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死音録音師・石川深夏の異響怪異譚  作者: 比古狭霧
第一章 死音を拾う者

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第5話「呪われた神鳴社の祟り声」

「……神様の祟り、ねぇ」


助手席のダッシュボードに置かれた依頼資料を、宗太は一瞥して鼻で笑った。

煙草の箱を指で叩きながら、廃道同然の山道を慎重に車を進めていく。


山間部にポツリと取り残された廃神社『神鳴社かんなぎしゃ』。

十年前の巨大土砂崩れで麓の村が消滅して以来、完全に放棄された場所だ。夜になると境内から「帰れ」という女の金切声が響き、足を踏み入れた者は原因不明の高熱や「誰かに腕を掴まれた」という幻触に襲われる。


最近では動画配信者が境内から滑落して重傷を負い、都市伝説として尾ひれがついていた。





山道の終点に、それはあった。


参道はもう存在せず、その入口に立つ鳥居だけが異様な姿で残っていた。

高さ四メートルほどの石鳥居。


しかし中央から、完全に二つに割れている。

右柱は斜めに沈み、左の柱だけがかろうじて立っている。まるで巨大な刃物で切断されたような断面には、黒い苔がびっしりと張り付いていた。


宗太が車を降り、割れた鳥居を見上げた。


「……変だな」

「何が?」


深夏が尋ねると、宗太は裂けた石柱の断面を指で撫でた。


「壊れ方だ。鳥居ってのは境目だ。向こう側とこっち側を分けるために、人間が置いた線みたいなもんだ。だから普通は、老朽化で倒れるか、折れて崩れる。……だがこれは違う。境界だけが、途中で切れてる」


割れた鳥居の中央。

一本の割れ目を境にして、左側の敷石は小雨で湿って黒ずんでいるのに、右側の敷石と枯れ葉はまるで骨のようにカラカラに乾いていた。


「……神鳴社って名前、偶然じゃないだろ」


宗太が古びた社号板を見上げる。


「昔、この辺りでは山が鳴ると言われていた。地鳴りだ。土砂が崩れる前の音、木々が裂ける音、地下の水が動く音。……科学的にはただの地滑りの予兆だが、昔の人間はそれを『神様の声』だと思った。だから聞くための場所を作ったんだ」


宗太の懐中電灯の光が、拝殿の敷居に転がる古い道具を照らし出す。

それは素焼きの土器に金属の膜を張り巡らせた、奇妙な古代の集音具の成れの果てだった。


深夏が不意に引き寄せられるように、その土器に指先で触れた。

その瞬間──深夏の膝に抱えられた『死響子しきょうし』のメインモニターが、異様な警告音を立てて明滅した。


【未知音響媒体】

【解析不能】

【年代情報:取得不可】

【波形履歴:既存データベース未登録】


「……死響子が、反応してる」


宮守みやもりは神主や巫女じゃない。山の音を聞き分けるためだけに存在した、専門の家系だ。……神鳴社は祈る場所じゃない。山がもたらす死の兆候を『聞く場所』だったんだ」


深夏の指が、抱え込んだ死響子の冷たい真鍮を強く握りしめる。

「死の兆候を……聞く場所」


「……祟りじゃないよ」

鳥居の裂け目から溢れ出す冷気に耳を向けながら、深夏が静かに言った。


「神様も謀りも……勝手に人が名付けただけ」





割れた鳥居を潜り、境内の領域へ足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような冷気が二人を包み込んだ。

外部の自然音が遮断された静寂の中で、二人の足音だけが歪に響く。


深夏の右耳裏の電極が、チカチカと不吉な朱色の光を明滅させている。


「……宗太先輩、周囲の音圧がおかしい」


その時、後方から『ガシャン!!』と凄まじい金属音が響いた。

いま潜ったばかりの割れた鳥居の根本から、古い案内図の鉄板が何者かに蹴破られたように倒れていた。さらに、二人の足元を囲むように「ペタ……ペタ……」という湿った足音が、境界線の内側をぐるぐると回り始める。


石灯籠の影から、かつてこの境界を越えて侵入した参拝客たちの「声の断片」が漏れ出していた。


『うわあああっ! 誰だ、足を引っ張る奴は!』

『帰れ……帰れ……!』

『熱が……体が燃えるように熱い……!』


「これ、過去に来た奴らの恐怖が境界の中に充満して再生されてるのか!?」


「……違う」


深夏は耳裏の電極を強く押し当て、激しいノイズの奥にある「芯の音」を聞き分けようと眉をひそめた。


「追い払ってるんじゃない……。この声の底……別の音が混ざってる」


深夏は死響子のダイアルを慎重に回した。

ノイズを一段ずつ削ぎ落としていく。


『……げて……っ!』

『山が……鳴ってる……!』


「……『逃げて』?」

「うん。怒りじゃない。恐怖でもない」


深夏は拝殿の暗がりを見つめた。


「『逃げて』って……ずっと誰かに伝えようとしてる」


拝殿の重い扉が、ギィ……とひとりでに開いた。

奥の暗がりから、甲高い少女の悲鳴が叩きつけられる。


『来ないで……っ! ここから離れて……!』


ぞわりと肌が泡立つ拒絶の波動。

だが、深夏はその圧力を真っ向から受け止め、死響子のマイクをまっすぐ向けた。


「聴いて、宗太先輩。少女の声の後ろ……」



バリバリバリッ……!!


死響子のスピーカーから、山が裂ける凄惨な鳴動が弾けた。

ドス黒い土砂が木々を薙ぎ倒して社殿を飲み込んでいく、十年前の破滅の音。


『父さん、まだ間に合う……!』

『みんなに……言わなきゃ……!』


宗太が低く息を呑んだ。

「……これが、最後の宮守の声か」


土砂に飲まれる最後の瞬間まで、地面に耳を押し当て、崩落を告げて村人を逃がそうとしていた子供。

崩落の恐怖と、「伝えなければならない」という強い使命感。その最後の三秒間が、十年という歳月の中で歪み、境界に入った者を無理やり追い出そうとする「祟り」へと化けていた。


『聞こえるなら、逃げて……! まだ、山が崩れる……!』


脳裏に直接届く、少女の痛切な叫び。

深夏は死響子を抱えたまま、暗闇の中で揺らめく泥まみれの少女の影へ、一歩足を踏み出した。


「……もう崩れてないよ」

「崩落は、十年に終わったの。村の人たちも……みんな逃げたよ」


『……え?』


少女の影がピタリと動きを止める。


「あなたは最後まで聞いた。自分の耳を塞がないで、役割を果たしたの。……だから、もういいんだよ。あなたはもう、誰も救わなくていい」


静寂が訪れた。

拝殿を覆っていた激しい圧力が、潮が引くように消えていく。


少女の影は泥を拭うように顔をほころばせ、最後にかすかな笑顔を残して、夜風の中へと溶けていった。


『……そっか。もう……聞かなくても、いいんだね』





山道を下る白いワゴン車の中。

カビ臭いヒーターの音だけが、静かに車内を満たしている。


深夏は膝の上の死響子を見つめていた。

画面には、静かに確定された処理結果が表示されている。


【ID: 0502】

【TARGET: 神鳴社・宮守の声】

【TYPE: 守護残響型(GUARDIAN)】

【TIME: 00:00】

【STATUS: RECORDING FAILED】

【CAUSE: 対象音響体が保存を拒否】

【RESULT: 消失を確認】


「……録音、しなかったな」

「うん。残したら、またあの場所に縛り付けちゃう気がしたから」


「そうか」


宗太は何も言わず、ただフッと短く笑ってアクセルを踏み込んだ。


「……もし俺なら」


宗太は前を見つめたまま、低く煙草の煙を吐き出した。


「一度だけでいい。確認したい声がある」


「誰の?」


「……もう、聞けない声だ」


宗太はそれ以上語らず、夜のバイパスへと車を進めた。

深夏は少し不思議そうに彼の横顔を見つめたが、それ以上は追及しなかった。





深夜二時。

事務所の静寂の中。


デスクの上に置かれた死響子が、電源が落ちているにもかかわらず、静かに液晶画面を青く発光させた。


画面の上に、見たこともないログが自動で生成されていく。


【UNKNOWN DATA】

【TARGET: 死響子内部・最深領域】

【TYPE: 未分類】

【STATUS: ACTIVE】


【ERROR】

【登録者:石川深夏】

【照合対象:過去記録 響子】

【警告:記憶情報との不一致】


カチリ。


スピーカーの奥底から、微かなノイズが漏れ出した。

不鮮明なノイズの隙間から声が囁く。


『……深夏、聞こえてる?』


深夏はまだ知らない。

死響子の奥底に残された音が、かつて共に過ごした少女の最後の記録であることを。

そして、その音の中に、自分自身が失った記憶の断片が眠っていることを。

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