第11話「盆唄録音師・神谷宗太」
夏の終わりの湿った風が、山間の小さな集落を吹き抜けていく。
神谷宗太は白いワゴン車のエンジンを切り、使い古された手桶と線香を手に取った。
山奥の共同墓地の一角。苔生した誰も訪れなくなった古い墓並びの中で、その墓だけが綺麗に掃き清められていた。
石段を上り、苔を削り落とした墓石の前で足を止める。
柄杓で水をかけ、線香に火を点ける。白い煙がゆらりと立ち上った。
宗太はポケットに手を突っ込んだまま、墓石を見下ろして低く呟く。
「……また、助けられたわ」
風が墓裏の竹林をシャワシャワと揺らす音だけが返事をした。
◇
墓参りを終え、麓の駐車場へ戻る道中。
山裾の広場から、かすかに風に乗って太鼓の音が聞こえてきた。
ドンドコ、ドン、ドコ。
どこか懐かしい、祭りの匂い。
宗太は立ち止まり、煙草に火をつけながら遠くの提灯の灯りを見つめた。
(そういや……音響オタク《みなか》のやつ、前に言ってたな)
『盆踊りはね、死んだ音を混ぜて誤魔化すための行事なんだよ』
『生きてる人間の足音と、帰ってきた死者の足音を、太鼓の重低音でかき消して、一緒に踊らせるの』
「……あいつの言うことは、いちいち縁起が悪いんだよな」
苦笑しながらも、宗太は吸い寄せられるように広場へと足を向けていた。
赤い提灯がズラリと並ぶ、古き良き田舎の盆踊り。
かき氷の甘いシロップの匂い、焼きそばの香ばしいソースの焦げる音。家族連れの笑い声。
子どもの頃、親に連れられて行った祭りの記憶がノスタルジックに脳裏をよぎる。
(深夏のやつにお土産でも買っていくか……あいつ、甘いもん好きだしな)
和菓子屋の出店で『かげろう』の箱を買い、紙袋を手に提灯の輪を眺めていた──その時だった。
ピタリ。
太鼓の音が、唐突に途切れた。
「……え?」
笛の音も、人々の話し声も、子供の笑い声も。
まるで世界そのものの再生ボタンが押されたままフリーズしたかのように、ぴたりと止まった。
浴衣を着た男も、かき氷を食っていた子供も、踊り子たちも、全員がピクリとも動かない。
マネキンの群れに、生者が独りだけ取り残された。
ただ──録音された音源の太鼓と歌声だけが、スピーカーからシャリシャリと虚しく鳴り続けている。
「おい……冗談だろ……?」
冷や汗が宗太の背中を吹き出した。
深夏がいない。死響子もない。いつもの「音を消してくれる安全装置」が何ひとつない。
その瞬間、停止していた踊り子たちの首が、ギギギ……と粘りつくような音を立てて一斉に宗太の方へと向く。
目と口の場所が、黒い影のように塗り潰されていた。
無音のまま宗太を取り囲むように、ゆらり、ゆらりと踊りながら間合いを詰めてくる。
(やばいやばいやばい!! おい深夏! さっき『音響オタク』って言ったの謝る! 謝るから早く助けろ!!)
心の中で情けなく叫ぶ。
手袋を嵌めた手が、恐怖で激しく震えた。
足がすくんで動かない。
無数の影が、宗太を「あちら側」の踊りの輪へ引きずり込もうと手を伸ばしてくる。
死ぬ。
踊り殺される──。
その時だった。
踊り子の隙間。
金魚すくいの屋台の脇に、狐のお面を頭に斜めに被った一人の少年が立っていた。
少年は静かに宗太と目を合わせると、ゆっくりと、宗太の『後ろ』を指差した。
「お前……」
「……後ろ」
宗太はゴクリと唾を呑み込み、覚悟を決めた。
自分にだって聞こえているものがある。深夏の言っていた言葉が、脳裏で鮮明に再生される。
『宗太先輩は、その奥まで聞こえてる』
宗太は振り返った。
無数の影が乱舞する輪の中。
周囲の影たちの足音は、ドン、ドン、ドン、と太鼓のリズムと完璧に合っている。
だが──
たった一人、いや、「一体だけ」。
ドン……ドン。
足音の拍子が、わずかに半拍ズレているヤツがいた。
太鼓の重低音の奥で、異質なリズムを刻む不快な音。
「……違う」
宗太は荒い呼吸のまま、その「ズレ」の主を睨みつけた。
「こいつだけ……踊れてねぇ」
音の奥にある違和感に集中する。
深夏のように音を消すことはできなくても、混ざり込んだノイズの居場所だけは、痛いほどハッキリと耳に届いていた。
「お前だけ……音が合ってねえんだよ!」
宗太が指を突きつけ、そいつを一直線に言い当てた、その瞬間──。
ギヤアアアアアアアアアアアッッ!!!!
正体を聞き咎められた「それ」が悲鳴を上げ、黒い霧となって弾け飛んだ。
連鎖するように、周りの影たちがガラガラとガラスのように崩れ落ちていく。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
膝をつき、激しい呼吸を整えハッと顔を上げると、そこには元の賑やかな祭りの風景が戻っていた。
太鼓の音がリアルな振動として鼓膜を揺らし、子供たちの歓声が響いている。
宗太は立ち上がり、携帯を取り出すと、提灯の明かりが照らす賑やかな会場の風景を一枚カシャリと収めた。
そして、狐面を被っていた少年のいた場所を見回す。
そこには誰もいない。ただ、夜風が吹き抜けていくだけだった。
「……あいつ」
◇
【翌日──事務所】
「お土産、買って来てくれた?」
事務所のソファで毛布にくるまった深夏が、開口一番に言った。
「ほらよ」
宗太は言われた通り、紙袋から『かげろう』の箱を取り出してテーブルへ置いた。
「……かげろう」
「好きだったろ」
深夏は少しだけ嬉しそうに目を細め、箱の包装紙を丁寧に剥がし始めた。
「覚えてたんだ」
「しかし昨日は、山奥の盆踊りで怪異に巻き込まれて大変だったぜ。マジで死ぬかと思った」
「大丈夫だった?」
「ああ。助けてもらったからな」
「誰に??」
「"変な奴"だよ」
宗太は煙草に火をつけ、紫煙を吐き出しながらスマホを取り出した。
昨日撮った写真を画面に出した。
「一応、写真撮っといたんだけどな」
深夏が画面を覗き込む。
画面に写っていたのは──提灯も、屋台も、踊り子も存在しない。
ただ暗闇の中にぽつんと佇む、昼間宗太が手を合わせた『あの墓石』だけだった。
「……写真、祭り写ってないよ。お墓だけ」
深夏は『かげろう』を咥えたまま、少し驚いたように首を傾げた。
「お墓で踊ったの?」
「……やっぱり、写ってねぇよな」
宗太は画面を閉じ、スマホをポケットへ仕舞い込んだ。
「ねぇ、本当にそれ"盆踊り"だったの?」
宗太はしばらく何も答えなかった。
カチリ、とライターを閉じる金属音が響き、紫煙だけが静かに天井へ昇っていく。
宗太はゆっくりと口を開いた。
「……祭りってのはさ」
「呼ばれた奴しか行けねぇ時が、きっとあるんだろな」
「宗太先輩は、呼ばれたの?」
「……違う」
「迎えに来てくれたんだよ」
宗太はポケットの中で、墓参りに持参した数珠を静かに握りしめる。
「昔からなんだよ。俺がヤバい時だけ、あいつは現れる」
しばらくの沈黙の後、深夏は『かげろう』を一口かみしめ小さく呟いた。
「……なんか分からないけど、"変な奴"だね。その人」
宗太は苦笑し、窓の外へ目を向ける。
遠い山並みの向こう。あの墓だけは、来年もきっと綺麗なままなんだろう。
「……また助けられたな」
ピッ──。
「……ん?」
深夏が顔を上げ、隣の死響子を見つめる。
液晶がふっと灯ると同時にノイズが一瞬だけ走り、文字がゆっくりと浮かび上がっていく。
【TARGET:未検出】
【FREQUENCY:--】
【AMPLITUDE:0】
【TRACE:照合中...】
【TRACE:UNKNOWN】
【TARGET:未検出】
宗太が肩をすくめる。
「やっぱ、何かおかしくなってるんじゃね?」
「……最近」
「……死響子が、知らない音を探してるみたい」




