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死音録音師・石川深夏の異響怪異譚  作者: 比古狭霧
第二章 音を抱く者

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13/14

第13話「五文字の残響」

深夜一時。


義父の部屋から、また「あー……うー……」という掠れた声が聞こえる。

中村美奈なかむらみなは重い体を起こし、暗い廊下を歩いて部屋へ向かった。


「……今度は、何?」


返事はない。

ただ義父が弱々しく手を伸ばし、何かを訴えている。


「水? 薬? トイレ……?」


美奈が何度も聞き返すと、中村正雄なかむらまさおは苦しそうに手を振った。

構音障害こうおんしょうがいのせいで言葉にならない吐息と雑音がベッドに落ちる。


「……いつまで続くのよ! こんな生活っ……!!」


台所でコップに水を注ぎながら、美奈は激しい怒りに肩を震わせた。


「夫や義兄たちは『心配してる』って口だけ。義姉さん達だって『施設を考えた方がいいんじゃない』って他人事みたいに言うだけ……!」


水を入れたコップを強く握りしめる。


「なんで私だけ!? どうして私だけが! 毎晩毎晩、こんな時間に起こされてまで、こんな声を聞かなきゃいけないのよっ……!」


そう吐き捨てた瞬間、パチリと音を立てて廊下の電気が消えた。

非常灯の薄明かりの中、足元に落ちた自分の影の隣に──もうひとつ、人型の黒い影がへばりついていた。





それ以来、影は美奈を追い詰めるように現れ続けた。

ある夜、ふと目を覚ますと、暗闇の中で黒い影が顔のすぐ横に立ち、覆いかぶさるように監視していた。


また別の日は、影が部屋の中の物をじっと指差していた。

食卓の上の薬。畳まれた車椅子。ベランダに干された洗濯物。

影はいつも、美奈がその日いちばん疲れて、うんざりしていた場所を指差していた。


疲れて美奈が床に座り込むと、影も同じように座り込む。

美奈が深ため息をつくと、嘲笑するように影もゆっくりと首を落とす。


義父の偏屈な態度と、付きまとう影の恐怖。

美奈の心身は、すでに限界を超えていた。





翌日の夕方。

出勤途中に異変を察知した深夏の連絡を受け、宗太と深夏は美奈のマンションを訪れていた。


マンションの外壁には夕日によって長く黒い影が伸びていたが、その中にひとつだけ、人型をした歪な影がべったりと張り付いている。


やつれた顔の美奈は、二人を部屋に通すと絞り出すように言った。


「毎日……影が濃くなるんです。寝ようとすると顔を覗き込まれ、部屋の物を指差されて……『もっと尽くせ、逃げるな』って責められているみたいで……!」


宗太が尋ねる。

「義父さんとの関係は?」


美奈は自嘲気味に目を伏せた。


「 自分の父親でもきついのに、義父ですよ? そんなの、最悪に決まっているでしょう。昔から頑固で、病気になってからは余計に酷くなって。何をしても嫌な顔で手を振られるだけ。親戚もみんな私に押し付けて知らん顔……私は、あの人にも家族にも、ずっといいように使われて嫌われていたんです」


その時、美奈のスマホが甲高いく鳴り響いた。

訪問介護の業者からだった。


『──中村さん!? お義父さんの容態が急変して……!』





駆けつけた病院で、義父の死亡が確認された。

介護士や医師が退出した静かな病室。残されたのは、冷たくなった義父と美奈、宗太、深夏だけだった。


──次の瞬間、部屋の中の「影」が急激に膨れ上がった。


壁や床を真っ黒に塗り潰しながら肥大化し、美奈の目の前に立ち塞がる。

影の頭部が、ゆっくりと下がっていく。


「ひっ……! この影、いつになったら消えるのよ!?」


美奈が怯えて後ずさりしたその時、彼女のスマホに非通知の着信が入る。

震える手で応答ボタンを押し、耳に当てた。


電話からは誰も喋らない。

ただ──


タッ……タッ……タッ……


何かを叩くような、規則的で小さな音が静寂に響いていた。


「……なんだよ、この音。モールス信号か?」


宗太が眉をひそめると、深夏は首を横に振った。


「違う。……文字を打つ音」


深夏は胸元の『死響子』のノズルを、美奈のスマホに向けた。

真鍮の針が激しく振れる。


「……死響子がスマホに反応してる。お義父さん……スマホを使えたんですか?」


「いえ、そんなはずは……」

「そう言えば……声が出なくなってから意思疎通アプリを入れたんですけど……上手く使えないみたいで、ずっと放っていたのが……あ、ありました」


「アプリを……開いてみてください」


美奈が震える手でアプリを起動すると、そこには大量の「未発信」の文章が残されていた。

どれも途中で止まっている。麻痺した指で何度も何度もキーを叩き、けれど完成させる前に力尽きて眠ってしまう──そんな繰り返しの履歴。


深夏がスマホを死響子の前にかざすと、黒い影からすっと細い指が伸び、死響子のノズルに触れた。


カチリ。


影の指先が画面をなぞる。

スピーカーから最初に聞こえたのは、声ではなかった。


震える指が、画面を叩く音。

タッ……。

タッ……。


何度も失敗して。消して。

それでも諦めずに画面を叩き続けた、歪で必死な音の残響。


その音の奥から──


『……あ』


音になりかけた感情が、途切れ途切れに零れ落ちた。

深夏はスマホの画面を見た。


そこには、何度も何度も同じ場所で途切れた文章。

そして、最後の日付。


「……ずっと、打とうとしてたんだ」


画面に残された五文字の残響。

それは、義父が最後まで送ろうとして、送れなかった言葉だった。





病室の中に、静寂が伸びる。


美奈は息を詰まらせ、歪な影を見つめた。

水を持っていった時。薬を飲ませようとした時。車椅子を押そうとした時。何度も何度も、義父は苛立ったように手を振り、嫌そうな顔をした。


深夏が静かに口を開いた。


「……でも」

「あなたを傷つけたことも……きっと、あったんだと思います」


美奈が、振り向く。

影は変わらず、側から離れない。


「苦しくて、悔しくて、思うように話せなくて……あなたに当たったこともあった。八つ当たりしたことも、鬱陶しいと思ったこともあったはずです」


深夏は影を見つめたまま、言葉を紡いだ。


「自由を奪われた悔しさも、不満も全部あった。……でも、その全部の奥に残っていた本音が、これだった」


美奈は、そこで初めて気づいた。

影が指差していたものは、全部──義父自身にはもうできなくなったことだった。


食卓に並べられた食事。

薬を飲むこと。

車椅子で移動すること。

洗濯された服を着ること。


かつて当たり前だった生活を、今は誰かに頼らなければ維持できない。

その度に影は、何かを求めるように手を伸ばしていたのかもしれない。


美奈の目から、せきを切ったように涙が溢れ出した。


「……私」

「……嫌われてると思ってた……ずっと、私だけが苦しいと思ってたのに……っ」


泣き崩れる美奈の前で、黒い影は最後にもう一度だけ、美奈へ向かって深く頭を下げた。

そのまま影は、夕闇の静寂の中へと静かに溶けて消えていった。





ピッ。


事務所に戻った深夏が顔を上げ、隣の死響子を見つめる。

液晶に一瞬だけノイズが走り、白い文字がゆっくりと浮かび上がった。


【ID:0512】

【TARGET:未完の礼】

【TYPE:残響型(ECHO)】

【SOURCE:意思伝達端末】

【TIME:03:42】


深夏は静かに死響子を撫でた。


「……届いて、よかったね」


宗太は煙草の煙を吐き出す。


「……言えなかったから、残ったんだろうな」


夜の事務所に、二人の静かな呼吸音と煙草の煙だけが、どこまでも優しく満ちていった。

その時──背後から声がした。



『相変わらずお前は』

『カッコつけた台詞が好きだねぇ』


「社長!? いつ帰って来たんですか」

「ついさっき。どうしても、お前たちの顔を見たくなってね」


「何言ってんだよ。深夏の顔だけでしょうが」


深夏は死響子を抱えて逃げた。

女は笑い、薄い灰色のレンズ越しに宗太を見下ろす。


「それで?」

「あと、何種類の死音が残ってる?」


「……今日『感謝の死音』を録ったから、あと十種類です」


「なんだ、ちゃんと順調じゃないか」

「順調じゃないですよ」


「……なんか最近、死響子がおかしいみたいで」

「録れない音を録る。録るはずのない音を拾う。挙動が少しずつ変わって来てるって、深夏が……」


「……やっぱり始まってるのね」

「死響子は完成に近づくほど、誰のための道具なのか分からなくなる」


「完成? それ、どういう意味ですか?」


「全部集まった時、あれがどうなるのか──」

「社長……本当は何か知ってるんじゃないですか」



女は深夏が抱えていった死響子が居た場所を見つめた。


「知らないよ。知っていたら、とっくに止めてる」

「全部集めた時、あの子がこの世から深夜一時。


義父の部屋から、また「あー……うー……」という掠れた声が聞こえる。

中村美奈なかむらみなは重い体を起こし、暗い廊下を歩いて部屋へ向かった。


「……今度は、何?」


返事はない。

ただ義父が弱々しく手を伸ばし、何かを訴えている。


「水? 薬? トイレ……?」


美奈が何度も聞き返すと、中村正雄なかむらまさおは苦しそうに手を振った。

構音障害こうおんしょうがいのせいで言葉にならない吐息と雑音がベッドに落ちる。


「……いつまで続くのよ! こんな生活っ……!!」


台所でコップに水を注ぎながら、美奈は激しい怒りに肩を震わせた。


「夫や義兄たちは『心配してる』って口だけ。義姉さん達だって『施設を考えた方がいいんじゃない』って他人事みたいに言うだけ……!」


水を入れたコップを強く握りしめる。


「なんで私だけ!? どうして私だけが! 毎晩毎晩、こんな時間に起こされてまで、こんな声を聞かなきゃいけないのよっ……!」


そう吐き捨てた瞬間、パチリと音を立てて廊下の電気が消えた。

非常灯の薄明かりの中、足元に落ちた自分の影の隣に──もうひとつ、人型の黒い影がへばりついていた。





それ以来、影は美奈を追い詰めるように現れ続けた。

ある夜、ふと目を覚ますと、暗闇の中で黒い影が顔のすぐ横に立ち、覆いかぶさるように監視していた。


また別の日は、影が部屋の中の物をじっと指差していた。

食卓の上の薬。畳まれた車椅子。ベランダに干された洗濯物。

影はいつも、美奈がその日いちばん疲れて、うんざりしていた場所を指差していた。


疲れて美奈が床に座り込むと、影も同じように座り込む。

美奈が深ため息をつくと、嘲笑するように影もゆっくりと首を落とす。


義父の偏屈な態度と、付きまとう影の恐怖。

美奈の心身は、すでに限界を超えていた。





翌日の夕方。

出勤途中に異変を察知した深夏の連絡を受け、宗太と深夏は美奈のマンションを訪れていた。


マンションの外壁には夕日によって長く黒い影が伸びていたが、その中にひとつだけ、人型をした歪な影がべったりと張り付いている。


やつれた顔の美奈は、二人を部屋に通すと絞り出すように言った。


「毎日……影が濃くなるんです。寝ようとすると顔を覗き込まれ、部屋の物を指差されて……『もっと尽くせ、逃げるな』って責められているみたいで……!」


宗太が尋ねる。

「義父さんとの関係は?」


美奈は自嘲気味に目を伏せた。


「 自分の父親でもきついのに、義父ですよ? そんなの、最悪に決まっているでしょう。昔から頑固で、病気になってからは余計に酷くなって。何をしても嫌な顔で手を振られるだけ。親戚もみんな私に押し付けて知らん顔……私は、あの人にも家族にも、ずっといいように使われて嫌われていたんです」


その時、美奈のスマホが甲高いく鳴り響いた。

訪問介護の業者からだった。


『──中村さん!? お義父さんの容態が急変して……!』





駆けつけた病院で、義父の死亡が確認された。

介護士や医師が退出した静かな病室。残されたのは、冷たくなった義父と美奈、宗太、深夏だけだった。


──次の瞬間、部屋の中の「影」が急激に膨れ上がった。


壁や床を真っ黒に塗り潰しながら肥大化し、美奈の目の前に立ち塞がる。

影の頭部が、ゆっくりと下がっていく。


「ひっ……! この影、いつになったら消えるのよ!?」


美奈が怯えて後ずさりしたその時、彼女のスマホに非通知の着信が入る。

震える手で応答ボタンを押し、耳に当てた。


電話からは誰も喋らない。

ただ──


タッ……タッ……タッ……


何かを叩くような、規則的で小さな音が静寂に響いていた。


「……なんだよ、この音。モールス信号か?」


宗太が眉をひそめると、深夏は首を横に振った。


「違う。……文字を打つ音」


深夏は胸元の『死響子』のノズルを、美奈のスマホに向けた。

真鍮の針が激しく振れる。


「……死響子がスマホに反応してる。お義父さん……スマホを使えたんですか?」


「いえ、そんなはずは……」

「そう言えば……声が出なくなってから意思疎通アプリを入れたんですけど……上手く使えないみたいで、ずっと放っていたのが……あ、ありました」


「アプリを……開いてみてください」


美奈が震える手でアプリを起動すると、そこには大量の「未発信」の文章が残されていた。

どれも途中で止まっている。麻痺した指で何度も何度もキーを叩き、けれど完成させる前に力尽きて眠ってしまう──そんな繰り返しの履歴。


深夏がスマホを死響子の前にかざすと、黒い影からすっと細い指が伸び、死響子のノズルに触れた。


カチリ。


影の指先が画面をなぞる。

スピーカーから最初に聞こえたのは、声ではなかった。


震える指が、画面を叩く音。

タッ……。

タッ……。


何度も失敗して。消して。

それでも諦めずに画面を叩き続けた、歪で必死な音の残響。


その音の奥から──


『……あ』


音になりかけた感情が、途切れ途切れに零れ落ちた。

深夏はスマホの画面を見た。


そこには、何度も何度も同じ場所で途切れた文章。

そして、最後の日付。


「……ずっと、打とうとしてたんだ」


画面に残された五文字の残響。

それは、義父が最後まで送ろうとして、送れなかった言葉だった。





病室の中に、静寂が伸びる。


美奈は息を詰まらせ、歪な影を見つめた。

水を持っていった時。薬を飲ませようとした時。車椅子を押そうとした時。何度も何度も、義父は苛立ったように手を振り、嫌そうな顔をした。


深夏が静かに口を開いた。


「……でも」

「あなたを傷つけたことも……きっと、あったんだと思います」


美奈が、振り向く。

影は変わらず、側から離れない。


「苦しくて、悔しくて、思うように話せなくて……あなたに当たったこともあった。八つ当たりしたことも、鬱陶しいと思ったこともあったはずです」


深夏は影を見つめたまま、言葉を紡いだ。


「自由を奪われた悔しさも、不満も全部あった。……でも、その全部の奥に残っていた本音が、これだった」


美奈は、そこで初めて気づいた。

影が指差していたものは、全部──義父自身にはもうできなくなったことだった。


食卓に並べられた食事。

薬を飲むこと。

車椅子で移動すること。

洗濯された服を着ること。


かつて当たり前だった生活を、今は誰かに頼らなければ維持できない。

その度に影は、何かを求めるように手を伸ばしていたのかもしれない。


美奈の目から、せきを切ったように涙が溢れ出した。


「……私」

「……嫌われてると思ってた……ずっと、私だけが苦しいと思ってたのに……っ」


泣き崩れる美奈の前で、黒い影は最後にもう一度だけ、美奈へ向かって深く頭を下げた。

そのまま影は、夕闇の静寂の中へと静かに溶けて消えていった。





ピッ。


事務所に戻った深夏が顔を上げ、隣の死響子を見つめる。

液晶に一瞬だけノイズが走り、白い文字がゆっくりと浮かび上がった。


【ID:0512】

【TARGET:未完の礼】

【TYPE:残響型(ECHO)】

【SOURCE:意思伝達端末】

【TIME:03:42】


深夏は静かに死響子を撫でた。


「……届いて、よかったね」


宗太は煙草の煙を吐き出す。


「……言えなかったから、残ったんだろうな」


夜の事務所に、二人の静かな呼吸音と煙草の煙だけが、どこまでも優しく満ちていった。

その時──背後から声がした。



『相変わらずお前は』

『カッコつけた台詞が好きだねぇ』


「社長!? いつ帰って来たんですか」

「ついさっき。どうしても、お前たちの顔を見たくなってね」


「何言ってんだよ。深夏の顔だけでしょうが」


深夏は死響子を抱えて逃げた。

女は笑い、薄い灰色のレンズ越しに宗太を見下ろす。


「それで?」

「あと、何種類の死音が残ってる?」


「……今日『感謝の死音』を録ったから、あと十種類です」


「なんだ、ちゃんと順調じゃないか」

「順調じゃないですよ」


「……なんか最近、死響子がおかしいみたいで」

「録れない音を録る。録るはずのない音を拾う。挙動が少しずつ変わって来てるって、深夏が……」


「……やっぱり始まってるのね」

「死響子は完成に近づくほど、誰のための道具なのか分からなくなる」


「完成? それ、どういう意味ですか?」


「全部集まった時、あれがどうなるのか──」

「社長……本当は何か知ってるんじゃないですか」



女は深夏が抱えていった死響子が居た場所を見つめた。


「知らないよ。知っていたら、とっくに止めてる」

「全部集めた時、あの子が……この世から消えるかもしれないんだから」

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