第5話「呪われた神鳴社の祟り声」
「……神様の祟り、ねぇ」
助手席のダッシュボードに置かれた依頼資料を、宗太は一瞥して鼻で笑った。
煙草の箱を指で叩きながら、廃道同然の山道を慎重に車を進めていく。
山間部にポツリと取り残された廃神社『神鳴社』。
十年前の巨大土砂崩れで麓の村が消滅して以来、完全に放棄された場所だ。夜になると境内から「帰れ」という女の金切声が響き、足を踏み入れた者は原因不明の高熱や「誰かに腕を掴まれた」という幻触に襲われる。
最近では動画配信者が境内から滑落して重傷を負い、都市伝説として尾ひれがついていた。
◇
山道の終点に、それはあった。
参道はもう存在せず、その入口に立つ鳥居だけが異様な姿で残っていた。
高さ四メートルほどの石鳥居。
しかし中央から、完全に二つに割れている。
右柱は斜めに沈み、左の柱だけがかろうじて立っている。まるで巨大な刃物で切断されたような断面には、黒い苔がびっしりと張り付いていた。
宗太が車を降り、割れた鳥居を見上げた。
「……変だな」
「何が?」
深夏が尋ねると、宗太は裂けた石柱の断面を指で撫でた。
「壊れ方だ。鳥居ってのは境目だ。向こう側とこっち側を分けるために、人間が置いた線みたいなもんだ。だから普通は、老朽化で倒れるか、折れて崩れる。……だがこれは違う。境界だけが、途中で切れてる」
割れた鳥居の中央。
一本の割れ目を境にして、左側の敷石は小雨で湿って黒ずんでいるのに、右側の敷石と枯れ葉はまるで骨のようにカラカラに乾いていた。
「……神鳴社って名前、偶然じゃないだろ」
宗太が古びた社号板を見上げる。
「昔、この辺りでは山が鳴ると言われていた。地鳴りだ。土砂が崩れる前の音、木々が裂ける音、地下の水が動く音。……科学的にはただの地滑りの予兆だが、昔の人間はそれを『神様の声』だと思った。だから聞くための場所を作ったんだ」
宗太の懐中電灯の光が、拝殿の敷居に転がる古い道具を照らし出す。
それは素焼きの土器に金属の膜を張り巡らせた、奇妙な古代の集音具の成れの果てだった。
深夏が不意に引き寄せられるように、その土器に指先で触れた。
その瞬間──深夏の膝に抱えられた『死響子』のメインモニターが、異様な警告音を立てて明滅した。
【未知音響媒体】
【解析不能】
【年代情報:取得不可】
【波形履歴:既存データベース未登録】
「……死響子が、反応してる」
「宮守は神主や巫女じゃない。山の音を聞き分けるためだけに存在した、専門の家系だ。……神鳴社は祈る場所じゃない。山がもたらす死の兆候を『聞く場所』だったんだ」
深夏の指が、抱え込んだ死響子の冷たい真鍮を強く握りしめる。
「死の兆候を……聞く場所」
「……祟りじゃないよ」
鳥居の裂け目から溢れ出す冷気に耳を向けながら、深夏が静かに言った。
「神様も謀りも……勝手に人が名付けただけ」
◇
割れた鳥居を潜り、境内の領域へ足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような冷気が二人を包み込んだ。
外部の自然音が遮断された静寂の中で、二人の足音だけが歪に響く。
深夏の右耳裏の電極が、チカチカと不吉な朱色の光を明滅させている。
「……宗太先輩、周囲の音圧がおかしい」
その時、後方から『ガシャン!!』と凄まじい金属音が響いた。
いま潜ったばかりの割れた鳥居の根本から、古い案内図の鉄板が何者かに蹴破られたように倒れていた。さらに、二人の足元を囲むように「ペタ……ペタ……」という湿った足音が、境界線の内側をぐるぐると回り始める。
石灯籠の影から、かつてこの境界を越えて侵入した参拝客たちの「声の断片」が漏れ出していた。
『うわあああっ! 誰だ、足を引っ張る奴は!』
『帰れ……帰れ……!』
『熱が……体が燃えるように熱い……!』
「これ、過去に来た奴らの恐怖が境界の中に充満して再生されてるのか!?」
「……違う」
深夏は耳裏の電極を強く押し当て、激しいノイズの奥にある「芯の音」を聞き分けようと眉をひそめた。
「追い払ってるんじゃない……。この声の底……別の音が混ざってる」
深夏は死響子のダイアルを慎重に回した。
ノイズを一段ずつ削ぎ落としていく。
『……げて……っ!』
『山が……鳴ってる……!』
「……『逃げて』?」
「うん。怒りじゃない。恐怖でもない」
深夏は拝殿の暗がりを見つめた。
「『逃げて』って……ずっと誰かに伝えようとしてる」
拝殿の重い扉が、ギィ……とひとりでに開いた。
奥の暗がりから、甲高い少女の悲鳴が叩きつけられる。
『来ないで……っ! ここから離れて……!』
ぞわりと肌が泡立つ拒絶の波動。
だが、深夏はその圧力を真っ向から受け止め、死響子のマイクをまっすぐ向けた。
「聴いて、宗太先輩。少女の声の後ろ……」
バリバリバリッ……!!
死響子のスピーカーから、山が裂ける凄惨な鳴動が弾けた。
ドス黒い土砂が木々を薙ぎ倒して社殿を飲み込んでいく、十年前の破滅の音。
『父さん、まだ間に合う……!』
『みんなに……言わなきゃ……!』
宗太が低く息を呑んだ。
「……これが、最後の宮守の声か」
土砂に飲まれる最後の瞬間まで、地面に耳を押し当て、崩落を告げて村人を逃がそうとしていた子供。
崩落の恐怖と、「伝えなければならない」という強い使命感。その最後の三秒間が、十年という歳月の中で歪み、境界に入った者を無理やり追い出そうとする「祟り」へと化けていた。
『聞こえるなら、逃げて……! まだ、山が崩れる……!』
脳裏に直接届く、少女の痛切な叫び。
深夏は死響子を抱えたまま、暗闇の中で揺らめく泥まみれの少女の影へ、一歩足を踏み出した。
「……もう崩れてないよ」
「崩落は、十年に終わったの。村の人たちも……みんな逃げたよ」
『……え?』
少女の影がピタリと動きを止める。
「あなたは最後まで聞いた。自分の耳を塞がないで、役割を果たしたの。……だから、もういいんだよ。あなたはもう、誰も救わなくていい」
静寂が訪れた。
拝殿を覆っていた激しい圧力が、潮が引くように消えていく。
少女の影は泥を拭うように顔をほころばせ、最後にかすかな笑顔を残して、夜風の中へと溶けていった。
『……そっか。もう……聞かなくても、いいんだね』
◇
山道を下る白いワゴン車の中。
カビ臭いヒーターの音だけが、静かに車内を満たしている。
深夏は膝の上の死響子を見つめていた。
画面には、静かに確定された処理結果が表示されている。
【ID: 0502】
【TARGET: 神鳴社・宮守の声】
【TYPE: 守護残響型(GUARDIAN)】
【TIME: 00:00】
【STATUS: RECORDING FAILED】
【CAUSE: 対象音響体が保存を拒否】
【RESULT: 消失を確認】
「……録音、しなかったな」
「うん。残したら、またあの場所に縛り付けちゃう気がしたから」
「そうか」
宗太は何も言わず、ただフッと短く笑ってアクセルを踏み込んだ。
「……もし俺なら」
宗太は前を見つめたまま、低く煙草の煙を吐き出した。
「一度だけでいい。確認したい声がある」
「誰の?」
「……もう、聞けない声だ」
宗太はそれ以上語らず、夜のバイパスへと車を進めた。
深夏は少し不思議そうに彼の横顔を見つめたが、それ以上は追及しなかった。
◇
深夜二時。
事務所の静寂の中。
デスクの上に置かれた死響子が、電源が落ちているにもかかわらず、静かに液晶画面を青く発光させた。
画面の上に、見たこともないログが自動で生成されていく。
【UNKNOWN DATA】
【TARGET: 死響子内部・最深領域】
【TYPE: 未分類】
【STATUS: ACTIVE】
【ERROR】
【登録者:石川深夏】
【照合対象:過去記録 響子】
【警告:記憶情報との不一致】
カチリ。
スピーカーの奥底から、微かなノイズが漏れ出した。
不鮮明なノイズの隙間から声が囁く。
『……深夏、聞こえてる?』
深夏はまだ知らない。
死響子の奥底に残された音が、かつて共に過ごした少女の最後の記録であることを。
そして、その音の中に、自分自身が失った記憶の断片が眠っていることを。




