第4話「さくら団地の逆足音」
取り壊しを翌月に控えた「さくら団地」は、夕暮れの街の中で巨大な灰色の墓標のように聳え立っていた。
人が去った場所は、普通なら死んだ場所だと思われる。
でも、深夏には違って見えていた。
「……まだ、帰ってきてる」
助手席で資料を眺めていた深夏が、ぽつりと言った。
「何がだよ急に」
ワゴン車を運転しながら、宗太は呆れたように眉をひそめた。
「人がいなくなった場所って、不思議なんだよね。誰もいないのに、まだ生活してる音がする。閉め忘れた蛇口の水滴とか、床を踏む微かなきしみとか……そこにいた人が消えた後も、その人がいた時間だけは消えないの」
「それって、幽霊と何が違うんだ?」
「全然違う……」
深夏は即答し、窓の外の寂れた建物へ視線を向けた。
「幽霊は死んだ人だけど……音は、生きていた人の証拠。人はいなくなっても、音だけは帰ってくるの」
宗太は少しだけ黙り、煙草の箱を指で弄った。
「……まぁいいや。今回は珍しく静かな依頼だ」
宗太が車を停め、廃虚のような敷地を見上げた。
「ノイローゼ気味の元清掃員の老人が言ってたぜ。誰もいないはずの四〇一号室から、毎晩午前三時になると鍵の音がして、誰かが帰ってくるような気がするけど、しばらくしたらまた玄関まで足音が戻ってくるんだと。……どうだ、深夏。何か聴こえるか?」
階段を上りながら、深夏の胸元で古びた真鍮製の集音器『死響子』が重たく揺れていた。
深夏は静かに首を横に振る。
「……うん。怒りも、憎しみも、悲鳴もない。ただ……すごく愛おしい音」
四〇一号室のドアの前で足を止める。鍵は開いていた。
埃っぽい室内に入り、深夏は静かに死響子の集音ノズル、指向性音響センサー部を空間へ向けた。
カチャッ。トントン……。
目には見えないが、微かな音が耳の奥に届く。
台所で小さく食器を重ねる音。子供用の低い椅子を引く音。小さな鼻歌。
「……二人暮らしだったんだね」
深夏がぽつりと呟いた。
「分かるのか!?」
「うん。すごく大切に、ここで暮らしてた音が残ってる……この部屋、まだ帰ってくる人を待ってるんだよ」
畳の上に、幼い少女が一人、ぽつんと正座していた。
薄桃色のワンピース。膝の上でぎゅっと握りしめられた小さな拳。彼女は生きている人間ではない。数年前にこの部屋で病没した、耳の不自由だった少女──清水明音の残影だった。
明音は深夏たちを見上げると、怯えたように首を振り、必死に訴えかけてきた。
『来ないで。お父さんを連れて行かないで』
「……深夏、時間だ」
宗太が腕時計を示した。午前三時。
その瞬間。
カチャッ。
四〇一号室の玄関の鍵が、誰もいないのに回った。
毎晩、仕事を終えて階段を上ると、明音の父親は真っ先に玄関の壁にある小さなスイッチを押した。
耳の聞こえない娘に、自分が帰ってきたことを伝えるための灯り。
カチッ。
硬い金属音が響くと同時に、奥の部屋の鴨居に据えられた小さな電球が、あたたかなオレンジ色の光を灯す。
それが、言葉を持たない二人の「ただいま」と「おかえり」。
足音の主は、明音の父親だった。
──だが、あの日。
キィィィィィッ!!
団地のすぐ手前の横断歩道で、悲鳴のような惨劇が父親を襲った。
夜の湿ったアスファルトを凄まじい摩擦音が引き裂く。
ドンッ!!
骨肉を砕く鈍い衝撃と、車体がへしゃげる凄惨な狂音。
宙に投げ出され、冷たいコンクリートの上に叩きつけられた父親は、自分の身体から急速に温度が奪われていくのを感じていた。
もう、助からない。
破裂した視界の中で、霞んでいく団地の四階を見上げながら、父親の脳裏に浮かんだのは恐怖ではなく、たった一つの心残りだった。
──明音にまだ、帰ってきたことを知らせていない。
父親は指一本動かすのも激痛が走る腕を泥と血に塗れさせ、這った。
地面を這い、階段を血で汚しながら上り、ドアノブにしがみつく。
ガチャリと鍵を開け、震える指先で壁のスイッチを押し込んだ。
暗闇の深緑の畳を、小さなランプの灯りが優しく照らし出す。
その光を視界の端に捉えた瞬間、父親の胸から、かすかな息とともに言葉が漏れた。
『……ただいま』
それが、彼の命が途切れる最期の瞬間だった。
そして──その必死の願いと執念だけが、この四〇一号室の空間に焼き付いて離れなくなった。
だから、午前三時に今も、
静まり返った四〇一号室で、誰もいない玄関の鍵が独りでに回る。
カチャッ……。
錆びついた金属が噛み合う不気味な音に続いて、廊下に足音が響き始める。
タッ……タッ……。
部屋の中へ向かって歩き出す足音。
父親が愛おしい娘の元へ辿り着こうとする、切実な歩み。
だが──廊下の半ばで、足音はピタリと止まる。
あの日、彼の命が途絶えたその場所で。
次の瞬間、ぞわりと背筋が凍りつくような異変が起きた。
足音が、反転する。
タッ……タッ……。
部屋へ向かうはずの足音が、時間を巻き戻すように、玄関の方角へ向かって遠ざかっていく。
娘の待つ場所へ進もうとすればするほど、死が訪れた事故の瞬間へ引き戻され、何度歩き出しても玄関へと押し戻されてしまう。
帰ろうとしているのに。
どれだけ歩んでも、娘の元へ帰り着くことができない。
「……逆足音」
深夏は掠れた声で呟き、暗闇の中に残された父親の足掻きに、胸を締め付けられていた。
「ただいま」と言おうとして、言えなかった場所まで戻される。
父親の強い愛おしさが、事故の瞬間と固着し、永遠のループとなって部屋を縛っていた。
深夏は死響子を向け、重圧のなかでレバーをゆっくりと倒した。
真鍮の歯車が静かに噛み合い、巻き戻り続けていた記憶の波形が正再生へと滑り出す。
逆向きの足音が止まり、玄関の灯りと共に
優しい声が木霊する。
『……ただいま』
『……』
そして──
キィィィィィッ!! ドンッ!! ガシャァン!!
父親を容赦なく奪い去った現実の破壊音が、遅れて部屋を満たす。
死響子のサブモニターが、静かに警告を告げた。
【音声分類:足音】
【付随音:事故発生音(危険度:高/精神侵食性あり)】
「深夏、ダメだ!」
「この音を放置すれば、明音は永遠に父親が死んだ恐怖を繰り返すことになる! 消すんだ!」
深夏は震える声で首を振った。
「違う……」
「これは……ただの事故の音なんかじゃない」
「深夏……」
「この人は……この場所で、ただ『ただいま』を言いたかっただけなんだよ……」
明音がボロボロと涙を流し、深夏の裾をぎゅっと掴み、
少女の唇が、音のない言葉を必死に紡いだ。
「……お願い」
「あの灯りだけは……消さないで」
「あの灯りが点くときだけ……お父さんが、私のもとに帰ってきてる気がするの……!」
深夏の手が、激しく震えた。
この音を残せば、少女は永久に事故の残酷な残響から解放されない。
けれど消せば、二人を結ぶ唯一の「灯り」すら、世界から完全に消滅する。
残すことが、救いなのか。
消すことが、優しさなのか。
(……でも)
深夏は泣きじゃくる明音の頭にそっと手を重ね、目を閉じた。
(こんな風に縛られ続けるなんて……二人とも、悲しすぎるよ)
「……ごめんね」
深夏の頬を、一筋の涙が伝う。
「私が入れるね……終止符」
「嫌あぁぁぁっ……!」
明音の痛切な拒絶が空間を揺らす中、深夏は死響子の黒いレバー──
【消音】を強く押し下げた。
ガチリ。
すべてを吸い尽くす不協和音が弾け、父親の足音も、凄惨な事故の衝撃音も、灯りのカチッという音も、二人を縛り続けていた愛おしくも哀しい呪いのすべてが、真鍮の筒の中へ吸い込まれて消えた。
室内にはただ、二度と戻らない暗闇と静寂だけが残された。
◇
帰り道。
夜のバイパス沿いを走る車内は、重苦しい沈黙に包まれていた。
助手席の深夏は、膝の上で冷たくなった死響子をじっと見つめている。
「……珍しいな。お前が死音を消去なんてな」
ハンドルを握る宗太が、煙草をくわえながら低く言った。
「音は……人がそこにいた証拠だって、思ってた」
深夏の声が、微かに震える。
「声を届けられなかった人のために、私が代わりに覚えておいてあげなきゃいけないんだって。でも……残したことで、ずっと苦しむ音もある」
「……これから、どうするんだ」
「分からない。残すべき音なのか、消すべき音なのか……聞いてみないと、もう分からないよ」
宗太は前を見つめたまま、低く煙草の煙を吐き出した。
「……じゃあ」
「俺たちは今まで、何を録ってたんだろうな」
深夏はただ膝の上の死響子を強く抱きしめ、流れていく外の暗闇を見つめ続けた。
◇
静かな事務所の中。
停止したままの画面だけが、青白く深夏の顔を照らしていた。
事務所に戻り、深夏は死響子をPCへ接続した。
新規ファイルが生成される。
【ID:0501】
【TARGET: さくら団地401号室・帰宅音】
【TYPE: 執着残響型(ATTACHMENT)】
【TIME: 00:08】
深夏はしばらく、その表示を見つめていた。
それは、いつもなら保存されるはずの音。
誰かの最後の証言。
誰かが生きていた証。
しかし今回は──。
【処理選択】
【SAVE】
【ERASE】
深夏の選択は、後者だった。
【ERASE COMPLETE】
画面が暗転した数秒後。
一つだけ、存在しないはずのログが浮かび上がった。
【ID:0501】
【TARGET: UNKNOWN】
【TYPE: NONE】
【TIME:00:00】
【WARNING】
【削除された音声が、保存領域外で再生されています】
深夏の指が止まる。
「……消したはずなのに」
スピーカーから、かすかな音が流れた。
カチャッ。
...
キィ。
そして。
『……ただいま』
深夏は息を呑んだ。
それは、明音の父親の声ではない。
死響子の奥から響いた、別の誰かの「帰宅音」だった。




