第13話「五文字の残響」
深夜一時。
義父の部屋から、また「あー……うー……」という掠れた声が聞こえる。
中村美奈は重い体を起こし、暗い廊下を歩いて部屋へ向かった。
「……今度は、何?」
返事はない。
ただ義父が弱々しく手を伸ばし、何かを訴えている。
「水? 薬? トイレ……?」
美奈が何度も聞き返すと、中村正雄は苦しそうに手を振った。
構音障害のせいで言葉にならない吐息と雑音がベッドに落ちる。
「……いつまで続くのよ! こんな生活っ……!!」
台所でコップに水を注ぎながら、美奈は激しい怒りに肩を震わせた。
「夫や義兄たちは『心配してる』って口だけ。義姉さん達だって『施設を考えた方がいいんじゃない』って他人事みたいに言うだけ……!」
水を入れたコップを強く握りしめる。
「なんで私だけ!? どうして私だけが! 毎晩毎晩、こんな時間に起こされてまで、こんな声を聞かなきゃいけないのよっ……!」
そう吐き捨てた瞬間、パチリと音を立てて廊下の電気が消えた。
非常灯の薄明かりの中、足元に落ちた自分の影の隣に──もうひとつ、人型の黒い影がへばりついていた。
◇
それ以来、影は美奈を追い詰めるように現れ続けた。
ある夜、ふと目を覚ますと、暗闇の中で黒い影が顔のすぐ横に立ち、覆いかぶさるように監視していた。
また別の日は、影が部屋の中の物をじっと指差していた。
食卓の上の薬。畳まれた車椅子。ベランダに干された洗濯物。
影はいつも、美奈がその日いちばん疲れて、うんざりしていた場所を指差していた。
疲れて美奈が床に座り込むと、影も同じように座り込む。
美奈が深ため息をつくと、嘲笑するように影もゆっくりと首を落とす。
義父の偏屈な態度と、付きまとう影の恐怖。
美奈の心身は、すでに限界を超えていた。
◇
翌日の夕方。
出勤途中に異変を察知した深夏の連絡を受け、宗太と深夏は美奈のマンションを訪れていた。
マンションの外壁には夕日によって長く黒い影が伸びていたが、その中にひとつだけ、人型をした歪な影がべったりと張り付いている。
やつれた顔の美奈は、二人を部屋に通すと絞り出すように言った。
「毎日……影が濃くなるんです。寝ようとすると顔を覗き込まれ、部屋の物を指差されて……『もっと尽くせ、逃げるな』って責められているみたいで……!」
宗太が尋ねる。
「義父さんとの関係は?」
美奈は自嘲気味に目を伏せた。
「 自分の父親でもきついのに、義父ですよ? そんなの、最悪に決まっているでしょう。昔から頑固で、病気になってからは余計に酷くなって。何をしても嫌な顔で手を振られるだけ。親戚もみんな私に押し付けて知らん顔……私は、あの人にも家族にも、ずっといいように使われて嫌われていたんです」
その時、美奈のスマホが甲高いく鳴り響いた。
訪問介護の業者からだった。
『──中村さん!? お義父さんの容態が急変して……!』
◇
駆けつけた病院で、義父の死亡が確認された。
介護士や医師が退出した静かな病室。残されたのは、冷たくなった義父と美奈、宗太、深夏だけだった。
──次の瞬間、部屋の中の「影」が急激に膨れ上がった。
壁や床を真っ黒に塗り潰しながら肥大化し、美奈の目の前に立ち塞がる。
影の頭部が、ゆっくりと下がっていく。
「ひっ……! この影、いつになったら消えるのよ!?」
美奈が怯えて後ずさりしたその時、彼女のスマホに非通知の着信が入る。
震える手で応答ボタンを押し、耳に当てた。
電話からは誰も喋らない。
ただ──
タッ……タッ……タッ……
何かを叩くような、規則的で小さな音が静寂に響いていた。
「……なんだよ、この音。モールス信号か?」
宗太が眉をひそめると、深夏は首を横に振った。
「違う。……文字を打つ音」
深夏は胸元の『死響子』のノズルを、美奈のスマホに向けた。
真鍮の針が激しく振れる。
「……死響子がスマホに反応してる。お義父さん……スマホを使えたんですか?」
「いえ、そんなはずは……」
「そう言えば……声が出なくなってから意思疎通アプリを入れたんですけど……上手く使えないみたいで、ずっと放っていたのが……あ、ありました」
「アプリを……開いてみてください」
美奈が震える手でアプリを起動すると、そこには大量の「未発信」の文章が残されていた。
どれも途中で止まっている。麻痺した指で何度も何度もキーを叩き、けれど完成させる前に力尽きて眠ってしまう──そんな繰り返しの履歴。
深夏がスマホを死響子の前にかざすと、黒い影からすっと細い指が伸び、死響子のノズルに触れた。
カチリ。
影の指先が画面をなぞる。
スピーカーから最初に聞こえたのは、声ではなかった。
震える指が、画面を叩く音。
タッ……。
タッ……。
何度も失敗して。消して。
それでも諦めずに画面を叩き続けた、歪で必死な音の残響。
その音の奥から──
『……あ』
音になりかけた感情が、途切れ途切れに零れ落ちた。
深夏はスマホの画面を見た。
そこには、何度も何度も同じ場所で途切れた文章。
そして、最後の日付。
「……ずっと、打とうとしてたんだ」
画面に残された五文字の残響。
それは、義父が最後まで送ろうとして、送れなかった言葉だった。
◇
病室の中に、静寂が伸びる。
美奈は息を詰まらせ、歪な影を見つめた。
水を持っていった時。薬を飲ませようとした時。車椅子を押そうとした時。何度も何度も、義父は苛立ったように手を振り、嫌そうな顔をした。
深夏が静かに口を開いた。
「……でも」
「あなたを傷つけたことも……きっと、あったんだと思います」
美奈が、振り向く。
影は変わらず、側から離れない。
「苦しくて、悔しくて、思うように話せなくて……あなたに当たったこともあった。八つ当たりしたことも、鬱陶しいと思ったこともあったはずです」
深夏は影を見つめたまま、言葉を紡いだ。
「自由を奪われた悔しさも、不満も全部あった。……でも、その全部の奥に残っていた本音が、これだった」
美奈は、そこで初めて気づいた。
影が指差していたものは、全部──義父自身にはもうできなくなったことだった。
食卓に並べられた食事。
薬を飲むこと。
車椅子で移動すること。
洗濯された服を着ること。
かつて当たり前だった生活を、今は誰かに頼らなければ維持できない。
その度に影は、何かを求めるように手を伸ばしていたのかもしれない。
美奈の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……私」
「……嫌われてると思ってた……ずっと、私だけが苦しいと思ってたのに……っ」
泣き崩れる美奈の前で、黒い影は最後にもう一度だけ、美奈へ向かって深く頭を下げた。
そのまま影は、夕闇の静寂の中へと静かに溶けて消えていった。
◇
ピッ。
事務所に戻った深夏が顔を上げ、隣の死響子を見つめる。
液晶に一瞬だけノイズが走り、白い文字がゆっくりと浮かび上がった。
【ID:0512】
【TARGET:未完の礼】
【TYPE:残響型(ECHO)】
【SOURCE:意思伝達端末】
【TIME:03:42】
深夏は静かに死響子を撫でた。
「……届いて、よかったね」
宗太は煙草の煙を吐き出す。
「……言えなかったから、残ったんだろうな」
夜の事務所に、二人の静かな呼吸音と煙草の煙だけが、どこまでも優しく満ちていった。
その時──背後から声がした。
『相変わらずお前は』
『カッコつけた台詞が好きだねぇ』
「社長!? いつ帰って来たんですか」
「ついさっき。どうしても、お前たちの顔を見たくなってね」
「何言ってんだよ。深夏の顔だけでしょうが」
深夏は死響子を抱えて逃げた。
女は笑い、薄い灰色のレンズ越しに宗太を見下ろす。
「それで?」
「あと、何種類の死音が残ってる?」
「……今日『感謝の死音』を録ったから、あと十種類です」
「なんだ、ちゃんと順調じゃないか」
「順調じゃないですよ」
「……なんか最近、死響子がおかしいみたいで」
「録れない音を録る。録るはずのない音を拾う。挙動が少しずつ変わって来てるって、深夏が……」
「……やっぱり始まってるのね」
「死響子は完成に近づくほど、誰のための道具なのか分からなくなる」
「完成? それ、どういう意味ですか?」
「全部集まった時、あれがどうなるのか──」
「社長……本当は何か知ってるんじゃないですか」
女は深夏が抱えていった死響子が居た場所を見つめた。
「知らないよ。知っていたら、とっくに止めてる」
「全部集めた時、あの子がこの世から深夜一時。
義父の部屋から、また「あー……うー……」という掠れた声が聞こえる。
中村美奈は重い体を起こし、暗い廊下を歩いて部屋へ向かった。
「……今度は、何?」
返事はない。
ただ義父が弱々しく手を伸ばし、何かを訴えている。
「水? 薬? トイレ……?」
美奈が何度も聞き返すと、中村正雄は苦しそうに手を振った。
構音障害のせいで言葉にならない吐息と雑音がベッドに落ちる。
「……いつまで続くのよ! こんな生活っ……!!」
台所でコップに水を注ぎながら、美奈は激しい怒りに肩を震わせた。
「夫や義兄たちは『心配してる』って口だけ。義姉さん達だって『施設を考えた方がいいんじゃない』って他人事みたいに言うだけ……!」
水を入れたコップを強く握りしめる。
「なんで私だけ!? どうして私だけが! 毎晩毎晩、こんな時間に起こされてまで、こんな声を聞かなきゃいけないのよっ……!」
そう吐き捨てた瞬間、パチリと音を立てて廊下の電気が消えた。
非常灯の薄明かりの中、足元に落ちた自分の影の隣に──もうひとつ、人型の黒い影がへばりついていた。
◇
それ以来、影は美奈を追い詰めるように現れ続けた。
ある夜、ふと目を覚ますと、暗闇の中で黒い影が顔のすぐ横に立ち、覆いかぶさるように監視していた。
また別の日は、影が部屋の中の物をじっと指差していた。
食卓の上の薬。畳まれた車椅子。ベランダに干された洗濯物。
影はいつも、美奈がその日いちばん疲れて、うんざりしていた場所を指差していた。
疲れて美奈が床に座り込むと、影も同じように座り込む。
美奈が深ため息をつくと、嘲笑するように影もゆっくりと首を落とす。
義父の偏屈な態度と、付きまとう影の恐怖。
美奈の心身は、すでに限界を超えていた。
◇
翌日の夕方。
出勤途中に異変を察知した深夏の連絡を受け、宗太と深夏は美奈のマンションを訪れていた。
マンションの外壁には夕日によって長く黒い影が伸びていたが、その中にひとつだけ、人型をした歪な影がべったりと張り付いている。
やつれた顔の美奈は、二人を部屋に通すと絞り出すように言った。
「毎日……影が濃くなるんです。寝ようとすると顔を覗き込まれ、部屋の物を指差されて……『もっと尽くせ、逃げるな』って責められているみたいで……!」
宗太が尋ねる。
「義父さんとの関係は?」
美奈は自嘲気味に目を伏せた。
「 自分の父親でもきついのに、義父ですよ? そんなの、最悪に決まっているでしょう。昔から頑固で、病気になってからは余計に酷くなって。何をしても嫌な顔で手を振られるだけ。親戚もみんな私に押し付けて知らん顔……私は、あの人にも家族にも、ずっといいように使われて嫌われていたんです」
その時、美奈のスマホが甲高いく鳴り響いた。
訪問介護の業者からだった。
『──中村さん!? お義父さんの容態が急変して……!』
◇
駆けつけた病院で、義父の死亡が確認された。
介護士や医師が退出した静かな病室。残されたのは、冷たくなった義父と美奈、宗太、深夏だけだった。
──次の瞬間、部屋の中の「影」が急激に膨れ上がった。
壁や床を真っ黒に塗り潰しながら肥大化し、美奈の目の前に立ち塞がる。
影の頭部が、ゆっくりと下がっていく。
「ひっ……! この影、いつになったら消えるのよ!?」
美奈が怯えて後ずさりしたその時、彼女のスマホに非通知の着信が入る。
震える手で応答ボタンを押し、耳に当てた。
電話からは誰も喋らない。
ただ──
タッ……タッ……タッ……
何かを叩くような、規則的で小さな音が静寂に響いていた。
「……なんだよ、この音。モールス信号か?」
宗太が眉をひそめると、深夏は首を横に振った。
「違う。……文字を打つ音」
深夏は胸元の『死響子』のノズルを、美奈のスマホに向けた。
真鍮の針が激しく振れる。
「……死響子がスマホに反応してる。お義父さん……スマホを使えたんですか?」
「いえ、そんなはずは……」
「そう言えば……声が出なくなってから意思疎通アプリを入れたんですけど……上手く使えないみたいで、ずっと放っていたのが……あ、ありました」
「アプリを……開いてみてください」
美奈が震える手でアプリを起動すると、そこには大量の「未発信」の文章が残されていた。
どれも途中で止まっている。麻痺した指で何度も何度もキーを叩き、けれど完成させる前に力尽きて眠ってしまう──そんな繰り返しの履歴。
深夏がスマホを死響子の前にかざすと、黒い影からすっと細い指が伸び、死響子のノズルに触れた。
カチリ。
影の指先が画面をなぞる。
スピーカーから最初に聞こえたのは、声ではなかった。
震える指が、画面を叩く音。
タッ……。
タッ……。
何度も失敗して。消して。
それでも諦めずに画面を叩き続けた、歪で必死な音の残響。
その音の奥から──
『……あ』
音になりかけた感情が、途切れ途切れに零れ落ちた。
深夏はスマホの画面を見た。
そこには、何度も何度も同じ場所で途切れた文章。
そして、最後の日付。
「……ずっと、打とうとしてたんだ」
画面に残された五文字の残響。
それは、義父が最後まで送ろうとして、送れなかった言葉だった。
◇
病室の中に、静寂が伸びる。
美奈は息を詰まらせ、歪な影を見つめた。
水を持っていった時。薬を飲ませようとした時。車椅子を押そうとした時。何度も何度も、義父は苛立ったように手を振り、嫌そうな顔をした。
深夏が静かに口を開いた。
「……でも」
「あなたを傷つけたことも……きっと、あったんだと思います」
美奈が、振り向く。
影は変わらず、側から離れない。
「苦しくて、悔しくて、思うように話せなくて……あなたに当たったこともあった。八つ当たりしたことも、鬱陶しいと思ったこともあったはずです」
深夏は影を見つめたまま、言葉を紡いだ。
「自由を奪われた悔しさも、不満も全部あった。……でも、その全部の奥に残っていた本音が、これだった」
美奈は、そこで初めて気づいた。
影が指差していたものは、全部──義父自身にはもうできなくなったことだった。
食卓に並べられた食事。
薬を飲むこと。
車椅子で移動すること。
洗濯された服を着ること。
かつて当たり前だった生活を、今は誰かに頼らなければ維持できない。
その度に影は、何かを求めるように手を伸ばしていたのかもしれない。
美奈の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……私」
「……嫌われてると思ってた……ずっと、私だけが苦しいと思ってたのに……っ」
泣き崩れる美奈の前で、黒い影は最後にもう一度だけ、美奈へ向かって深く頭を下げた。
そのまま影は、夕闇の静寂の中へと静かに溶けて消えていった。
◇
ピッ。
事務所に戻った深夏が顔を上げ、隣の死響子を見つめる。
液晶に一瞬だけノイズが走り、白い文字がゆっくりと浮かび上がった。
【ID:0512】
【TARGET:未完の礼】
【TYPE:残響型(ECHO)】
【SOURCE:意思伝達端末】
【TIME:03:42】
深夏は静かに死響子を撫でた。
「……届いて、よかったね」
宗太は煙草の煙を吐き出す。
「……言えなかったから、残ったんだろうな」
夜の事務所に、二人の静かな呼吸音と煙草の煙だけが、どこまでも優しく満ちていった。
その時──背後から声がした。
『相変わらずお前は』
『カッコつけた台詞が好きだねぇ』
「社長!? いつ帰って来たんですか」
「ついさっき。どうしても、お前たちの顔を見たくなってね」
「何言ってんだよ。深夏の顔だけでしょうが」
深夏は死響子を抱えて逃げた。
女は笑い、薄い灰色のレンズ越しに宗太を見下ろす。
「それで?」
「あと、何種類の死音が残ってる?」
「……今日『感謝の死音』を録ったから、あと十種類です」
「なんだ、ちゃんと順調じゃないか」
「順調じゃないですよ」
「……なんか最近、死響子がおかしいみたいで」
「録れない音を録る。録るはずのない音を拾う。挙動が少しずつ変わって来てるって、深夏が……」
「……やっぱり始まってるのね」
「死響子は完成に近づくほど、誰のための道具なのか分からなくなる」
「完成? それ、どういう意味ですか?」
「全部集まった時、あれがどうなるのか──」
「社長……本当は何か知ってるんじゃないですか」
女は深夏が抱えていった死響子が居た場所を見つめた。
「知らないよ。知っていたら、とっくに止めてる」
「全部集めた時、あの子が……この世から消えるかもしれないんだから」




