第12話「笑顔のノイズ」
夏の終わり。
傾いた陽光が、雑居ビルの二階にある小さな事務所へ橙色の長い影を落としていた。
デスクの端では、冷めきった缶コーヒーの表面に微かな油膜が張っている。
「深夏お姉ちゃん……お願いがあるの」
事務所の古びたパイプ椅子にちょこんと腰掛け、消え入りそうな声を出したのは、十歳ほどの少女──葵だった。
深夏のアパートの近所に住む小学生だ。
「夜になると幽霊を集めている不気味な女がいる」という、近所の妙な噂を確かめようと何度も深夏の後をついてきて、いつの間にか顔見知りになってしまった子だった。
小さな両手で、背負ったランドセルのベルトを壊れそうなほど固く握りしめている。
宗太は咥え煙草の煙を吐き出しながら、低く太い声で眉をひそめた。
「おいおい、勘弁してくれよ……保護者はどうした。こんな夕方に子供が一人で来ていい場所じゃねえぞ、ここは」
「ううん、一人で来たの。深夏お姉ちゃんにしか……言えないことだから」
ソファに深く身を沈めていた深夏は、ゆっくりと体を起こした。
表情ひとつ変えない無機質な黒い瞳で、葵の震える肩を静かに見つめる。
「……誰か、亡くなったの?」
葵は大きな瞳を揺らし、言葉を詰まらせながらも、ポツリポツリと溢れ出すように口を開く。
「……美咲ちゃんっていう、同じクラスの子。先週、病気で死んじゃったの。大人たちは『最後も笑顔で、強い子だった』って泣いてた。でも……」
ポロリと、葵の目から大粒の涙がこぼれ落ち、ランドセルの革に黒い染みを作った。
「美咲ちゃん……入院中も、亡くなる直前までずっと笑ってたの。みんな『偉いね、最期まで笑顔でお別れできたね』って褒めてた」
「でも……私、知ってるの」
「美咲ちゃん、わたしが最後に行った時は笑ってなかった。お願い、深夏お姉ちゃん。美咲ちゃんの……本当の『声』を聞かせて」
深夏は何も言わず、静かに死響子を抱きかかえて立ち上がった。
「おい、どこ行くつもりだよ深夏。まさか病院か?」
「……その子が、最後まで行きたかった場所」
◇
放課後の小学校は、昼間の賑やかさが嘘のように死に絶えていた。
閉ざされた教室の真ん中で、深夏は死響子を起動させる。
カチリ。
真空管の青白い光と夕焼けがカーテン越しに交わり、太い磁気テープが鈍い音を立ててゆっくりと回転を始める。
ジジジ……という不快な砂嵐のようなノイズの波の中から、不自然なほど明るく高い少女の笑い声が再生された。
『あははっ! 大丈夫だよ! 全然平気! また来てね!』
屈託のない、朗らかな子供の笑い声。
深夏は無言で、死響子のゲインとダイヤルに指をかけた。
ジョリ……とノイズが剥がれる。
『今日は……先生来てくれた』
『昨日はお母さんもいた』
『みんなも来てくれた』
さらにダイヤルを回す。
『千羽鶴、きれい』
『お手紙、うれしい』
「こういうの、俺なんかダメなんだよな……」
腕を組み、波形モニターを見つめていた宗太の声に濁点が混ざる。
深夏は無表情のまま、ダイヤルをもう一段絞った。
『……でも』
『今日は誰も来ない』
『……大丈夫』
『みんな学校があるから』
『みんな、悪くない』
『……でも』
『明日も来なかったら』
『私、もう友達じゃないのかな』
『病気だから?』
『死んじゃうから?』
『もう一緒に遊べないから?』
「違う……っ、違うよ……っ!」
葵が顔を歪め、ボロボロと涙を流しながら叫ぶ。
「そんなこと思ってなかった……! 一緒に遊びたかったよ……!」
だが、再生される声は誰も責めてはいなかった。
『あはは……っ』
『笑ってたら』
『みんな安心するから』
『美咲ちゃん、元気そうって言ってくれるから』
『そしたら……』
『また来てくれるよね』
『……来て、くれるよね?』
「……っ」
葵が膝をつき、床に伏して泣きじゃくった。
「……だって、わたし一人じゃ病院に行けないし、先生もお母さんも今は治療で大変だろうから、美咲ちゃんがもう少し元気になったらって!」
「……まだ、続きがあるよ」
深夏の静かな声とともに、死響子のダイヤルが極限まで絞り込まれた。
ザザッ────。
雑音が完全に消え去り、静まり返った闇の中に、剥き出しの心が響く。
『葵ちゃん』
『最初の日、来てくれて嬉しかった』
『千羽鶴の折り方教えてくれて、一緒に折ったの覚えてる』
『あの日……学校にいるみたいだった』
葵がハッと息を止める。
『……苦しくない』
『もう痛くない』
『……でも』
『学校……行きたい』
『みんなと……遊びたい』
『葵ちゃん……また学校行こうね』
それが、ノイズの最奥に隠されていた、美咲の「最後の死音」だった。
葵は胸を押さえ、溢れ出る涙を拭うことも忘れて聴き入っていた。
美咲は、あの日葵が来てくれたことをちゃんと覚えていた。短い時間でも、彼女の世界は確かに輝いていたのだ。
深夏は静かに死響子のスイッチを押し込み、残音を吸い上げていく。
ノイズが闇に溶け、静寂が教室を包み込んだ。
葵が涙に濡れた顔を拭いながら、ぽつりと呟く。
「美咲ちゃん……きっと、寂しかったよね」
「うん、そうだね」
深夏は静かに答えた。
「私、友達じゃなかったのかな」
「違うよ」
「友達だったから、笑ったんだと思う」
「……え?」
「嫌われたくなかったんじゃない。……心配させたくなかったんだと思う」
死響子の液晶がふっと灯る。
ID:0514
TARGET:また学校行こうね
TYPE:残響型(ECHO)
SOURCE:小児病棟・未完音韻
TIME:00:14
深夏はその表示を静かに見つめた。
液晶から、小さな波形が一度だけ揺れた。
その瞬間──。
開け放たれた窓の外から、下校する子どもたちの賑やかな笑い声が風に乗って聞こえた。
◇
夕暮れの帰り道。
茜色に染まる住宅街の坂道を、三人で並んで歩いていた。
すっかり陽が落ち、辺りが暗くなってきた。
「よし、送るぞ」
宗太がポケットに手を突っ込んだまま言った。
「私も?」
深夏が自分に向けられた言葉だと思って尋ねると、宗太は呆れたように頭をかく。
「お前は一人で帰れるだろ。って、これから仕事だろーが」
宗太の目線は、隣を歩く葵に向けられていた。
すると、歩いていた葵が振り返り、深夏の裾をちょこんと引っ張った。
「……私、忘れない。美咲ちゃんが学校に来たがってたこと。ずっと覚えてる」
葵は涙を拭い、真っ直ぐに二人を見つめた。
「深夏お姉ちゃんも一緒に行って」
「随分と懐かれたな」
宗太がニヤリと笑う。
「……宗太先輩より優しいもん」
「……否定できねぇ」




