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死音録音師・石川深夏の異響怪異譚  作者: 比古狭霧
第一章 死音を拾う者

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第6話「帰宅音録音師・石川深夏」

朝の七時。


朝もやの残る住宅街を、黒いオーバーサイズのパーカーを着た深夏が、肩から重そうな集音器『死響子』を下げて歩いていた。

向かい側からやってきた登校途中の小学生たちが、深夏の姿を見るとひそひそと声をひそめる。


「ねえ、あれ幽霊集めてる変な人だよ!」


深夏は足を止め、無表情のままポツリと呟いた。

「……幽霊じゃないし。音を拾ってるだけ」


「ひっ、逃げろー!」


蜘蛛くもの子を散らすように走り去っていく不揃いな足音を見送りながら、深夏は小さく息を吐いた。

胸元の死響子をそっと愛おしそうになでる。


「……まあ、君の音も混ざってるけどね」


交差点にかかると、信号機がピヨピヨと電子音を鳴らしていた。

深夏はふと足を止め、信号機を見上げる。


普通の人間にはただの信号音にしか聞こえない。

だが、深夏の耳にはその奥にある小さなリレーが切り替わる金属音、電気が流れる微かな振動、古くなったスピーカーの膜が擦れる音が、はっきりと分離して聞こえていた。


「……少し、無理してる?」


深夏が呟くと、通り過ぎようとした小学生の一人が振り返った。


「……ぼく……ですか?」


「この信号」

「信号が?」


「うん。中のリレーが、もう限界に近い音をしてる」

「……」


少年は黄色いブザーの紐を握り締めながら、

その場から駆け足で離れて行った。


壊れる前兆の、ごく微細な摩擦と歪み。

深夏には、世界中のあらゆるものが少しずつ壊れていく音が聞こえていた。


新品のまま存在し続けられるものなど、この世界にはひとつもない。

ただ、他の人間にはそれが聞こえないだけだった。





アパートの二〇三号室。


ドアを開けると、静まり返った部屋が深夏を迎えた。

床には脱ぎ捨てられた服、机の上には音響解析用のノートPCと無数のコード。


「……ただいま」


当然、返事はない。

深夏は死響子を丁寧に机の真ん中に置くと、そっと語りかけた。


「……お疲れさま」


機械に挨拶を済ませ、シャワーを浴びるために脱衣所へ向かう。

浴室に入り、髪を濡らした深夏は、詰め替え用のパックから直接シャンプーを手にとった。


その時、脱衣所に置いていたスマホが震える。

スピーカーモードにすると、聞こえて来たのは宗太の声だった。


『おう、深夏。帰ったか? 何してんだ?』

「……シャワー。髪洗ってる」


『お前、どうせまた詰め替え容器から直接使ってんだろ』

「ポンプ嫌い」


『一応、聞いてやるけどなんでだよ』

「……まだ出せるふりをしてる音がするの」


『……はぁ?』


「本当はもう終わってるのに、無理してる音。役目を終えたなら、静かに終わらせてあげたい」


『……相変わらず、変なとこに目ェつけてんな』


宗太の呆れ混じりの声を聞きながら、深夏は髪を洗い流した。

今度はくしを取り出し、濡れた髪に通す。


サラ……、サラ……。


髪の毛の滑る心地よい音が浴室に響く。

深夏は満足そうに目を細めた。


「……これは好き」





午前十時。


カーテンを締め切った部屋で、

深夏は机から死響子を抱きかかえると、布団に潜り込んだ。


「今日は……絶対に寝る」

「今日……こ……そ」


「……」



ドンッ!


隣の部屋から、壁を叩くような重い音が響く。


ドタドタドタッ!


上の階から、子どもの元気な足音。

外の路地からは、「鬼ごっこしようぜー!」という無邪気な叫び声。


深夏は布団から顔だけをニュッと出してみせた。


「……」


ガバッと布団をめくり、死響子と顔を見合わせる。

集音ノズルを壁に向け、音の波形を確認した。


一瞬だけ仕事モードの鋭い目になったが、すぐに肩の力を抜く。

「……ただの生活音、か」


安堵したものの、結局、深夏の繊細すぎる鼓膜はあらゆる音を拾い続け、一向に眠りへ落ちることを許してくれなかった。





夕方。


結局ろくに眠れぬまま、深夏は宗太とともに依頼先へ向かう途中、駅のホームにいた。


大勢の人間が交差する構内。

重い靴音。カバンの金具が擦れる音。服の生地が触れ合う音。押し殺した溜息。


普通ならただの雑音の塊。

だが深夏には、一人ひとりが抱える「生活の音」として別々に響いていた。


擦り減ったかかとが鳴らす疲れた靴音。

急いで階段を駆け上がる浅い呼吸。

スマホを握りしめる指のかすかな摩擦。


深夏はふと足を止め、見渡した。


「どうした?」

「……人って」


「ん?」

「みんな、こんなに頑張ってる音がするんだね」


ゴォォォ……。


轟音とともに滑り込んできた電車を、乗客たちはただの大きな雑音として聞き流す。

しかし深夏には違っていた。


線路と車輪が噛み合う高い摩擦音。

ブレーキパッドの削れる熱い音。

ドア開閉装置の油圧音。

車体の金属が軋み、伸縮する音。


「……綺麗」


隣で缶コーヒーを飲んでいた宗太が横を見る。


「電車が?」

「うん」


「うるさいだけだろ」

「違う。すべての部品がそれぞれの役割を果たしながら、ひとつの音になってる」


「だから?」

「……安心する。壊れる音じゃないから」


途中、喉の渇きを覚えてコンビニの前で足を止めた。

店内から「ブーン」という低い駆動音が響いている。


コンプレッサーの振動、冷気を送るファンの音、床下の配管を流れる冷媒の音。


「……大変そう」


深夏がボソリと呟くと、品出しをしていた店員が怪訝そうに振り返った。


「何か、ありましたか?」


「ううん。この子、ずっと休まないで頑張ってるから」

「……はあ?」


店員は気味の悪いものを見る目で離れていった。


「お前な、普通の人間にそんなこと言うなよ」


呆れる宗太を無視して、深夏は店外の自販機にコインを入れた。


ガコン。


「……」


取り出し口から缶コーヒーを拾い上げ、深夏はジッと自販機を見つめる。


「何だよ」


「……この自販機、今ちょっと嬉しそうだった」

「……お前には、ただの機械音には聞こえないんだな」


宗太の静かな言葉に、深夏は缶の冷たさを確かめながら小さく頷いた。

「うん。ずっと待ってる音がしてたから。誰かが買ってくれるのを」


深夏は缶を握りしめ、言葉を継ぐ。

「音があるってことは、そこに『何か』が存在してるってこと」


「……」


「だから……死者の声も、残っていれば拾える」


宗太は言葉を飲み込み、静かに煙草の箱をポケットから取り出した。





事務所へ戻り、ソファに深く腰掛けた深夏は死んだような目をして天井を見つめていた。

デスクで書類をめくっていた宗太が呆れた視線のままたずねる。


「また、寝れなかったのか?」

「……三時間」


「十分だろ。俺なんて昨晩二時間だぞ」


「違う……三時間しか寝てない」

「だから十分だろ?」


深夏は自分のこめかみを指で軽く叩いた。

「違う……眠っていた時間の音と、休めた時間の音は違う」


「……は?」

「頭の奥で、ずっと砂嵐みたいな音がしてる」


「疲労の音まで聞こえるのかよ」

「うん」


「脳がまだ、昨日拾った音を整理できてない」

「……それ、便利なのか不便なのか分からんな」


「不便」



宗太が缶コーヒーを飲み干すと、席を立った。

「ちょっと煙草買ってくる」と事務所を出ていく。


一人残された深夏は、ぼんやりと宗太のデスクを見つめた。


鍵のかかった引き出し。

深夏はデスクにそっと指先を触れ、耳を澄ませた。


鍵穴の奥から聞こえる、金属どうしが不自然に噛み合っていない歪な雑音。

その音の支えが外れる方向へ、指先で引き出しを僅かに揺らしてみる。


ガチャン。


拍子抜けするほどあっけなく、引き出しのロックが外れた。

ちょうどそこへ、煙草を買ってきた宗太がドアを開けて入ってきた。

開いた引き出しを見て、宗太が顔をひきつらせた。


「お前……それ、何やってんだ!?」

「宗太先輩のデスクの鍵、前から変な音がしてたの」


「だからって勝手に開けるな! どうやって開けたんだよ」

「噛み合ってない音がしたところを、ちょっと揺らしただけ」


「……お前の耳、マジで気味悪いな」


宗太が呆れ果てて近寄ってくる。

深夏は開いた引き出しの中を覗き込んだ。


奥の方に、古いアルバムと一枚のフチが黄色く変色した写真が転がっていた。


写真には、三人の人間が写っている。

今より少し幼い深夏。不機嫌そうに煙草をくわえる若い宗太。


そして──二人の間にもう一人いた。

深夏は細い指先で、その人物の姿を、愛おしそうにそっとひと撫で整えた。


「……懐かしい」


宗太の指から、挟んでいた煙草の灰が、ハラリと床へ落ちた。

部屋の中の音が、すべて消え去ったような静寂。


「……まだ持ってたのか、それ」

「捨ててないよ。……写真って、苦手」


「……何も喋ってくれないから」

「……でも、忘れないよ」


宗太は何も言わず、ただ深く煙草の煙を吐き出した。

深夏もそれ以上は追求せず、写真を引き出しの奥へ戻した。


だが、そのまま引き出しを閉める深夏ではない。


「……よし」


深夏は自分のポケットから【小さな鈴】【賞味期限の切れたレモン飴】【丸い川原の石】、そして紙切れを取り出すと、引き出しの中に押し込んで鍵を閉めた。


紙切れには、下手くそな字でこう書かれている。

『宗太専用・おたからセット』


宗太は引き出しを二度叩き、深夏を睨みつけた。

「……お前、なんか余計なもん入れたろ」


「何も入れてない」

「絶対入れただろ。カチャカチャ音したぞ」


「気のせい。宗太先輩の耳が壊れてるの」

「そんな見え見えの嘘吐くな!」





夜が深まってきた。


深夏は事務所の古びた革張りソファに横になり、抱き枕のように死響子を両腕でしっかりと抱え込んだ。


「おい、そこで寝るなよ。自分の家に帰って寝ろ」


パソコンの画面に向かったまま、宗太が声をかける。

深夏は死響子に頬を寄せ、まぶたを閉じたまま呟いた。


「……ここが、一番静か」


「事務所だぞ? 外は幹線道路だし、トラックの音うるせぇだろ」


「ううん。宗太先輩のパソコンを叩く音と、タバコを吸う息の音しかないから……ここが一番、静かなの」


「……勝手にしろ」


宗太は苦笑し、キーボードを叩く打鍵音を少しだけ柔らかく落とした。


深夏のスヤスヤという小さな寝息。

宗太の規則的なキーボードの打鍵音と、紫煙(しえん)のくぐもった呼吸音。


死響子の針が、ほんの僅かに動いた。

画面には【死音反応なし】と表示されている。


記録されていたのは、死者の最後の音ではない。

深夏が眠る音。宗太が煙草を吸う音。誰かが帰ってくる場所の音。


生きている人間の、何気ない時間だった。

静かな響きだけが重なり合いながら、夜の事務所をゆっくりと満たしていった。

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