえた、とか」
「……昔から、たまに」
宗太は暗い車窓の外に視線を投げた。
「子供の頃からだ。誰も聞こえてないのに、俺だけ聞こえる音があった」
「怖くなかったの?」
「……昔、一人だけ『それは怖い音じゃない』って言った奴がいたからな」
「その人も、聞こえたの?」
宗太は少しだけ苦笑して窓の外を見た。
「……ああ」
「変な奴だったよ」
それ以上、宗太は語ろうとしなかった。深夏も深くは追及せず、死響子を静かに胸元へ戻した。
「……だから、宗太先輩にも聞いて欲しかった」
「この音を。怖がらせるためじゃない音を」
深夏は真っ直ぐに前方を見据えた──。
「宗太先輩、ダメ! 絶対に振り返らないで」
「……っく、聞こえたぞ。本当に後ろからだな……!」
死響子のダイヤルを素早く回す。
「……追尾モード。感度・最大。残響補正、ON」
しかし──モニターの波形は平坦なまま、ピクリとも動かない。
ノイズすら拾わない「無音」が画面を支配していた。
「壊れてんのか!? こんなに近くで鳴ってるのに!」
「……違う」
深夏は死響子の背面ディスプレイを見る。
【TARGET:未検出】
【FREQUENCY:0.00Hz】
【TRACE:NONE】
「死響子は、何も見つけてない」
「じゃあこの音は!?」
「……分からない」
深夏は胸元で死響子を強く抱きしめた。
「吸い上げられないんじゃない。……この鈴の音は、きっと過去の記録じゃない」
「過去の記録じゃない……?」
「うん。この音は……誰かを探すために鳴らされた音なのかもしれない。『ここにいるよ』って、深い霧の中で知らせるための音」
「助けてほしい音じゃない。……誰かを待ち続けている音。振り返らせて連れていきたいんじゃない。見つけてほしいだけ」
音は、少しずつ近づいてくる。
チリン……。チリン……。
座座席の通路を通り、深夏たちのすぐ後ろ──首筋を冷たい湿気が撫でた。
宗太が息を呑み、拳を握りしめた。
「……録音して、吸い上げるか?」
深夏は首を振った。
ダイヤルを回す手を止め、スイッチを切る。
「ううん」
「……これは、無理に吸い上げる音じゃないよ」
「……ずっと待ってたんだね」
「迎えに来てくれる人を。……見つけてくれる人を」
深夏は背後に向かって、
車内を満たす静寂に溶けるように、静かに語りかけた。
「もういいよ。……私たちが、見つけたから」
──チリン……。
鈴の音が、最後に一度だけ、とても優しく響いた。
次の瞬間、背後を押し包んでいた湿った冷気が、スーッと夜の霧の中に溶けて消えていった。
◇
終点の停留所。
エンジンが止まり、静まり返った車内。
最後尾の座席へ歩いていくと、シートの上にぽつんと、錆びついた小さな真鍮の鈴がひとつだけ転がっていた。
深夏はそれを両手でそっと拾い上げる。
その瞬間──。
死響子の表示ランプが、ふっと一度だけ白く点灯した。
深夏は眉を寄せる。
【未詳細残響反応】
【波形:未検出】
深夏は両手で包み込んだ鈴を、ゆっくりと死響子のノズルへ近づけた。
【TARGET:未検出】
【TARGET:……】
【TARGET:解析中】
「……死響子に触ってないのに」
「……勝手に死響子が拾ったんじゃない」
「この音が……最後まで、誰かに届こうとしていたんだ」
カチリ。
何も触れていないはずの真鍮の筒で、押しこんでいない録音ランプが、静かに、けれど力強く灯った。
【REC】
表示された波形モニターに、一筋の美しい波が描かれる。
そこに刻まれたのは鈴の音ではなく──誰かが何十年も深い霧の中で待たせ続けていた、たった一言だった。
スピーカーから、湿った風音とともに、途切れ途切れの声が溢れ出す。
『……ここ……』
ザザッ……。
『……見つけ……て……』
波形が静かに凪ぎ、画面に【RECORDED】の文字が灯る。
深夏は手のひらの上の、錆びついた鈴を見つめた。
「……鈴の音は、過去の音じゃなかった。今もずっと、届こうとして鳴っていただけ」
「……じゃあ、今残ったのは?」
「鈴の奥で眠っていた……その人の、最後の声」
宗太は言葉を失い、静かに煙草を咥えた。
深夏は死響子の真鍮の肌を、慈しむように撫でた。
「……届いたよ。何十年もかかったけど……ちゃんと声、届いたからね」
◇
翌日。
事務所の机の上に、
運行会社から送られてきた乗客の調査資料が広げられていた。
宗太が資料を指で弾く。
「……妙なんだよな」
「鈴が聞こえた奴ら……全員、この山に関係する喪失経験があった。家族、友人……大切な誰かを失った奴ばかりだ」
深夏はポケットの中の、錆びた真鍮の鈴にそっと触れた。
「……忘れたんじゃない」
「忘れようとしていただけ」
深夏は事務所の隅にある死響子を見つめた。
そこには、昨夜記録された波形が静かに保存されている。
「あの人はね……忘れられたくなかったんじゃない。ずっと、自分の最後の声を届ける人を待ってただけ」
「……届くのを?」
「うん」
深夏は小さく微笑み、死響子を抱き直した。
車窓の外には、晴れ渡った空から優しい光が差し込んでいた。
「届いて、よかった」
「……けど」
「……最近、死響子なんか変」
「……拾えない音まで拾うようになってる気がする」
深夏は真鍮のボディを指先で撫でる。
「前は、こんなこと出来なかった」
「機械ってのは、壊れる時も突然だぞ」
「……違う」
「そういう感じじゃない」
「出来ることが……増えてる」
死音を拾うだけじゃない。
届かなかった音を、この手で抱きとめるために。




