【第二章・完】第14話「記憶の雨音」
傾いた陽光が、雑居ビルの二階にある小さな事務所へ橙色の長い影を落としていた。
ソファの上で、深夏は小さく丸くなって眠っている。
胸元にはしっかりと『死響子』が抱きかかえられていた。黒い真鍮筐体の冷ややかな重みが、その細い身体にすっぽりと収まっている。
雨の匂いがした──。
まぶたを閉じたままでも、それが誰なのか分かった。
静かな足音が、ソファの脇で止まる。
「……またそんなところで寝て。風邪引くよ、深夏」
呆れたような、けれどどこか温かな声が落ちてくる。
腰まである髪の毛を片側に結んだ女性──篠宮沙月が、深夏の肩を軽く揺すった。
深夏はうっすらと黒い瞳を開き、眠たい目を擦りながら声を出す。
「……沙月さん」
次の瞬間、深夏の目が跳ねるように見開かれた。
腕の中の死響子をさらに強く引き寄せ、ソファから弾かれたように立ち上がると、そのまま奥へ逃げ出そうとする。
「あ、ちょっと深夏!どこ行くんだい!?」
だが、深夏の襟元は沙月の手慣れた指先にひょいとつまみ上げられた。
首根っこを押さえられた仔猫のように、深夏は足をバタバタと泳がせる。
「……離して。沙月さん、死響子いじめるから」
「いじめるって……人聞きの悪い言い方をしないで頂戴。ただの定期メンテナンスだよ」
沙月は静かに笑いながら深夏をソファへ座らし直し、その隣へ腰を下ろした。
深夏の手から死響子を受け取ると、迷いのない手つきで黒い真鍮フレームのロックを外し、内部を露わにする。
沙月は焼けた端子を一瞬だけ見つめ、小さく息を吐いた。
「……ここ、あと三分遅かったら完全に死んでた」
深夏は膝を抱え込んだまま、言葉の意味も分からない様子で、ただ沙月の指先を食い入るように見つめている。
「……痛いって言ってる」
「言ってない」
「……」
「言ってる」
「……そう聞こえるなら、あんたも大概だね」
沙月はあきれたように首を振ったが、その瞳には柔らかな情が落ちていた。
雨粒がガラスを叩く。
その音に混じって、沙月の指が止まった。
あの日、初めて深夏が沙月の前に現れた時も、同じ音だった。
◇
──八年前の、激しい土砂降りの日。
けたたましく鳴り響いた事務所の電話。
受話器を取った沙月の耳を打ったのは、激しいノイズに塗れた女の声だった。
『沙月……これから、私は死ぬ。深夏を……お願いね』
『待って! 今どこにいるの!?』
返事の代わりに、耳元で無機質な音だけが続いた。
ツー……ツー……
沙月は受話器を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
どれほど時間が経ったのか分からない。
やがて、玄関の方から水滴が落ちる音がした。
ぽた……。
振り返ると、そこに深夏が立っていた。
雨に濡れた制服。
肩から滴る水。
青白い顔で、何も言わず沙月を見つめている。
十五歳の少女は、まるで今までずっと雨の中に立っていたかのようだった。
その腕には、壊れそうなほど強く、黒い真鍮製の測定器──『死響子』が抱きかかえられていた。
◇
『……お願い、沙月さん……早くメンテナンス、終わらせて……』
「……沙月さん?」
深夏は震える唇をかみ締め、涙の混じった声で沙月を見上げていた。
沙月はまばたきを一つして、意識を引き戻した。
「……ああ、ごめんね。少し考え事をしていたよ」
沙月は小さく息を吐いて微笑を戻すと、死響子の背面に埋め込まれた小型ディスプレイを点灯させた。
「それで? 最近、死響子の挙動がおかしいんだって? どんな風にだい?」
「……ノイズの奥の音が、前より早く拾える。ゲインを上げなくても、向こうから響いてくる」
「ふむ……感度が高くなりすぎているのかね。よし、それじゃ本格的に内部のチューニングが必要だね。今日は死響子を預かるからね」
「……っ!絶対に、いや!」
深夏が弾かれたように拒絶する。
「ダメ。預けなさい」
「……絶対、嫌」
「いいのかい? 死響子が限界を迎えちゃっても」
深夏は絶望に顔を歪めると、そのままソファへ倒れ込み、背を向けて枕に顔を埋めた。
完全な不貞寝だった。
ガチャリ、と事務所のドアが開き、煙草を咥えた宗太が入ってくる。
「うっわ、すげぇ雨……お、社長来てたのか」
「……で、なんでまた、深夏はそんな丸まってんだ?」
「死響子を預かるって言ったら、これよ」
沙月が苦笑いを浮かべると、宗太は呆れ顔で頭をかき、深夏の襟首をひっつかんだ。
「ほら起きろ、深夏! 出かけるぞ!」
「……死響子ないから、行かない」
「死響子が無くても出来る仕事なんざ、山ほどあんだよ! いつも俺に調査だの聞き込みだの押し付けやがって! 今日こそは付き合え!」
「……やだ……」
嫌がる深夏を強引に引きずり出し、宗太は「お邪魔しましたー」と手を振ってドアを閉めた。
バタン、と重い音が響き、事務所に静寂が戻る。
残された雨音の中、沙月はデスクの上の死響子へと向き直った。
「やれやれ……全くあの子たちは」
腕時計を外すと、シャツを捲る。
専用の工具を取り出し、コア部分を覆う真鍮のシールドを静かに外そうとした、次の瞬間。
沙月の指先が凍りついた──。
指の腹で配線を追う。
途中で、ピタリと指が止まった。
この前メンテナンスした時には、確かに存在していなかった線。
なのに、まるで最初からそこにあったかのように深く馴染んでいる。
息を詰めたまま、沙月は背面ディスプレイに端末を接続した。
青白く光る液晶画面。
通常のエラーログではなく、見たこともない文字列が滑るように立ち上がっていく。
SYSTEM
UPDATE...
VOICE MAP: ■■■■■■■
UNKNOWN FUNCTION...
「……響子。あなたは、ここまで想定していたのかい?」
ぽつりと呟いた声は、雨音の中に消えた。
沙月はそのまま立ち尽くし、画面の明滅を見つめ続ける。
ゆっくりと手を伸ばし、死響子の漆黒のボディに触れた。
冷たかったはずの真鍮の表面に、ほんの少しだけ、温もりがあるような気がした。
「……相変わらずだね」
雨音の向こう側から、あの日の声が重なる。
『沙月、お願いね』
沙月はそっと目を閉じた。
「分かってるよ」
「最後まで付き合う」
「……世界で一番うつくしい音を、見つけようじゃないか」
なぁ、────響子。
(第二章 完)




